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「絶対にヨリを戻したい元カノ義妹でヒロインは確定済み……のはずが、クールな幼馴染とウザい後輩が修羅場を加速させる」  作者: KANI_CRAB
第二巻 喧騒に潜む無言の愛

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第17話 夏祭り、浴衣、そして手繋ぎ

八月十五日。


夏祭り当日。


朔は朝から落ち着かない。


緊張しているわけではない――と、自分に言い聞かせる――ただ、暑すぎるだけだ。東京の八月は巨大な蒸し器のようで、すべての水分を蒸発させ、息苦しいほどの蒸し暑さだけを残していく。エアコンをつけていても、空気中にはどこかべっとりとした感覚が漂い、まるで見えない何かが肌に張り付いているかのようだ。振り払うことも、忘れることもできない。


彼は机の前に座り、何かを書こうと試みる。ノートパソコンの画面では、空白のドキュメントの1行目でカーソルが点滅している。まるで苛立つメトロノームのように。いくつか文字を打ち込んでは消し、また打ち込んでは消す。それを何度か繰り返した後、彼は諦めてパソコンを閉じ、椅子の背もたれに寄りかかる。


窓の外の空は青く、雲は少ない。遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくる。一つ、また一つと、まるでカウントダウンを数えているかのように。


午後三時、彼は浴衣を着る準備を始める。


濃紺の浴衣に、白い波模様――結月からの贈り物だ。生地は軽く、柔らかく、ほんのりと洗剤の香りがする。鏡に向かい、不器用に着ていく。浴衣の着方は複雑だ。左前か右前か、帯はどう結ぶのか、襟元はどれくらい開けるのか――かなりの時間をかけて、ようやくなんとか着終える。


帯をきつく締めすぎて、少し息苦しい。襟元は逆に緩すぎて、鎖骨と胸の半分くらいが露出している。何度か調整してみるものの、最後には完璧を求めるのを放棄する。――どうせ誰も見ないし。


心の中でそう思うが、それが自分へのごまかしであることにすぐ気づく。


見る人は、いる。


少なくとも三人は確実に見る。


その認識が、彼の指先をわずかに震わせる。


午後五時、彼は部屋を出る。


廊下は静まり返り、突き当たりの窓から差し込む陽光が、床に明るい光の斑点を落としている。空気中には微小な埃が漂い、光の柱の中でゆっくりと動いている。まるで音のないダンスのように。


朔が階段の踊り場まで行き、まさに降りようとするその時、ふと背後からドアが開く音が聞こえてくる。


彼は振り返る。


結月が自分の部屋から出てくるところだ。


朔の呼吸が、止まる。


薄紫色の浴衣には白い藤の花が描かれている。藤の花は肩から裾へと垂れ下がり、まるで誰かが本物の藤を生地に描き込むかのようだ。浴衣の帯は淡いピンク色で、上品なリボン結びにされ、垂れ下がる部分が膝のあたりでふわりと揺れている。


髪はアップにまとめられ、色白のうなじを覗かせている。髷には銀色の簪が挿され、その先端で揺れる小さなビーズの飾りが、照明の下で柔らかい光を放っている。メイクは普段より少し濃い。アイラインはわずかに跳ね上がり、唇には淡いピンクのリップ、頬には夕日に染まるかのような、ごく薄いチークが乗っている。


「どうしたの?」


声は穏やかだが、朔は彼女の指が浴衣の袖をかすかに握りしめているのに気づく。


「なんでもない」朔は顔をそむける。「行こう」


「ちょっと待って」結月は歩み寄り、手を伸ばして朔の襟元を直す。「襟元、緩すぎ」


彼女の指が朔の首筋に触れる。ひんやりとしていて、ほんの少し震えている。朔は彼女の香りに気づく。半年前と同じ柑橘系の香り。だが、時間によって薄められるかのように、以前よりも淡い。


