第18話 静かな神社、深く交わす口づけ
花火大会が半ばに差し掛かる頃、人波がうねり始める。
より近くで見ようと前に押し入る者、混雑を避けて早めに帰ろうと後ろへ下がる者。二つの流れがぶつかり合い、元々混み合っていた広場は、まるで沸騰したお粥のような有様となっている。
「先輩——!」陽葵の声が、人混みに半分飲み込まれる。
朔は彼女の手を強く握りしめる。
「離すな!」
「絶対離しません!」
しかし、人波の威力はあまりにも大きい。後から後から押し寄せる人の波が、まるで荒波のように二人の身体に打ち付ける。朔は押されて数歩前へよろめき、陽葵は横へと弾かれ、繋いでいた手がほんの一瞬、引き剥がされる。
「陽葵——!」朔が手を伸ばして掴もうとするが、横から伸びてきた見知らぬ腕に別の方向へと引っ張られてしまう。体勢を立て直した時には、陽葵はすでに人波に流され、数メートル先へと押しやられている。
「先輩——!!神社の方で待ってます——!」群衆の中から響く陽葵の声が、どんどん遠ざかっていく。
「勝手に動くな——!」
だが、その声が陽葵に届いている確証はない。
人波は絶えずうねり続ける。
朔は押し流されるまま前に進み、どれくらい歩いたのかも分からない。人の流れに逆らって戻ろうと試みるが、一歩踏み出すのにも膨大な体力を消耗する。結局彼は諦め、群衆に押されるまま、一路神社の方角へと移動していく。
神社前の鳥居をくぐったところで、ようやく人波が少しバラける。
朔は一つ息をつき、鳥居の柱に寄りかかってスマホを取り出す。
電波がひどく悪い——夏祭りの人出が多すぎて、基地局がパンクしているのだ。
LINEのメッセージは送信もできず、受信もできない。
画面に目を落とす——新着メッセージはなし。
試しに陽葵へ一通送ってみる。「今どこ?」
送信。
画面のアイコンがくるくると回り続ける。
送れない。
今度は結月に一通送ってみる。「そっち大丈夫?」
やはりアイコンが回り続ける。
送れない。
朔はスマホをしまい、深く息を吸い込む。
神社の広場は、眼下の会場に比べてずいぶんと静かだ。ここには屋台も、太鼓の音もなく、ただ幾つかの石灯籠が暗闇の中で微かな光を放っているのみ。石段の上にある本殿は、灯籠の光に半ば照らされ半ば影に沈み、まるで暗闇に浮かぶ孤島のよう。
陽葵を探しに石段を下りようとした朔は、ふと見慣れた人影を目にする。
神社の裏手にある斜面。
誰かが石段に座り、目の前にイーゼルを立てている。
月明かりの下、ダークマロンの髪が柔らかな光を帯び、水色の浴衣が夜風にふわりと揺れる。まるで、一枚の静かな旗のように。
詩織。
彼女は一人。
空に向かって。
絵を描いている。
朔は少し躊躇い、そして彼女の元へと歩み寄る。
「詩織」
詩織は振り返らない。
「来たんだね」そう言う彼女の口調は穏やかで、まるで最初からそうなることを知っていたかのよう。
「ああ。人に流されて、ここまで」
「知ってる。見えてたから」
「何を描いてるんだ?」
詩織は答えない。ただ、少しだけ体をずらし、キャンバスが見えるように視界を開ける。
朔の目に、それが飛び込んでくる。
キャンバスに描かれているのは、花火。
しかし、ただの花火ではない。
『夜空に咲く大輪の花』のようなものではなく——花火が弾ける瞬間の、光の軌跡。
黄金と真紅の光が中心から四方八方へと飛び散り、その一道一道の光が細い線となって、線の末端は微かにねじれている。まるで何らかの古代文字のよう。
光は空中に一瞬留まり、そして落下を始める。
落ちていく過程で、光の色は金紅から橙黄へ、橙黄から淡い紫へと変わり、最後には暗闇の中へと消えていく。
詩織が描いているのは、これだ。
光が生まれ、そして死にゆくまでの全プロセス。
「綺麗?」
「綺麗だ。でも——どこか、悲しい」
「どうして?」
「光が、消えていくから」
