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「絶対にヨリを戻したい元カノ義妹でヒロインは確定済み……のはずが、クールな幼馴染とウザい後輩が修羅場を加速させる」  作者: KANI_CRAB
第二巻 喧騒に潜む無言の愛

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第19話 流れる涙を月のせい

朔は石段を駆け上がる。


荒々しい足音が響く。それはまるで、今の彼自身の鼓動のようだ――リズムも、規則性もなく、ただ混乱と焦燥だけがある。風に煽られた浴衣の裾が足に絡まり、あわや転びそうになるが、なんとか踏みとどまる。転ぶわけにはいかない。そんな時間はないのだ。


石段は長い。


一番高い場所にある神社の本殿が、提灯の明かりに照らされて半ば闇に沈んでいる。両脇の石灯籠には蝋燭が灯り、その火が夜風に揺れ、朔の影を長く引き伸ばす。石段に落ちたその影は、何かを追いかける黒い幽霊のようだ。


結月は本殿前の踊り場に立っている。


薄紫色の浴衣が月光の下で淡く霞み、夜の闇に溶け込んでしまいそうだ。提灯の明かりに藤の花の模様が浮かび上がり、まるでゆっくりと散っていくように見える。髪は結い上げたままだが、簪が斜めに傾いている――おそらく人混みに揉まれたか、それとも――ここまで走ってくる間にずれてしまったのだろう。


彼女の表情はひどく穏やかだ。


が、手が震えている。


寒さからではない。


必死に耐えているのだ。


「結月」


朔は駆け上がり、彼女の前に立ち、息を切らす。


「走るの、早いね」


「お前——」


「全部、見てるから」


灰色の瞳が、真っ直ぐに朔を見据えている。


「月乃森さんが、あなたにキスをするのを。あなたが、彼女を突き離さないのを」


朔は口を開きかける。


弁解しようとする。


しかし、何を弁解するというのか?


詩織を突き離さなかった、それは紛れもない事実。


どんな理由があろうと——体が動かない、頭が真っ白になる、どうすればいいか分からない——彼は突き離さないのだ。


それが事実。


「どうして、突き離さないの?」


「俺は——」


「突き離したくないから? それとも、動けないから?」結月が代わりに答える。


「前者なら、私からは何も言うことはない。もし後者なら——」


彼女は言葉を切る。


「それでも、何も変わらない」


彼女は彼を見つめる。灰色の瞳に涙はなく、怒りもなく、ただ胸が張り裂けそうなほどの静けさだけがある。


「だって、『したくない』にせよ『動けない』にせよ、結果は同じ。彼女はあなたを突き離さない。あなたは彼女を突き離さない。あなたたちは、キスをしている」


「結月——」


「待っているの——あなたが『待ってくれ』って言うあの日から、ずっと待っている。あなたが考えをまとめて、選択を下して、私に伝えに来てくれるのを『好きだ』か、『好きじゃない』かを」