「帯もきつすぎる」結月はさらに朔の帯を少し緩める。その動作はとても軽く、ゆっくりで、何か非常に集中力を要する作業をしているかのようだ。


「よし」彼女は一歩下がり、朔の襟と帯を確認して、頷く。「これでいいわ」


「ありがとう」


結月は首を横に振り、それからうつむいて、自分の浴衣の裾を見つめる。


「浅倉」


「なに?」


「とても似合ってる」


朔は彼女を見つめる。


廊下の照明の下、彼女の顔はひときわ柔らかく見え、まつ毛が目の下に小さな扇状の影を落としている。唇は微かに引き結ばれ、まるで何かを堪えているかのようだ。


「ありがとう、結月も」


結月の口角が上がる――ごくわずかに、ほんの一瞬だけだが、朔はそれを見落とさない。


二人は一緒に階段を降りる。


リビングの窓から夕日が差し込み、部屋全体をオレンジ色に染め上げている。キッチンで夕食の準備をしている義母が、降りてくる二人を見て笑顔を見せる。「二人ともすごく似合ってるわ!絵の中から抜け出してくるみたい!」


「ありがとうございます」


「母さん、行ってくる」


「早く帰ってくるのよ、気をつけてね!」


「わかってる」


二人は下駄に履き替え、家を出る。


夕日が街を金赤色に染め上げている。遠くの地平線では、空がオレンジから紫へとグラデーションを描き、まるで巨大な水彩画のようだ。街灯はまだ点いていないが、すでに数匹の早起きのコウモリが空を舞い、黒く不規則な弧を描いている。


二人は黙って歩き続ける。


アスファルトの道を叩く下駄が、前と後ろで「カラン、コロン」と澄んだ音を鳴らす。まるで何かの暗黙のサインのようなリズムだ。朔が半歩前を歩き、結月が半歩後ろをついていく。――この距離感はとても絶妙だ。並んで歩くわけでもなく、完全に前後になるわけでもない。「一緒に歩きたいけれど、隣を歩く勇気はない」というような、一種の妥協点だ。


「結月」


「なに?」


「どうして俺に浴衣をくれるんだ?」


「あなたが着ているところを見たいから」


「それだけ?」


「それだけ」


朔は考え、この答えがいかにも結月らしいと感じる。――シンプルで、直接的で、言い訳をしない。彼女は「あなたに私のものを身につけてほしいから」とか「私のことを覚えていてほしいから」なんて言わない。ただ、「着ているところを見たい」とだけ言うのだ。


しかし、その言い訳をしない態度こそが、この言葉により多くの重みを与えている。


言い訳をしないということは、それが彼女の本心であるということを意味しているからだ。


駆け引きでも、探り合いでも、ゲームでもない。


ただ――そうしたいだけ。


駅には人が溢れている。夏祭りの会場は神社前の広場であり、彼らの家からバスで二十分ほどの距離だ。バス停には浴衣姿の人々がひしめき合っている。カップル、親子連れ、連れ立ってやってくる友人グループ。赤、青、ピンク、緑の浴衣が入り乱れ、まるで動く絵巻物のようだ。


朔と結月はバス停の片隅に立ち、バスを待つ。


人が多く、スペースは狭い。朔は結月の腕が時折自分の腕に触れるのを感じる。そのたびに神経がかすかに震える――電流が走るからではない。緊張のせいだ。何に緊張しているのか自分でもわからないが、確実に緊張している。


バスが到着する。人々がドアへと押し寄せる。朔は揉まれて前に少しよろめくが、無意識に手を伸ばし、後ろの結月をかばう。


「気をつけて」


結月は彼の手を見つめる。彼女の肩のそばに浮かぶその手は、まるで人波を遮る防壁のようだ。


「ありがとう」


二人はバスに乗り込む。席はすでに満席で、立つしかない。朔はつり革を掴み、結月はその隣に立って片手で座席の背もたれに掴まる。バスが発車する時、結月がふらつき、その肩が朔の腕に寄りかかる。


