第19話 流れる涙を月のせい
朔は石段を駆け上がる。
荒々しい足音が響く。それはまるで、今の彼自身の鼓動のようだ――リズムも、規則性もなく、ただ混乱と焦燥だけがある。風に煽られた浴衣の裾が足に絡まり、あわや転びそうになるが、なんとか踏みとどまる。転ぶわけにはいかない。そんな時間はないのだ。
石段は長い。
一番高い場所にある神社の本殿が、提灯の明かりに照らされて半ば闇に沈んでいる。両脇の石灯籠には蝋燭が灯り、その火が夜風に揺れ、朔の影を長く引き伸ばす。石段に落ちたその影は、何かを追いかける黒い幽霊のようだ。
結月は本殿前の踊り場に立っている。
薄紫色の浴衣が月光の下で淡く霞み、夜の闇に溶け込んでしまいそうだ。提灯の明かりに藤の花の模様が浮かび上がり、まるでゆっくりと散っていくように見える。髪は結い上げたままだが、簪が斜めに傾いている――おそらく人混みに揉まれたか、それとも――ここまで走ってくる間にずれてしまったのだろう。
彼女の表情はひどく穏やかだ。
が、手が震えている。
寒さからではない。
必死に耐えているのだ。
「結月」
朔は駆け上がり、彼女の前に立ち、息を切らす。
「走るの、早いね」
「お前——」
「全部、見てるから」
灰色の瞳が、真っ直ぐに朔を見据えている。
「月乃森さんが、あなたにキスをするのを。あなたが、彼女を突き離さないのを」
朔は口を開きかける。
弁解しようとする。
しかし、何を弁解するというのか?
詩織を突き離さなかった、それは紛れもない事実。
どんな理由があろうと——体が動かない、頭が真っ白になる、どうすればいいか分からない——彼は突き離さないのだ。
それが事実。
「どうして、突き離さないの?」
「俺は——」
「突き離したくないから? それとも、動けないから?」結月が代わりに答える。
「前者なら、私からは何も言うことはない。もし後者なら——」
彼女は言葉を切る。
「それでも、何も変わらない」
彼女は彼を見つめる。灰色の瞳に涙はなく、怒りもなく、ただ胸が張り裂けそうなほどの静けさだけがある。
「だって、『したくない』にせよ『動けない』にせよ、結果は同じ。彼女はあなたを突き離さない。あなたは彼女を突き離さない。あなたたちは、キスをしている」
「結月——」
「待っているの——あなたが『待ってくれ』って言うあの日から、ずっと待っている。あなたが考えをまとめて、選択を下して、私に伝えに来てくれるのを『好きだ』か、『好きじゃない』かを」
「ずっと、待っている」
「でも待つ間、考えるの——あなたは誰を選ぶのかって。陽葵?月乃森さん? それとも、私?」
「何度も考える。そして毎回、答えが違う」
「そのうち、考えるのはやめる。考えても無駄だから。待つことしか、意味がないから」
「でも、待つのにも限界がある」
彼女の声が震え始める。
「一ヶ月、二ヶ月、半年、一年——いくらでも待てる。でも、何を待っているのか分からない人を待つことはできない」
「あなた自身が何を求めているのかすら分からないなら、私は一体何を待っているの?」
朔は彼女を見つめる。
震える唇を、赤く染まる目元を、浴衣の袖を固く握りしめるその指先を見つめている。
「結月。俺は誰を選ぶのか分からない。でも、これだけは分かる——」
「何が分かるの?」
「お前を泣かせたくないってことだけは」
ついに、結月の涙が零れ落ちる。
号泣ではない。
静かな、音のない、長く耐え忍んでついに堪えきれなくなったかのような涙。
「浅倉朔」
「あなた、本当にひどい」
「分かってる」
「私を泣かせたくないって言うのに、あなたのすることはどれも私を泣かせたくなることばかり」
「分かってる」
「誰を選ぶか分からないって言うけど、彼女を突き離さない——それ自体が、一つの選択」
朔は押し黙る。
「突き離さないのは、彼女を受け入れるという意味。彼女があなたを好きなこと、彼女があなたにキスすること、彼女があなたの人生に入り込むこと。あなたは、拒まない」