「ずっと、待っている」


「でも待つ間、考えるの——あなたは誰を選ぶのかって。陽葵?月乃森さん? それとも、私?」


「何度も考える。そして毎回、答えが違う」


「そのうち、考えるのはやめる。考えても無駄だから。待つことしか、意味がないから」


「でも、待つのにも限界がある」


彼女の声が震え始める。


「一ヶ月、二ヶ月、半年、一年——いくらでも待てる。でも、何を待っているのか分からない人を待つことはできない」


「あなた自身が何を求めているのかすら分からないなら、私は一体何を待っているの?」


朔は彼女を見つめる。


震える唇を、赤く染まる目元を、浴衣の袖を固く握りしめるその指先を見つめている。


「結月。俺は誰を選ぶのか分からない。でも、これだけは分かる——」


「何が分かるの?」


「お前を泣かせたくないってことだけは」


ついに、結月の涙が零れ落ちる。


号泣ではない。


静かな、音のない、長く耐え忍んでついに堪えきれなくなったかのような涙。


「浅倉朔」


「あなた、本当にひどい」


「分かってる」


「私を泣かせたくないって言うのに、あなたのすることはどれも私を泣かせたくなることばかり」


「分かってる」


「誰を選ぶか分からないって言うけど、彼女を突き離さない——それ自体が、一つの選択」


朔は押し黙る。


「突き離さないのは、彼女を受け入れるという意味。彼女があなたを好きなこと、彼女があなたにキスすること、彼女があなたの人生に入り込むこと。あなたは、拒まない」


「拒まないのは、受け入れるということ」


手の甲で涙を拭い、彼女は深く息を吸い込む。


「だから——もう選ばなくていい」


「もう、分かっているから」


彼女は背を向け、朔に背中を見せる。


「結月——」


「戻って。彼女が待っている」


「誰が?」


「月乃森さん。それに陽葵」


「二人とも、あなたを待っている」


「そして、私はもう待ち終えるから」


「何を?」


「答えを。あなたの口から直接聞くわけじゃないけど、ちゃんと聞こえているから」


彼女は足を踏み出し、石段を下り始める。


薄紫色の浴衣が夜風に揺れ、藤の花の模様が月光に霞む。まるで、ゆっくりと消えゆくかのように。


「結月——!」


朔は追いかけ、彼女の手首を掴む。


結月は足を止める。


振り返らない。


「離して」


「離さない」


「浅倉——」


「離さないって」


「離さないと、あなたが私を選んでくれるって、勘違いするわ」


「でも、あなたは私を選ばない。ただ私を行かせたくないだけ」


「行かせたくないのと、傍にいてほしいのは——違うのよ」


彼女の言う通りだ。


行かせたくない。


しかし、「傍にいてほしい」とは口に出せない。


なぜなら、「傍にいてほしい」は選択を意味する。


そして彼は、まだ選択を下していない。


結月は、そっと彼の手を振りほどく。


「ほらね。あなたは『傍にいて』すら言えない」


彼女は歩き出す。


下駄が石段を鳴らし、乾いた「カラン、コロン」という音を響かせる。


一つ、また一つ。


遠ざかる。


小さくなる。


そして最後には、夜風の中へと消えていく。


朔はその場に立ち尽くし、闇に消える彼女の後ろ姿を見つめている。


手首を掴んでいた時の手の形を残したまま。


空っぽのまま。


夜風が吹き抜け、花火の硝煙の残り香と、遠くの喧噪を運んでくる。


花火はまだ打ち上がっている。


しかし朔には、世界が静まり返るように感じる。


自身の鼓動が聞こえるほどの静寂。


ドクン、ドクン、ドクン。


ひどく遅い。


ひどく重い。


何かが胸の奥を打ち据えているかのように。


「先輩」


背後には陽葵が立っている。月明かりの下では赤い浴衣はずっと暗く沈み、金色のヒマワリの模様ももはや輝きを失い、まるで夜色に染め抜かれたかのようだ。


彼女の表情は——


先ほど詩織に宣戦布告した時の高揚はない。


むしろ静かで、どこか疲れを帯び、何かを耐え忍ぶような表情をしている。


「陽葵」


「先輩、そんなに悲しまないで。神城先輩、本気でいなくなるわけじゃないよ。ただ、少し時間が必要なだけ」


「どうして分かる?」


「だって私にもあるもん。怒る時、悲しい時、一人になりたいって思うこと。本当に離れたいわけじゃない——ただ、消化する時間が必要なだけ」


「先輩」


陽葵が一歩近づき、彼を見上げる。


「今、何を考えてるの?」


「俺は一体、何をしてしまうんだろうって」


「何をするの?」


「全員を傷つけることを」


「先輩は私たちを傷つけたりなんかしない。先輩を好きになるって選ぶのは、私たち自身だよ。誰かを好きになるなら、傷つくリスクだって背負わなきゃ。これは私たちの選択。先輩のせいじゃない」