彼女は離れようとしない。


朔も動かない。


バスは夕暮れの中を進んでいく。窓の外の景色が住宅街から商店街へ、商店街から並木道へと変わっていく。街灯が一つ、また一つと点灯し、オレンジ色の光が車窓から差し込んで、車内に流れるような光と影を落とす。


結月の肩は、ずっと朔の腕に触れるままだ。


もたれかかるわけではない。ただ、触れているだけ。


だが、その接触の温度は、どんな言葉よりもリアルだ。


夏祭りの会場は神社前の広場だ。


到着する頃には、空は完全に暗闇に包まれている。


提灯の明かりが広場全体を照らし出し、まるで夢の世界のようだ。赤、黄、オレンジの提灯が夜風に軽く揺れている。提灯にはそれぞれ異なる絵柄が描かれている。金魚、花火、富士山、松竹梅。光が空気中に広がり、人々の顔を柔らかく、温かく照らしている。


空気中には様々な匂いが混ざり合っている。イカ焼きのタレの香ばしさ、りんご飴の甘い匂い、焼きそばのソースの香り、金魚すくいの屋台の水生臭さ。これらの匂いが絡み合い、夏特有の嗅覚の記憶を作り上げている。


人が多い。多すぎて朔が地面を見失うほどだ。色とりどりの浴衣を着る人々が屋台の間を行き交い、笑い声、呼び込みの声、太鼓の音が混ざり合い、メロディのない交響曲のように響いている。


「すごい人だな……」


「ええ」結月は彼のそばに立ち、視線を人混みに走らせる。「陽希くんたちは?」


「もう中にいるってさ」朔はスマートフォンを取り出し、LINEの画面を一瞥する。「陽葵は大きなお神輿の近くにいるって。陽希は焼きそばを買いに行っているらしい。詩織は――」


彼は言葉を切る。


「詩織は、もう描いているって」


「何を描くの?」


「教えてくれない」


結月は頷き、それ以上は追及しない。


「じゃあ、先に陽葵のところに行こうか?」


「うん」


二人は人混みへと足を踏み入れる。


頭上で揺れる提灯の光が人々の影を長く引き伸ばし、地面に映し出す。まるで踊る黒い幽霊の群れのようだ。朔が前を歩き、人波をかき分けて結月の道を作る。結月はその半歩後ろをついていく。


この距離感は、彼らを普通のカップルのように見せる。彼氏が前を歩き、彼女が後ろをついていく。彼氏が道を切り開き、彼女がそこを歩く。


しかし、朔はわかっている。


自分たちは違うと。


自分たちは元カノと元カレだ。


義理の妹と義理の兄だ。


協定を結び、そして破棄する二人だ。


待っている一人と、躊躇っている一人の、二人なのだ。


「先輩――!」


陽葵の声が人混みの中から聞こえてくる。


朔が声のする方へ目を向ける。


陽葵は大きなお神輿のそばに立ち、つま先立ちになって彼らに手を振っている。彼女が着ているのは、金色のひまわり柄があしらわれる赤い浴衣だ。鮮やかな赤のベースカラーだが、提灯の光の下ではずいぶん柔らかく見え、まるで薄いベールを被るかのようだ。ひまわりは金糸で刺繍されており、光を受けてかすかにきらめき、本当に光を放っているように見える。


髪は下ろしたままで、毛先が軽くカールし、夜風にふわりとなびいている。耳には花火の形をするイヤリング。プラスチック製の安価なものだが、光の下ではキラキラと輝き、まるで本物の花火が耳元で咲いているかのようだ。


彼女の笑顔は提灯の光に照らされてひときわ眩しく、まるで小さな太陽のようだ。


朔の心臓が跳ねる。


いや、「高鳴る」ではない――「跳ねる」のだ。


彼にはその違いがわかる。


高鳴るのが驚きなら。


跳ねるのはときめきだ。


「先輩!神城先輩!」陽葵が駆け寄り、二人の前で立ち止まる。「来てくれるんですね!二人とも、浴衣すごく似合ってます!先輩の濃紺、すごくかっこいい!神城先輩の紫もすっごく上品です!」


