第15話 盛夏の浜辺、溶け出したロジック
七月、夏休みが始まって最初の週末。
太陽の光が世界中を焼き尽くすかのように、容赦なく降り注ぐ。 四方八方から押し寄せる蝉時雨は、まるで誰かが空に無数の小さなスピーカーを設置して、同じ騒々しい夏の歌をループ再生しているかのようだ。
朔は駅前広場に立つ。黒の半袖にダークグレーのハーフパンツ、足元はサンダルという出で立ちで、肩からはタオルと日焼け止めが入ったリュックを下げている。
スマホに目をやると――朝の八時半、約束の時間までまだ十五分ある。
彼はわざと早く到着している。
早く着きたかったわけではなく、昨晩ほとんど眠れなかったからだ。
深夜二時から朝の六時までベッドに横たわりながら、脳内では同じ映像が何度もリピート再生される――結月が「あなたがそばにいないことに慣れる」と言った時の表情、陽葵が送ってきた「先輩、また明日」メッセージ、詩織が美術室で「夏祭りの日に、わかるわ」と言った時の横顔。
三つの光景。
三人の少女。
三つの異なる方向。
風に吹かれて曲がった木のように、どの方向へ背筋を伸ばせばいいのか分からない。
「先輩――!」
朔は顔を上げる。
陽葵が駅の出口から駆け寄ってくる。 その金色の髪は、太陽の下で風にたなびく旗のようだ。 白のキャミソールワンピースの上に淡いブルーの薄手カーディガンを羽織り、足元は白いスニーカー、手には籐編みのバッグを提げている。
今日の髪型はゆるいおさげが二つ、毛先にはスカイブルーのリボンが結ばれている。 走るたびに揺れる三つ編みは、まるで二匹の楽しげな小魚みたいだ。
「おはよう」
「先輩、いっぱい待ちました?」陽葵は彼の目の前まで走り寄り、少し息を切らせている。
「ごめんなさいごめんなさい、家を出るのが遅くなっちゃって。どの靴を履こうか迷ってたら――」
「そんなに待ってない、俺もさっき着いたばかりだ」
「嘘です。先輩の髪、風でちょっと乱れてるから、少なくとも十分以上は立ってた証拠ですよ」
朔は無意識に自分の髪に触れる。
陽葵はくすくすと笑い出す。
「先輩ってば、ほんと可愛いです」
「そういうこと言うなら、もう帰るぞ」
「言いません、言いませんから!」 陽葵は慌てて朔の袖を掴む。 「行きましょう行きましょう、お兄ちゃんが海で待ってるって!」
二人は海へ向かうバス停へと歩き出す。陽葵は道中、ペチャクチャと絶え間なく喋り続ける――昨晩どんな夢を見たか(先輩と一緒に観覧車に乗る夢)、今朝何を食べたか(トーストと牛乳、でもトーストは焦がしてしまった)、最近書いている小説の進捗はどうか(ヒーローがようやくヒロインを好きだと自覚する展開)。
「ヒーローがようやく自覚するのか?」
「そうですよ!」 陽葵は振り返って彼を見つめる。 青い瞳がきらきらと輝いている。 「彼、すごく時間をかけて、色んなことを経験して、ヒロインにずっと追いかけられて、ようやく――やっと自分の気持ちに気づくんです」
「ヒロインが好きだって自覚するんだな?」
「はい!」
「で、その後は?」
「その後は――」 陽葵は少し考える。 「その後、彼は選択を迫られるんです。ヒロインと一緒にいることを選ぶか、それとも躊躇し続けるか」
「彼はどっちを選ぶんだ?」
陽葵は朔を見つめ、口角を少し上げる。
「先輩、当ててみます?」
「……ヒロインか?」
笑顔が弾ける。まるで誰かが彼女の顔に明かりを灯したかのようだ。
「正解!彼はヒロインを選びます!だって――ヒロインと一緒にいる時の自分が、一番自分らしいって気づくからです」
朔は言葉を発しない。
「先輩」陽葵はうつむき、膝の上に置いた自分の手を見つめる。「『一番自分らしい』って、どういう意味だと思います?」