「でも——」


「でも、自分がもっと早く選択を下すなら、こんなに苦しめることはないって思うんでしょ?」陽葵が言葉を引き継ぐ。


「違う?」


朔は頷く。


「先輩、一つの疑問について考えること、ある?」


「何?」


「もしかしたら——先輩が早く選択しないんじゃなくて。本当は、最初から選択なんてできないんじゃないかって」


「だって。先輩は、私たちの全員が好きなんだから」


朔の呼吸が一拍止まる。


「神城先輩が好きで、放っておけない。詩織先輩が好きで、惹かれる。私のことも好き——そういう意味の好きじゃなくても、一緒にいるのが好き」


「選べないのは、誰も失いたくないから」


「だから——選ばないでいいの」


「え?」


「選ばないで。現状維持。迷い続ける。『分からない』ままでいる。だって——そうすれば、私たち三人は誰も先輩を失わずに済む」


「でもお前たちが傷つく」


「傷つくのもいいよ」


陽葵は笑う。その笑顔には一抹の苦さが混じっている。


「少なくとも、傍にはいられるから」


「陽葵——」


「先輩、知ってる? さっき私が『負けない』って言うのは、勝てる自信があるからじゃないの。だって——『負ける』って口にするなら、本当に負けちゃう気がするから」


「だから『負けない』って言うの。百回でも千回でも、私自身が信じ込めるまで」


「そうしないと、先輩の傍に立ち続けることなんてできないから」


彼女の目元が赤く染まる。


「先輩、私って馬鹿みたいでしょ?」


「馬鹿じゃない」


「嘘つき。私、超馬鹿だよ。先輩の心に他の人がいるって分かっているのに、手放せないんだから。先輩が一生私を選ばないかもしれないって分かっているのに、諦められないんだから。これが馬鹿じゃなくて何?」