「ありがとう、五十嵐さん」


「お前のもすごく似合っているよ」


陽葵の目が輝きを放つ。


「先輩が褒めてくれる!先輩から自分から褒めてくれます!」


「事実を述べるだけだ」


「じゃあもっと述べてください!私、聞くの好きですから!」


「赤い浴衣がお前にぴったりだ。金色のひまわりも、お前の髪にとても合っている」


陽葵の頬が赤く染まる。


恥ずかしいからではない――嬉しいのだ。


心の底から湧き上がるような、抑えきれない、飛び跳ねたくなるような嬉しさ。


「先輩」彼女の声が少し震える。「それ以上言われると、私、本当に泣いちゃいますよ」


「なら泣けばいい」


「嫌です!泣くとメイクが崩れちゃいます!」


「それ、前にも言うな」


「じゃあもう一回言います!」陽葵は笑いながら朔の袖を引っ張る。「行きましょう、先輩!お兄ちゃんがそっちで焼きそばを買うから!一緒に食べましょう!」


朔は手を引かれて歩き出す。彼は振り返り、結月を見る。彼女は数歩の距離を保ちながら後ろをついてきている。表情は静かだが、灰色の瞳は提灯の光を受けてひときわ明るく輝いている。


まるで、その中で何かが燃えているように。


しかし同時に、それがゆっくりと消えかけているようにも見える。


陽希は良い場所を見つける――広場の端にある小さな高台で、視界が開けており、会場全体と遠くの空を見渡すことができる。地面にはレジャーシートが敷かれ、その上には食べ物がずらりと並んでいる。焼きそば、たこ焼き、りんご飴、わたあめ、焼きとうもろこし、唐揚げ。


「やっと来るか!」陽希がシートの上に座り、片手に焼きそばのパックを持ちながら言う。「待ちくたびれて餓死するかと思うぜ!」


「もう食べるじゃない!」


「これは二つ目だ!」


朔がシートに座り、その隣に結月、反対側に陽葵が座る。三人は横に並んで座り、広場と空を正面に見据える。


「花火は何時からだ?」


「八時。あと三十分だな」


三十分。


朔はスマートフォンを見る――七時三十分。


三十分間。


千八百秒。


その一秒一秒が、何かのターニングポイントの始まりになるかもしれない。


「先輩、あーんして。あーん」陽葵が竹串でたこ焼きを刺し、朔の口元に差し出す。


「自分で食べるよ」


「あーんしてくださいってば!」


朔はため息をつき、口を開ける。


たこ焼きは熱々で、舌が軽く痺れるほどだ。だが味はいい。外はカリッと、中はトロッと、タコは歯ごたえがある。


「美味しいですか?」


「美味しい」


「よかった!私、すごく長い列に並んで買うんですから!」


「ありがとう」


陽葵は微笑み、自分にもたこ焼きを刺して一口食べる。


「ん!ほんとに美味しい!」


結月は隣に座り、静かに焼きそばを食べている。その仕草はとても優雅だ。箸で少量をすくい、口に運び、ゆっくりと咀嚼して飲み込み、また次をすくう。


彼女の食べる姿は美しい。


朔は昔からそう思っている。


だが以前なら、彼はそれを口に出して伝えるだろう。


今はただ見つめ、心の中でつぶやくだけだ。


口に出せば、彼女を勘違いさせてしまうから。


そして彼は、彼女を勘違いさせたくないのだ。


希望を与えておいて奪い去るのは、最初から与えないよりもずっと残酷だからだ。


「神城先輩」陽葵がふいに結月の方を向く。「その簪、すごく素敵ですね!どこで手に入れるんですか?」


「ネットで買うの」


「どこのサイトですか?私も一つ買いたいです!」


「リンクを送るわ」


「やったー!ありがとうございます、神城先輩!」


二人の少女は、簪や浴衣、メイクの話で盛り上がり始める。陽葵が次々と質問し、結月がそれに一つ一つ答えていく。彼女たちの声が夜風の中で交わり合う。高く弾む声と、低く落ち着いた声。まるで異なる二つの楽器による合奏のようだ。