朔は少し考える。
「たぶん――偽らなくていいってことじゃないか」
「偽らなくていい……」
「ああ。誰かの好みに合わせる必要もないし、『こうすれば相手が喜ぶだろうか』と考える必要もない。 話す前にいちいち頭の中で言葉をこねくり回さなくていい」 朔は言う。
「つまり――ただの自分でいられるってことだ」
陽葵はしばらく押し黙る。
「先輩」 彼女は小声で尋ねる。「私と一緒にいる時、先輩はただの自分でいられますか?」
バスが赤信号の前で停車する。
日差しが車窓から差し込み、陽葵の金髪に落ちる。その一本一本の髪の毛が、まるで細い金糸のように照らし出される。
朔は彼女を見つめる。
彼女の表情は真剣そのものだ――いつものおどけたような真面目さではなく、心の底から湧き上がってくるような、一抹の不安と期待が入り交じった真摯さだ。
「いられる」
陽葵の目がぱっと輝く。
「本当に?」
「本当だ。お前と一緒にいる時は、多くを考える必要がない。お前が俺の代わりに、全部『考えて』くれるからな」
陽葵はきょとんとする。
そして、彼女の顔がゆっくりと、ゆっくりと赤く染まっていく。
「せ、先輩――それって褒めてるんですか?それとも貶してるんですか?」
「事実を述べてるだけだ」
「先輩の『事実』は心臓に悪いです!」
陽葵は胸を押さえ、大げさに座席へ倒れ込む。しかし、その口角は高く上がり、目は三日月のように細められている。
そんな彼女の様子を見て、朔の口角も無意識に少し持ち上がる。
バスが再び走り出す。
窓の外の景色が街から郊外へ、そして郊外から海岸線へと変わっていく。 建物と建物の隙間から青い水平線が見え隠れし、まるで遠くで誰かが巨大な青い絹を広げているかのようだ。
海だ。
もうすぐ着く。
陽希が選んだビーチは郊外の小さな町にあり、市街地から車で約一時間の距離だ。 人気の観光地のように人でごった返すことはない――砂浜はきれいで、海水は青く、空はさらに高く感じる。
朔と陽葵が到着すると、陽希はすでにそこにいる。ビーチチェアに寝そべり、サングラスをかけ、手には小さな紙傘が刺さったジュースを持っている。 まるでバカンスに来た御曹司のような出で立ちだ。
「来たか?」 陽希はサングラスを外し、二人に手を振る。「遅いぞ!こっちはもう二十分も待ってるんだ!」
「お兄ちゃんが来るの早すぎなの!」 陽葵は駆け寄り、バッグを砂浜に放り投げる。 「場所取りしてくれた?」
「取った取った、あそこだ――」 陽希は少し離れた空き地を指さす。「シートを敷いて、パラソルも立てて、飲み物も買っておいた。 兄貴としてはかなり気が利くだろ?」
「気が利く気が利く!お兄ちゃん最高!」 陽葵は適当に二言三言褒めちぎると、くるりと振り返って朔の手を引く。 「先輩!着替えに行きましょう!」
「行っておいで、俺はここで荷物を見てるから」と陽希は言い、朔に一秒だけ視線を止め、口元に意味深な笑みを浮かべる。
「朔、思いっきり楽しんでこいよ」
その笑顔に、朔の背筋が少しゾクリとする。
その笑顔を知っている――それは、陽希が罠を仕掛ける前に必ず見せる表情なのだ。
更衣室は海辺に仮設された簡素な木小屋で、男女に分かれている。
朔が水着に着替えて外に出ると、陽葵はまだ出てきていない。彼は更衣室の外に立ち、海面を見つめる。 波が幾重にも押し寄せては、幾重にも引いていく。まるで永遠の呼吸を繰り返しているかのようだ。
空気中には潮の香り、日焼け止めの甘い匂い、そしてイカ焼きの香ばしい匂いが漂っている。 遠くでは数人の子供たちが砂のお城を作っており、そばに座る母親が優しい笑顔で見守っている。
朔はふと、子供の頃を思い出す。