詩織は絵筆を下ろし、振り返って、ダークブラウンの瞳で朔を見つめる。
「光は消えないよ。光はただ、別の形に変わるだけ」
「別の形?」
「熱。記憶。花火が弾けるあの瞬間、君はその熱を感じる。その美しさを記憶に刻む。その熱も記憶も、消えたりしない」
朔は彼女を見る。
月明かりが彼女の顔に落ち、その輪郭を銀白色に縁取る。表情は相変わらず穏やかなままだが、朔は彼女の瞳がいつもより輝いていることに気付く——それは涙の潤いではなく、何か火が点けられたような輝き。
「詩織」
「ん」
「一人でここにいて、寂しくないのか?」
詩織は少し考える。
「寂しくない。花火が一緒にいてくれるから」
「花火は終わるだろ」
「でも、明日になればまた上がる」
「明日は、今日じゃない」
「でも、花火は同じ。一つ一つの花火は違っても、全部が光。暗闇の中で輝く、光」
彼女は立ち上がり、くるりと向きを変えて朔と向かい合う。
二人の距離は、1メートルにも満たない。
「浅倉君」
「なんだ?」
「君、すごくうるさい」
「俺は何も言ってないぞ」
「君の沈黙が、すごくうるさい」
詩織が一歩近づく。
距離は50センチ未満に縮まる。
朔の鼻先を、彼女の香りが掠める——普段のテレビン油や絵の具の匂いじゃない。雨上がりの青草のような、ほんのりとした香り。夜風に優しく揺れる彼女の髪、その数筋が朔の腕に触れ、まるで羽のように軽い。
「私がどうして絵を描くのが好きか、知ってる?」
「どうして?」
「絵は嘘をつかないから。絵の中のすべての線、一筆ごとの色、そのすべてが真実。言葉とは違う、言葉は人を騙せる。沈黙とも違う、沈黙もまた、人を騙すことができる」
「でも、絵は騙さない」
「だから——」
彼女は手を伸ばし、朔の手を引っ張る。
彼女の手はとても冷たく、細く、それでいて力強い。陽葵のような『握ってほしい』という握り方じゃない——『私があなたを握る』という握り方。
「君に、一枚の絵を見せたい」
彼女は朔を引っ張り、前へ二歩進む。
画架の方へ向かうのではない。
彼女自身の方へ。
朔は彼女の真正面へと引き寄せられる。
二人の距離——
10センチもない。
朔には、彼女のまつ毛のカーブまでくっきりと見える。長いまつ毛が微かに上を向き、目の下に扇形の小さな影を落としている。ダークブラウンの瞳は月明かりの下でひどく深く見え、まるで底知れぬ二つの淵のよう。
少しだけ開いた唇から漏れる吐息が朔の顎を掠め、ほんのりとしたミントの涼やかさを帯びている。
「詩織——」
「しっ」
彼女は爪先立ちになる。
一発目の花火が弾ける瞬間——
彼女の唇が、重なる。
ただのキスではない。
ディープキス。
彼女の舌が朔の唇をこじ開けてくる。ぎこちなく、不器用で、それでいて極めて強引に。
その瞬間、朔の思考は完全にフリーズした。
詩織の匂い——もっと近く、もっとパーソナルな匂い。呼吸、体温、肌から微かに漂うミルクキャンディの味。
彼女の震えが伝わってくる——唇が震え、身体が震え、朔の襟をきつく握りしめる指の関節は白くなっている。
それでも離れない。
痛いほど強く、キスをしてくる。
まるで、このキスで何かを伝えようとするかのように。
花火が次々と夜空で弾ける。
黄金に真紅、翠緑、銀白の光が夜空で交互に瞬き、二人の顔を明るく照らし出す。
朔の手は宙に浮いたまま、どこに置けばいいのか分からない。
頭の中で警報が鳴り響く——これはキスだ。
詩織が俺にキスをしている。
突き飛ばさなきゃ。突き飛ばさないと。俺には陽葵がいて、結月がいて、こんなこと——
しかし、手は動かない。
動かせないわけじゃない。
それは——
このキスの中に、何かを感じ取ってしまったからだ。
欲望ではない。
衝動でもない。
それは一種の——
長い間待ち続け、ようやく訪れたからこそ、もう二度と待ちたくないという決絶。
詩織のキスには、高校三年間分の沈黙が込められている。