朔は彼女たちを見つめながら、妙な感覚に陥る。


もしも――


もしも彼女たちが恋のライバルではなく、ただの友達であるなら。


どんなに良いだろう。


だが、その「もしも」は実現不可能だ。


なぜなら、彼女たちは同じ人を好きだから。


そしてその人――彼自身――は、同時に二人のものにはなれないのだから。


「朔、大丈夫か?」


「まあな」


「死地に赴くみたいな顔をするぞ」


「……そうか?」


「ああ。肩の力を抜けよ」陽希は彼の肩を叩く。「今日は夏祭りだ。楽しめって」


朔は深呼吸をし、顔の筋肉を緩めようと試みる。


「やっぱりダメだな。笑うのに泣いているみたいだ」


「笑っていない」


「そう、笑っていない。それが問題なんだ」


陽希は彼を見る。その青い瞳には複雑な感情が浮かんでいる――同情のようでもあり、他人の不幸を面白がるようでもある。


「朔、知るか?俺、時々お前のこと、可哀想だなって思うんだよ」


「……どうも」


「そういう可哀想じゃない。なんていうか――お前は考えすぎなんだ。感情ってのは、考えるもんじゃない。行動するもんだ」


「何をけしかけようとするんだ?」


「けしかけない。アドバイスだ」陽希は立ち上がる。「飲み物を買って来る。何がいい?」


「コーラ」


「オレンジジュース!」


「麦茶をお願い」


「了解」


陽希は立ち去る。


シートには三人だけが残される。


朔は真ん中に座り、左に陽葵、右に結月。


二人の少女はどちらも静まり返る。


空気が妙に張り詰める。


まるで見えない何かが三人の間を流れているかのようだ。敵意でもなく、気まずさでもない。それは暗黙の了解。誰もが知っているけれど、誰からも口火を切らないという暗黙のルールだ。


「先輩」


「なんだ?」


「緊張しますか?」


「しない」


「嘘だ。手、震えますよ」


朔は自分の手を見る。――震えていない。


「嘘をつくのはそっちだ」


「そうですよ!」陽葵は笑う。「でも、先輩のその反応が、緊張する証拠です。だって、緊張しないなら、自分の手なんて確認しないじゃないですか」


朔は黙り込む。


彼女の言う通りだからだ。


実は凄く緊張している。


「緊張しないでください❤今日は夏祭りです。花火は綺麗だし、食べ物は美味しいし、そばにいる人も――」彼女は結月を一瞥し、再び朔を見る。「ちゃんと揃いますし」


「だから、楽しんでください」


彼女は手を伸ばし、朔の指をそっと握る。


恋人つなぎではない。


ただ握るだけ。


あの観覧車の時のように。


だが今回、朔は振り払わない。


握り返しもしない。


ただ、彼女に握らせるままにしておく。


結月はそれを見る。


彼女の表情に変化はないが、指先が麦茶のペットボトルを静かになぞり、かすかな、ほとんど聞こえない摩擦音を立てる。


「ちょっと、お手洗いに行ってくるわ」結月は立ち上がり、歩き去る。


陽葵はその背中を見つめ、ゆっくりと朔の手を離す。


「先輩」


「なんだ?」


「神城先輩……辛いでしょうね」


「待つんです。先輩が選ぶのを。でも、待つことって一番辛いんです。だって、待つ間は何もできなくて、ただ待つことしかできないから」


「どうしてわかるんだ?」


「私だって、待つからです」陽葵はうつむき、自分の手を見つめる。「先輩を好きになるその日から、ずっと待ちます。先輩が私に気づくのを。最初に話しかけるのを。私の作るお弁当を食べるのを。私に笑いかけるのを」