「勇敢なんだ」


陽葵の涙が、ついにこぼれ落ちる。


「先輩、ひどすぎるよ……今日は私を泣かせるような言葉ばかり……」


「なら、泣けばいい」


「やだ! 泣くならメイクが崩れる——」


「崩れても嫌いにならない」


「それ、もう聞くから!」


「なら、もう一度言う」


手を伸ばし、朔の手を握る。


指と指を絡ませる。


「先輩。最後に誰を選ぶとしても、私は先輩の傍にいるから」


「彼女としてじゃなくていい。恋人じゃなくていい。ただ——陽葵として」


「あの、うっとうしくて、いつもまとわりついて、先輩を困らせる陽葵として」


「いいかな?」


青い瞳を、頬を伝う涙の痕を、かすかに震える唇を見る。


「ああ」


陽葵は笑う。


満面の、飾らない、暗闇さえも照らし出すような笑顔。


「ありがとう、先輩」


彼女は手を離し、一歩下がる。


「先輩、行って」


「どこへ?」


「詩織先輩のところへ。待っているから。それに神城先輩も——本当にいなくなるわけじゃない。先輩が追いかけてくるのを待っているだけだから」


「お前は?」


「秘密❤」


朔は彼女の顔を見る。


月光の下、その笑顔は変わらず眩しい。


だが朔は気づく。その笑顔の下に、何が隠されているのかを。


悲しみではない。


それは——


決意。


「何があっても絶対に離れない」という決意。


朔は身を翻し、石段を降りていく。


数歩進んで立ち止まり、振り返る。


陽葵はまだそこに立っている。赤い浴衣は月光の下で、まるで散りゆく花のようだ。


「陽葵」


「ん?」


「ありがとう」


「どういたしまして」


朔は石段を駆け下りる。


夜風が吹き抜け、浴衣の裾を舞い上げる。


石段を叩く下駄の音が、ドラムのビートのように急激に響き渡る。


思考はひどく混乱している。


詩織のキス。


結月の涙。


陽葵の笑顔。


三つの顔、三つの声、三つの温度。


もつれ合い、解けない糸の束となる。


しかし、彼はもう解こうとはしない。


ついに一つのことを悟るからだ——


おそらく、答えは「誰を選ぶか」ではない。


「誰も選ばない結果に、どう向き合うか」なのだ。


拜殿へ駆け戻る。


詩織はまだそこに立っている。目の前にはイーゼル、手には絵筆。


深い栗色の髪が月光に柔らかな光を帯び、水色の浴衣が夜風にふわりと揺れる。


足音に気づき、彼女は振り向く。


焦げ茶色の瞳が朔を捉える。


「神城さんは?」


「帰った」


「陽葵は?」


「上で待っている」


詩織は頷き、絵筆を置く。


「浅倉くん」


「何だ?」


「答えは要らないの。ただ——前に進み続けるだけでいい」


「前に進むって、どこへ?」


「分からない。でも、歩み続けるの」


朔は彼女を見る。


月光が彼女の顔に落ち、その輪郭を銀白色の光で縁取っている。


「詩織」


「ん」


「後悔しているか?さっきのキス」


詩織は少し考える。


「後悔しない。だって——私のやりたいことだから」


「もし俺が受け入れないなら?」


「それでも構わない。少なくとも、私は伝える。私は行動する。そして少なくとも——あなたは知ってくれる」


彼女は画板を手に取り、イーゼルからキャンバスを外す。


キャンバスの花火は、もう完成している。


金赤、翠緑、銀白の光が夜空に咲き乱れ、どの一筋の光もまるで生きているかのように、キャンバスの上で跳ね、流れ、燃え盛っている。


「これ、あなたに」


詩織が絵を朔に差し出す。


朔は絵を受け取る。


キャンバスはとても軽い。


しかし朔には、ひどく重く感じる。


絵そのものだからではない——そこに込められるものの重さだ。


詩織の十年。


十年の歳月、十年の沈黙、十年の眼差し。


全てが、この一枚の絵の中にある。


「ありがとう」


詩織はこくりと頷く。


そしてイーゼルと画材箱を手に取り、肩にかける。


「もう行くね」


「どこへ?」


「家よ。描き終えるから、もう帰らなくちゃ」


「家まで送るよ」


「いいの」詩織は首を横に振る。「あなたにはまだ、やることがあるでしょう」


「やること?」


詩織は彼を見つめる。焦げ茶色の瞳に月光が映る。


「口に出せないかもしれないけれど、彼女にはその言葉が必要だから」


「詩織、お前——」


「私はどうでもいいの。少なくとも今は重要じゃない。大切なのは——彼女をこれ以上待たせないこと」


彼女は身を翻し、丘を下り始める。


水色の浴衣が夜風にたなびき、静寂の旗のようにはためく。


「詩織」


朔が呼び止める。


詩織は立ち止まるが、振り返らない。


「お前は、大切だ」


「ありがとう」


その声は夜風に吹き消されそうなほどに小さい。


そして去っていく。


朔はその場に立ち尽くし、左手に詩織の絵を、右手にスマートフォンを握りしめている。


キャンバスの上では、花火がまだ咲き誇っている。


スマホの画面には、結月とのトーク画面。


最後のメッセージは、彼女からのもの。


「全部見るから」


「どこにいる?」


送信。


今度は送信される。


電波が復旧している。


入力中のアイコンが、長く表示される。


そして消える。


また現れる。


また消える。


ついに、メッセージが届く。


「駅。最終バスまであと十分」


朔は振り返り、駅に向けて走り出す。


石畳を蹴る下駄の激しい音が、彼の心の叫びのようだ。


行かないでくれ。


待っていてくれ。


夜風が吹き抜け、浴衣の裾を激しく舞い上げる。


花火はまだ打ち上がっている。


だが朔は目を向けない。


走る。


駅へ。


結月のもとへ。


向かう先は——


未だ見ぬ何か。


しかし、一つだけ分かることがある——


彼女を独りで行かせるわけにはいかない。


絶対に。


させるものか。


第二巻 完




後記:


あの夜、浅倉朔は長く走り続ける。


鼻緒が切れ、足の裏に水膨れができ、肺が張り裂けそうになるまで走り続ける。


駅に辿り着く頃、ちょうどバスが発車するところだ。


車窓越しに、結月の横顔が見える。


薄紫色の浴衣、結い上げる髪、銀色の簪。


彼女はうつむき、スマホを見つめている。


画面の光が彼女の顔を照らし、その表情を鮮明に、そして同時に曖昧に浮かび上がらせる。


朔はしばらくバスを追いかけて走る。


だが、二本の足が四つの車輪に勝てるはずもない。


バスは街角に消えていく。


朔は足を止め、腰を折り曲げて激しく息をつく。


その手にはスマホが握られるまま。


画面は点灯している。


結月のトーク画面に、新たなメッセージを送り出す。


「ごめん、間に合わなくて」


しばらくして、結月から返信が届く。


「分かる。見えるから」


「じゃあ、どうして降りてこないんだよ?」


「だって——本当に私の傍にいてほしいなら、もっと速く走るはずだから」


朔はスマホを、長く見つめる。


『先輩は選ばないで、現状維持でいいの。そうすれば、私たち三人は誰も先輩を失わずに済む』


『答えは要らないの。ただ——前に進み続けるだけでいい』


『行かせたくないのと、傍にいてほしいのは——違うのよ』


駅のホームにしゃがみ込み、手に詩織の絵を抱え、肺には張り裂けそうなほどの空気を満たしている。


自分自身が何をするのか、分からない。


何をすべきなのか、分からない。


何を求めているのか、分からない。


しかし、一つだけ分かることがある——


この修羅場、まだまだ終わらない。

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