「拒まないのは、受け入れるということ」
手の甲で涙を拭い、彼女は深く息を吸い込む。
「だから——もう選ばなくていい」
「もう、分かっているから」
彼女は背を向け、朔に背中を見せる。
「結月——」
「戻って。彼女が待っている」
「誰が?」
「月乃森さん。それに陽葵」
「二人とも、あなたを待っている」
「そして、私はもう待ち終えるから」
「何を?」
「答えを。あなたの口から直接聞くわけじゃないけど、ちゃんと聞こえているから」
彼女は足を踏み出し、石段を下り始める。
薄紫色の浴衣が夜風に揺れ、藤の花の模様が月光に霞む。まるで、ゆっくりと消えゆくかのように。
「結月——!」
朔は追いかけ、彼女の手首を掴む。
結月は足を止める。
振り返らない。
「離して」
「離さない」
「浅倉——」
「離さないって」
「離さないと、あなたが私を選んでくれるって、勘違いするわ」
「でも、あなたは私を選ばない。ただ私を行かせたくないだけ」
「行かせたくないのと、傍にいてほしいのは——違うのよ」
彼女の言う通りだ。
行かせたくない。
しかし、「傍にいてほしい」とは口に出せない。
なぜなら、「傍にいてほしい」は選択を意味する。
そして彼は、まだ選択を下していない。
結月は、そっと彼の手を振りほどく。
「ほらね。あなたは『傍にいて』すら言えない」
彼女は歩き出す。
下駄が石段を鳴らし、乾いた「カラン、コロン」という音を響かせる。
一つ、また一つ。
遠ざかる。
小さくなる。
そして最後には、夜風の中へと消えていく。
朔はその場に立ち尽くし、闇に消える彼女の後ろ姿を見つめている。
手首を掴んでいた時の手の形を残したまま。
空っぽのまま。
夜風が吹き抜け、花火の硝煙の残り香と、遠くの喧噪を運んでくる。
花火はまだ打ち上がっている。
しかし朔には、世界が静まり返るように感じる。
自身の鼓動が聞こえるほどの静寂。
ドクン、ドクン、ドクン。
ひどく遅い。
ひどく重い。
何かが胸の奥を打ち据えているかのように。
「先輩」
背後には陽葵が立っている。月明かりの下では赤い浴衣はずっと暗く沈み、金色のヒマワリの模様ももはや輝きを失い、まるで夜色に染め抜かれたかのようだ。
彼女の表情は——
先ほど詩織に宣戦布告した時の高揚はない。
むしろ静かで、どこか疲れを帯び、何かを耐え忍ぶような表情をしている。
「陽葵」
「先輩、そんなに悲しまないで。神城先輩、本気でいなくなるわけじゃないよ。ただ、少し時間が必要なだけ」
「どうして分かる?」
「だって私にもあるもん。怒る時、悲しい時、一人になりたいって思うこと。本当に離れたいわけじゃない——ただ、消化する時間が必要なだけ」
「先輩」
陽葵が一歩近づき、彼を見上げる。
「今、何を考えてるの?」
「俺は一体、何をしてしまうんだろうって」
「何をするの?」
「全員を傷つけることを」
「先輩は私たちを傷つけたりなんかしない。先輩を好きになるって選ぶのは、私たち自身だよ。誰かを好きになるなら、傷つくリスクだって背負わなきゃ。これは私たちの選択。先輩のせいじゃない」
「でも——」
「でも、自分がもっと早く選択を下すなら、こんなに苦しめることはないって思うんでしょ?」陽葵が言葉を引き継ぐ。
「違う?」
朔は頷く。
「先輩、一つの疑問について考えること、ある?」
「何?」
「もしかしたら——先輩が早く選択しないんじゃなくて。本当は、最初から選択なんてできないんじゃないかって」
「だって。先輩は、私たちの全員が好きなんだから」
朔の呼吸が一拍止まる。
「神城先輩が好きで、放っておけない。詩織先輩が好きで、惹かれる。私のことも好き——そういう意味の好きじゃなくても、一緒にいるのが好き」
「選べないのは、誰も失いたくないから」
「だから——選ばないでいいの」
「え?」
「選ばないで。現状維持。迷い続ける。『分からない』ままでいる。だって——そうすれば、私たち三人は誰も先輩を失わずに済む」
「でもお前たちが傷つく」
「傷つくのもいいよ」