母親がまだ生きていた頃、家族三人で海に来たことがある。その時の彼はまだ小さくて、具体的な出来事は覚えていないが、母親の手がとても温かかったことだけは記憶している。その手を繋いでいる時、世界中が安全な場所に思えた。
その後、母親はこの世を去る。
彼は、そんな安心感を二度と求めないことを覚える。
しかし、今は――
今、彼は海辺に立ち、ひとりの少女が水着に着替えるのを待っている。心の中には、何かで満たされるような不思議な感覚がある。
安心感ではない。
それは――
「先輩」
陽葵が更衣室から出てくる。
彼の呼吸が止まった。
白のビキニに、シースルーのラッシュガードを羽織っている。白い水着は太陽の下で発光するほど白く、日焼けとは無縁の肌と溶け合って、薄手のラッシュガードが潮風にふわりと揺れ、華奢な腰のラインとすらりとした脚を覗かせる。
髪はほどかれ、金色のウェーブが肩にかかり、幾筋かの髪が海風に吹かれて頬にかかる。彼女は手で髪を耳にかけ、小ぶりな耳と、そこで輝く星型のピアスを露わにする。
「どうですか?」
その声には一抹の緊張が混じっている。
「似合いますか?」
朔は少し口を開く。
彼の脳はフル回転する――この質問に答えつつ、気にしすぎているように見えない言い回しを見つけ出そうと必死だ。
「普通だ」
「嘘つき!」陽葵の顔が赤く染まる。「さっき私を見た時、目が釘付けになってましたよ!」
「日差しが眩しかったからだ」
「今日はそんなに眩しい日差しじゃありません!」
「今、眩しくなった」
「先輩――!!」
陽葵は突進してきて、拳で朔の肩をぽかっと叩く。その力はとても弱く、まるで親愛の情を込めた甘えのようだ。
「『似合う』の一言くらい言ってくれないんですか?一言でいいのに!」
「似合ってる」
陽葵の手が宙で止まる。
「い、言いましたね……」
「お前が言えって言ったんだろう」
「私が言えって言ったら言うんですか!いつもは私の言うことなんて聞かないくせに!」
「今日は特別だ」
陽葵は両手で顔を覆う。
「だめだめ、もう死んじゃいそう。 先輩、今日どうしちゃったんですか。 一言一言が全部心臓に悪すぎます」
顔を覆う彼女の姿を見て、朔はたまらず少し笑みをこぼす。
ほんのわずかな。
ほんの微かな。
しかし、陽葵は指の隙間からそれを見逃さない。
「先輩、今笑いましたよね!」
「笑ってない」
「笑ってました!この目で見ましたよ!」
「海風で顔が変形しただけだ」
「嘘です!海風で顔が笑った形になるわけないでしょ!」
陽葵は手を下ろす。顔はまだ赤いものの、目は笑っている。彼女の視線は朔の顔でしばらく止まり、そのまま下へと移動して、彼の胸元に留まる。
「先輩。思ってたよりスタイルいいですね」
「……どこを見てるんだ?」
「先輩の腹筋ですよ!はっきり六つに割れてるわけじゃないけど、ラインがすごくきれいです!」 陽葵は首をかしげ、隠そうともせずにじろじろと観察する。 「肩幅も広いし、鎖骨もくっきりしてるし――先輩、普段から鍛えてるんですか?」
「いや。徒歩で通学してるだけだ」
「じゃあ、なんでそんなにスタイルがいいんです?」
「遺伝だ」
「なんて贅沢な遺伝!」
陽葵は手を伸ばし、少し躊躇してから、軽く朔の鎖骨を指先でつつく。
「ここ。すごくきれいです」
彼女の指先はひんやりとしていて、朔の肌に小さく、ほとんど感じられないほどの痕跡を残す。
しかし、朔はたしかに感じる。
指先の温度だけではない――鼓動が早くなるのも。
「行くぞ」背を向け、砂浜に向かって歩き出す。「お前の兄貴が待ってる」
「先輩、照れてるんですか?」
「照れてない」
「耳、赤くなってますよ!」
「風のせいだ」
「今日は風なんてありません!」
「今、吹いてきた」