三年間の眼差しが。
三年間の『言わない』という選択が。
三年間の『大丈夫』という強がりが。
三年間の『私はここにいる』という叫びが。
そのすべてが、このキスに詰まっている。
朔は目を見開いたまま。
詩織の髪の上に花火が咲き誇るのを見る。光が彼女の髪の間で跳ね回り、まるで無数の小さな星屑のよう。
彼女のまつ毛が、蝶の羽ばたきのように微かに震えているのを見る。
彼女の目尻から、一滴の涙がこぼれ落ちるのを見る。
悲しみの涙ではない。
これは——
『ようやく』だ。
詩織が身体を離す。
ゆっくりと、時間をかけて朔の唇を解放し、小さく一歩下がる。
彼女の呼吸は荒く、胸が激しく上下している。少しだけ赤く腫れた唇には、先ほどのキスの熱がまだ残っている。頬に浮かぶ淡い紅潮は、照れ隠しか、それとも酸欠のせいか。
手の甲で唇を拭い、ダークブラウンの瞳で静かに朔を見つめる。
「これが、私の絵」
声は微かに震えているが、表情は相変わらず穏やかだ。
「嘘はついてない。隠し事もしてない。全部、本物」
彼女は朔の目を見つめる。その深い茶色の瞳には、花火の光と月明かり、そして朔の顔が映り込んでいる。
「浅倉君、好き」
「ずっと前から、好きだった」
「君が神城さんと付き合う前から、ずっと好きだったの」
「でもあの頃、君が好きだったのは別の子。だから、言わなかった」
「二人が別れて、チャンスが来たと思った。でも君の周りには、また別の女の子が現れた」
「だから私、決めたの——もう、待たないって」
夜風が吹き抜け、彼女の髪を舞い上げる。数筋の髪が頬に張り付くが、彼女はそれを払いのけようともせず、ただ朔の答えを待つように見つめ続ける。
「これが、私の答え」
「君の答えは?」
朔は口を開きかける。
思考がようやく機能を取り戻し始めるが、導き出された結果は——
結果が出ないということ。
『分からない』と言いたい。
だが、言葉にできない。
もう何度も『分からない』を繰り返しすぎたから。
これ以上、言ってはいけない。
何か言わなければ。
だが、何を言えばいい?
『俺も好きだ』と?
言えない。確信が持てないから。
『ごめん』と?
言えない。あまりにも残酷すぎるから。
『考えさせてくれ』と?
言えない。彼女はもう三年も待ったのだから。
「詩織、俺は——」
「先輩」
背後から声が響く。
まるで夜風を切り裂く、一本の刃のように。
朔は振り返る。
そこには、陽葵が立っている。
神社の石段に立つ彼女。背後には灯籠の明かり、正面からは月明かり。風に揺れる赤い浴衣、そこに描かれた金色の向日葵の柄が、月明かりの下ではひどくくすんで見え、まるでゆっくりと枯れていくかのよう。
彼女の表情は——
怒りではない。
悲しみではない。
驚きでもない。
それは——
静寂。
陽葵の顔には似つかわしくない、背筋が凍るほどの静けさ。
その蒼い瞳は朔と詩織を真っ直ぐに射抜き、瞳孔には花火も月明かりも映らず、ただ二人の姿だけが映り込んでいる。
「陽葵——」
陽葵は朔を見ない。
彼女が見据えるのは、詩織。
「詩織先輩」微かだが、はっきりとした声で言う。
「今、先輩にキスしましたね」
疑問形ではない。
断定。
詩織は陽葵を見返し、表情を変えない。
「ええ」
陽葵はしばらく押し黙る。
夜風が彼女の金髪を煽り、月明かりの下、まるで色褪せた旗のようにはためく。
「そうですか」
そして、彼女は笑う。
苦笑い ではない。
自嘲の笑みでもない。
——歓喜の笑み。
宝物を見つけ、好敵手に出会い、全身の血が沸き立つような、そんな笑み。
「てっきり」
一歩、また一歩と前へ出る。下駄が石段を鳴らし、カランコロンと甲高い音を響かせる。
「結月お姉ちゃんがライバルなんだと、ずっと思ってましたけど……」
彼女は詩織の目の前まで歩み寄る。二人の距離は50センチもない。
赤と、青。