「ずっと、待つんです」


彼女は顔を上げる。その青い瞳には、提灯の光が映り込んでいる。


「私は辛いとは思いません。だって――待つのは私であって、先輩じゃないから。私自身が待つことを選ぶから。だから、どれだけ待っても辛くないんです」


「でも、神城先輩は違います。彼女は、待つしかないんです。だって、もう告げているから――先輩が好きだって。彼女にできることは、もう全部やり終えているから。あとはもう、待つしかないんです」


「だから――彼女は、すごく辛いはずです」


朔は彼女を見つめる。


「お前は時々、本当に大人びるな」


「そうですか?お兄ちゃんがあまりに子供っぽいから、私がしっかりするしかないのかもしれません」


「お前の兄貴が聞くと泣くぞ」


「聞こえないから大丈夫です」


二人は笑い合う。


ごく軽い笑い声。


だが夏祭りの喧騒の中にあって、その笑い声はひときわ鮮明に響く。


まるで何かの合図であるかのように。


七時五十分。


陽希がいくつかのペットボトルを提げて戻ってくる。


「神城は?」


「お手洗いに行く」朔が答える。


「ふーん」陽希は腰を下ろし、朔にコーラを渡す。「ほら」


「サンキュ」


「そういえば」陽希が声を潜める。「さっき、月乃森の姿を見るぞ」


「どこで?」


「神社の裏の斜面。絵を描くところだ。ちょっと見に行くか?」


「花火が終わってからにする」


「好きにしろ」


七時五十五分。


結月が戻ってくる。


彼女の表情は相変わらず穏やかだが、朔は彼女の目元がわずかに赤らむことに気づく。涙のせいではない。もっと何かをじっと耐え忍ぶような。喉の奥に何かがつっかえて、飲み込むことも吐き出すこともできないでいるような。


「大丈夫か?」


「大丈夫」結月は座る。「目に砂ぼこりが入るだけ」


「夜に砂ぼこりなんてないだろう」


「今夜はあるの」


朔はそれ以上尋ねない。


八時ちょうど。


一発目の花火が打ち上がる。


「ヒューーー、ドン!」


金赤の光が夜空に弾け、巨大な菊の花のように四方八方へと花びらを広げ、夜空全体を照らし出す。


群衆から歓声が上がる。


続いて二発目、三発目、四発目。


エメラルドグリーン、シルバーホワイト、サファイアブルー、ピンクの光が夜空で交互に花開き、まるで誰かが空でパレットをひっくり返るかのようだ。


花火の音は大きく、胸の奥が微かに震えるほどだ。


しかし朔にとって、その震えは心地よい。


まるで何かが心臓を叩くかのようだ。ドクン、ドクンと、心の中に詰まるものをほぐしていくように。


「綺麗……」陽葵が夜空を仰ぐ。その瞳に花火の光が映る。


結月も空を見上げる。その表情はずいぶんと柔らかい。花火の光が彼女の顔で交互に瞬き、顔立ちが明滅して見える。まるで古いサイレント映画のようだ。


朔は彼女たちを見る。


二人の少女は花火を見ている。


しかし、彼は二人を見ている。


「先輩」陽葵がふいに振り向く。「花火、見ないんですか?」


「見るよ」


「私たちを見ますよ」


陽葵の顔が赤く染まる。


「私の手、繋いでくれませんか?」


朔は陽葵を見る。


彼女の瞳の中で花火が開く。次から次へと、終わらない夏であるかのように。


彼は手を伸ばし、陽葵の手を握る。


指だけではない。


手全体だ。


指と指を絡ませる。


陽葵の手は小さく、温かく、手のひらには少しだけ汗をかく。彼女の指先がかすかに震え、やがてゆっくりと、力強く握り返してくる。


「ありがとうございます、先輩。」


朔は答えない。


彼は顔を向け、結月を見る。


結月は花火を見ている。


その表情は、ひどく静かだ。


しかし彼女の手は、浴衣の袖の中で、きつく拳を握りしめている。

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