陽葵は笑う。その笑顔には一抹の苦さが混じっている。
「少なくとも、傍にはいられるから」
「陽葵——」
「先輩、知ってる? さっき私が『負けない』って言うのは、勝てる自信があるからじゃないの。だって——『負ける』って口にするなら、本当に負けちゃう気がするから」
「だから『負けない』って言うの。百回でも千回でも、私自身が信じ込めるまで」
「そうしないと、先輩の傍に立ち続けることなんてできないから」
彼女の目元が赤く染まる。
「先輩、私って馬鹿みたいでしょ?」
「馬鹿じゃない」
「嘘つき。私、超馬鹿だよ。先輩の心に他の人がいるって分かっているのに、手放せないんだから。先輩が一生私を選ばないかもしれないって分かっているのに、諦められないんだから。これが馬鹿じゃなくて何?」
「勇敢なんだ」
陽葵の涙が、ついにこぼれ落ちる。
「先輩、ひどすぎるよ……今日は私を泣かせるような言葉ばかり……」
「なら、泣けばいい」
「やだ! 泣くならメイクが崩れる——」
「崩れても嫌いにならない」
「それ、もう聞くから!」
「なら、もう一度言う」
手を伸ばし、朔の手を握る。
指と指を絡ませる。
「先輩。最後に誰を選ぶとしても、私は先輩の傍にいるから」
「彼女としてじゃなくていい。恋人じゃなくていい。ただ——陽葵として」
「あの、うっとうしくて、いつもまとわりついて、先輩を困らせる陽葵として」
「いいかな?」
青い瞳を、頬を伝う涙の痕を、かすかに震える唇を見る。
「ああ」
陽葵は笑う。
満面の、飾らない、暗闇さえも照らし出すような笑顔。
「ありがとう、先輩」
彼女は手を離し、一歩下がる。
「先輩、行って」
「どこへ?」
「詩織先輩のところへ。待っているから。それに神城先輩も——本当にいなくなるわけじゃない。先輩が追いかけてくるのを待っているだけだから」
「お前は?」
「秘密❤」
朔は彼女の顔を見る。
月光の下、その笑顔は変わらず眩しい。
だが朔は気づく。その笑顔の下に、何が隠されているのかを。
悲しみではない。
それは——
決意。
「何があっても絶対に離れない」という決意。
朔は身を翻し、石段を降りていく。
数歩進んで立ち止まり、振り返る。
陽葵はまだそこに立っている。赤い浴衣は月光の下で、まるで散りゆく花のようだ。
「陽葵」
「ん?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
朔は石段を駆け下りる。
夜風が吹き抜け、浴衣の裾を舞い上げる。
石段を叩く下駄の音が、ドラムのビートのように急激に響き渡る。
思考はひどく混乱している。
詩織のキス。
結月の涙。
陽葵の笑顔。
三つの顔、三つの声、三つの温度。
もつれ合い、解けない糸の束となる。
しかし、彼はもう解こうとはしない。
ついに一つのことを悟るからだ——
おそらく、答えは「誰を選ぶか」ではない。
「誰も選ばない結果に、どう向き合うか」なのだ。
拜殿へ駆け戻る。
詩織はまだそこに立っている。目の前にはイーゼル、手には絵筆。
深い栗色の髪が月光に柔らかな光を帯び、水色の浴衣が夜風にふわりと揺れる。
足音に気づき、彼女は振り向く。
焦げ茶色の瞳が朔を捉える。
「神城さんは?」
「帰った」
「陽葵は?」
「上で待っている」
詩織は頷き、絵筆を置く。
「浅倉くん」
「何だ?」
「答えは要らないの。ただ——前に進み続けるだけでいい」
「前に進むって、どこへ?」
「分からない。でも、歩み続けるの」
朔は彼女を見る。
月光が彼女の顔に落ち、その輪郭を銀白色の光で縁取っている。
「詩織」
「ん」
「後悔しているか?さっきのキス」
詩織は少し考える。
「後悔しない。だって——私のやりたいことだから」
「もし俺が受け入れないなら?」
「それでも構わない。少なくとも、私は伝える。私は行動する。そして少なくとも——あなたは知ってくれる」
彼女は画板を手に取り、イーゼルからキャンバスを外す。
キャンバスの花火は、もう完成している。