炎と、氷。
笑みと、静けさ。
「まさか詩織先輩が、隠しボスだったなんて」
陽葵の瞳が、まるで二つの星のように輝き出す。
優しい光ではない。
燃え盛る光。
「すごく、面白いです」
彼女は朔に向き直り、微笑みかける。
「先輩、知ってますか? さっき二人がキスしてるのを見た時、泣くかと思ったんです。でも、最初に出た感情は泣きたいじゃなくて——笑いたい、でした」
「だって、ようやく分かったから」
「私の本当のライバルは、結月お姉ちゃんじゃない。彼女だって」
指先を、詩織に向ける。
「詩織先輩、私、絶対に負けませんから」
詩織は彼女を見つめる。ダークブラウンの瞳に敵意も挑発もなく、ただ穏やかな、ほとんど慈悲に近い眼差しを向けるだけ。
「私は、君と勝負なんてしてない」
「でも私がしてます!私の方が先輩を好きです! 先輩より長く、彼よりも深く! 絶対に誰にも譲りません!」
詩織はしばらく黙り込む。
やがて、彼女の口角が少し上がる。
それは、朔が見た中で最もはっきりとした、詩織の笑顔。
「分かった。じゃあ、どっちが勝つか、試してみよう」
二人の少女が向かい合って立つ。
頭上で花火が弾け、彼女たちの顔を照らす。
燃え盛るように熱く。
氷のように冷たく。
一人が、宣戦布告。
もう一人が、それを受ける。
中央に立つ朔は、そのすべてを目の当たりにして、ただ一つの思いに駆られる——
終わった。
完全に、終わった。
何かを『間違えた』から終わった、というわけじゃない。
『何をどう選んでも、誰かが傷つく』という意味で、終わったのだ。
詩織のキス。
陽葵の宣戦布告。
そして——
結月。
結月?
彼女今はどこにいる?
見ていたのか?
朔はスマホを取り出す。
電波は相変わらず悪い。
だが、いつ受信したのか、一件のメッセージが入っている。
結月:
『神社の裏にいるよ。全部見てた』
朔の心臓が、ドクンと激しく収縮する。
顔を上げ、神社の方角へと視線を向ける。
月明かりの下、石段の頂上に、淡い紫色のシルエットが立っている。
遠すぎて、表情までは読み取れない。
しかし、その視線は痛いほど感じ取れる。
高みから突き刺さる、二振りの刃のような視線。
詩織も朔の視線を追い、その人影に気付く。
彼女の表情は変わらない。
だがその瞳は、先ほどよりもさらに深く沈み込む。
「浅倉君」
「なんだ?」
「行って」
「どこに?」
「君が行くべき場所へ」
朔は彼女を見る。
『行くべき場所』であって、『行きたい場所』ではない。
詩織はあえて『べき』と言ったのだ。
つまり、彼女は分かっている。
朔の答えが、自分ではないということを。
それでも彼女は口にし。
それでもキスをして。
それでも宣戦布告をした。
勝つためではない。
彼に、知ってもらうために。
「行って。私はここで、待ってるから」
「君が戻ってくるのを」
朔は彼女を一瞥し、きびすを返して神社の方へと走り出す。
下駄が石段を蹴り、タッタッタッと急な足音を立てる。
後ろでは、詩織がその場に立ち尽くし、彼の背中を見送っている。
花火が彼女の頭上で弾ける。
彼女は花火を見ない。
朔を見ている。
彼の背中が、神社の影に吸い込まれて消えていくのを。
そして彼女は俯き、キャンバスに描かれた花火へと視線を落とす。
あの金と紅の光は、すでに描き終えている。
だが、もう一輪。
まだ描いていないものがある。
絵筆を手に取る。
手が震えている。
けど、恐怖からではない。
それは——
ようやく、口に出せたから。
十年。
ようやく。
朔はすぐに気付くかもしれないし、あるいは永遠に気付かないかもしれない——十年前、絵が下手だと幼稚園のクラスメイトにからかわれていた女の子、滑り台のてっぺんで一緒に夕日を眺めた女の子、とうの昔に自分のファーストキスを朔に捧げていた女の子のことを。
月乃森詩織。
「ただいま、さーちゃん」