「先輩――!いつもそうやって言うんだから!」
陽葵は笑いながら追いかけてきて、自然と彼の隣を歩く。二人の肩はほとんど触れ合うほど近く、腕が時折ぶつかる。その度に朔の神経が微かに震える。
砂浜でパラソルの下に寝そべる陽希は、こちらへ向かってくる二人を見て、ヒューッと口笛を吹く。
「よお、お前ら、結構お似合いじゃないか」
「お兄ちゃん!」 陽葵の顔がまた赤くなる。
「事実を言ったまでだ」 陽希は起き上がり、隣のシートを指さす。「座れ座れ、何か飲めよ。朔、何がいい?コーラか?スポーツドリンクか?」
「スポーツドリンクで」
陽希はクーラーボックスからスポーツドリンクを取り出して朔に投げ渡し、陽葵にはオレンジジュースを渡す。
「神城は?」と朔は尋ねる。
「あいつはまだだ。少し遅れるって言ってた」
朔はペットボトルのキャップを開け、一口飲む。
冷たい液体が喉を通り抜け、少しだけ暑さを和らげるが、心の中の熱さまでは奪い去ってくれない。
「じゃあ、私たち先に行きましょう!」 陽葵は立ち上がり、朔の手を引く。「先輩!海へ行きましょう!」
「ちょっと待て、まだ飲み終わってない――」
「戻ってきてから飲めばいいです!」
陽葵は朔の手を引き、海辺へと駆け出す。
踏みしめるたびに砂が沈み込み、浅い足跡を残していく。 手を引かれて走りながら、朔は陽葵の後ろ姿を見つめる――白いラッシュガードが海風に舞い、金色の髪が旗のようにはためく。 笑い声は風に吹かれて無数の小さな欠片となり、日差しの中に降り注ぐ。
海水が足首を沈める。
冷たい。
続いて膝まで。
さらに冷たい。
陽葵は朔の手を離し、身をかがめて両手で水を掬い上げると、朔めがけてバシャッと掛ける。
「先輩!くらえ!」
水しぶきが太陽の下で飛び散る。それは無数の透明なビーズのようで、一つ一つが虹色の光を反射する。
「お前――」
「あははは!先輩の顔、すっごく面白い!」 陽葵はお腹を抱えて笑う。
朔も身をかがめ、両手で水を掬って掛け返す。
「きゃー!先輩、不意打ちです!」
「先にやったのはそっちだろ」
「じゃあ、もういっちょ!」
陽葵が再び水を掛けると、朔は体をひねって避け、水しぶきは彼の肩に落ちる。 彼が反撃すると、陽葵は悲鳴を上げながら海の中へ逃げ込み、海水が彼女のふくらはぎ、膝、太ももへと達する。
「あまり遠くへ行くな!」
「先輩、捕まえてみてくださいー!」
陽葵は振り返り、太陽のように眩しい笑顔を見せる。ラッシュガードは海水に濡れて肌に張り付き、体のラインをくっきりと描き出す。半分濡れた金髪が頬や首筋にまとわりつき、毛先から滴る水滴は、太陽の光を受けて小さなダイヤモンドのように輝く。
朔は彼女に追いつく。
足が速いからではない――陽葵がわざとペースを落とし、彼が後ろから手首を掴むのを待っていたからだ。
「捕まえた」
陽葵は振り返り、二人は海の中へ向かい合って立つ。 波が押し寄せてふくらはぎまで浸し、また引いていくと同時に足元の砂をさらっていく。
距離が近い。
陽葵のまつ毛にかかる水滴まで見えるほど。 鼻筋にあるほとんど見えないそばかすが見えるほど。 そして、彼女の吐息の温度を感じ取れるほどに近い。
「先輩」陽葵は小声で言う。「心臓、すごくどきどきしてますね」
「……なんで分かる?」
「だって、手首が震えてますから」
朔は手を離す。
陽葵はそれを許さない。
彼女は逆に朔の手を握り返し、指を絡めて繋ぐ。
「キスしでください」
朔は彼女を見つめる。
その真剣な眼差し、ほんのり赤らんだ頬、そして、海水に濡れた毛先を。
何か言おうとする。
「わかった」と。
「できない」と。
言おうとする――
「浅倉」
背後から声が聞こえる。
朔は振り返る。