金赤、翠緑、銀白の光が夜空に咲き乱れ、どの一筋の光もまるで生きているかのように、キャンバスの上で跳ね、流れ、燃え盛っている。
「これ、あなたに」
詩織が絵を朔に差し出す。
朔は絵を受け取る。
キャンバスはとても軽い。
しかし朔には、ひどく重く感じる。
絵そのものだからではない——そこに込められるものの重さだ。
詩織の十年。
十年の歳月、十年の沈黙、十年の眼差し。
全てが、この一枚の絵の中にある。
「ありがとう」
詩織はこくりと頷く。
そしてイーゼルと画材箱を手に取り、肩にかける。
「もう行くね」
「どこへ?」
「家よ。描き終えるから、もう帰らなくちゃ」
「家まで送るよ」
「いいの」詩織は首を横に振る。「あなたにはまだ、やることがあるでしょう」
「やること?」
詩織は彼を見つめる。焦げ茶色の瞳に月光が映る。
「口に出せないかもしれないけれど、彼女にはその言葉が必要だから」
「詩織、お前——」
「私はどうでもいいの。少なくとも今は重要じゃない。大切なのは——彼女をこれ以上待たせないこと」
彼女は身を翻し、丘を下り始める。
水色の浴衣が夜風にたなびき、静寂の旗のようにはためく。
「詩織」
朔が呼び止める。
詩織は立ち止まるが、振り返らない。
「お前は、大切だ」
「ありがとう」
その声は夜風に吹き消されそうなほどに小さい。
そして去っていく。
朔はその場に立ち尽くし、左手に詩織の絵を、右手にスマートフォンを握りしめている。
キャンバスの上では、花火がまだ咲き誇っている。
スマホの画面には、結月とのトーク画面。
最後のメッセージは、彼女からのもの。
「全部見るから」
「どこにいる?」
送信。
今度は送信される。
電波が復旧している。
入力中のアイコンが、長く表示される。
そして消える。
また現れる。
また消える。
ついに、メッセージが届く。
「駅。最終バスまであと十分」
朔は振り返り、駅に向けて走り出す。
石畳を蹴る下駄の激しい音が、彼の心の叫びのようだ。
行かないでくれ。
待っていてくれ。
夜風が吹き抜け、浴衣の裾を激しく舞い上げる。
花火はまだ打ち上がっている。
だが朔は目を向けない。
走る。
駅へ。
結月のもとへ。
向かう先は——
未だ見ぬ何か。
しかし、一つだけ分かることがある——
彼女を独りで行かせるわけにはいかない。
絶対に。
させるものか。
第二巻 完
後記:
あの夜、浅倉朔は長く走り続ける。
鼻緒が切れ、足の裏に水膨れができ、肺が張り裂けそうになるまで走り続ける。
駅に辿り着く頃、ちょうどバスが発車するところだ。
車窓越しに、結月の横顔が見える。
薄紫色の浴衣、結い上げる髪、銀色の簪。
彼女はうつむき、スマホを見つめている。
画面の光が彼女の顔を照らし、その表情を鮮明に、そして同時に曖昧に浮かび上がらせる。
朔はしばらくバスを追いかけて走る。
だが、二本の足が四つの車輪に勝てるはずもない。
バスは街角に消えていく。
朔は足を止め、腰を折り曲げて激しく息をつく。
その手にはスマホが握られるまま。
画面は点灯している。
結月のトーク画面に、新たなメッセージを送り出す。
「ごめん、間に合わなくて」
しばらくして、結月から返信が届く。
「分かる。見えるから」
「じゃあ、どうして降りてこないんだよ?」
「だって——本当に私の傍にいてほしいなら、もっと速く走るはずだから」
朔はスマホを、長く見つめる。
『先輩は選ばないで、現状維持でいいの。そうすれば、私たち三人は誰も先輩を失わずに済む』
『答えは要らないの。ただ——前に進み続けるだけでいい』
『行かせたくないのと、傍にいてほしいのは——違うのよ』
駅のホームにしゃがみ込み、手に詩織の絵を抱え、肺には張り裂けそうなほどの空気を満たしている。
自分自身が何をするのか、分からない。
何をすべきなのか、分からない。
何を求めているのか、分からない。
しかし、一つだけ分かることがある——
この修羅場、まだまだ終わらない。