結月が砂浜に立っている。黒のワンピース水着姿だ。
黒の水着はとても保守的なデザインだ――ハイネックで、背中が開き、腰の横だけが少し切り抜かれている。 しかしなぜか、保守的なデザインであればあるほど、彼女が着ると視線を奪われてしまう。
おそらく、彼女の肌が白すぎるからだ――黒い生地との対比で、まるで発光しているかのように白い。
髪はお団子にまとめられ、すらりとした首筋と華奢な鎖骨を露わにしている。 耳元に垂れる数筋の後れ毛が、海風にそよそよと揺れる。すっぴんだが、生まれつき薄いピンク色をした唇は、日差しの下でひと際柔らかそうに見える。
彼女の表情はとても静かだ。
しかし朔は気づく。彼女の視線が、自分と陽葵の繋がれた手に落ちていることに。
ほんの一瞬。
そして、彼女は視線を逸らす。
「遅れたわ。道が混んでて」
「大丈夫ですよ!」 陽葵は朔の手を離し、結月に手を振る。「神城先輩!その水着、すごく素敵です!黒、すっごく似合ってます!」
「ありがとう。あなたのも、よく似合ってるわ」
「本当ですか?これ、ネットですごく時間をかけて選んだんですよ!」
二人の少女は水着について話し始める――一方が「そのデザイン、すごく上品ね」と言えば、もう一方が「その色、肌の色にぴったりですよ」と返す。
まるで普通の友達同士の会話のようだ。
しかし朔は気づく。 結月がバッグの肩紐をずっと強く握りしめていて、指の関節がわずかに白くなっていることに。
一方、陽葵の笑顔は眩しいが、その目はチラチラと朔の方を見ている。
「朔、ちょっと来い」
パラソルの下から陽希が手招きする。
「どうした?」
「いや」 陽希は新しいスポーツドリンクの缶を彼に手渡す。「お前をあの修羅場から救い出してやろうと思ってな」
「……助かる」
「どういたしまして」
「朔、あいつら、まるで踊ってるみたいだと思わないか?」
「何がだ?」
「すごく絶妙なダンスを踊ってるみたいだ――どちらも自分からは近づきたくないけど、どちらも後ずさりしたくない」
「そして、お前はそのダンスの音楽ってわけだ」
朔は答えない。
「そうだ」 陽希はふいに声を潜める。「月乃森も来るぞ」
朔の手がピタリと止まる。「詩織?」
「ああ。海を描きたいって言うからな」 陽希は笑う。「俺が呼んでおいた。構わないよな?」
朔はしばらく沈黙する。
「構わない」
「本当に構わないのか?」
「分からない……好きにしろ」
陽希は彼の肩をポンと叩く。
「朔、知ってるか。 お前の最大の問題は『分からない』ことじゃない。『分かっていても口に出せない』ことだ」
潮の香りと夏の匂いを乗せて、海風が吹き抜ける。
遠くでは、陽葵と結月がすでに海の中へ歩いて行っている。日差しが彼女たちに降り注ぎ、その輪郭を金色の縁取りで包み込む。
朔は二人を見つめて、心の奥底にある温かい感覚が、またふつふつと湧き上がってくる。
単純な暖かさではない。
混乱だ。
分類できず、名付けることもできず、どんな論理モデルでも説明できない混乱。
彼はスポーツドリンクを一口飲む。
冷たい。
しかし、心の熱を抑え込むことはできない。
午後二時、太陽が最も高い位置に昇る頃、詩織が到着する。
彼女は水色のアナピス姿だ――水着ではなく、普段着だ。 膝丈のスカートに、襟元には小さなフリルがつき、腰には白い細身のベルトを巻いている。 髪の長さはいつも通りで肩に下ろしており、太陽の下で柔らかな栗色の光沢を放っている。
その手には画板と画材箱が握られている。
「月乃森さん!」陽葵が全身ずぶ濡れで海から駆け上がってくる。「海には入らないんですか?」
「入らないわ、絵を描きに来たから」
「もったいない!海水、すっごく気持ちいいのに!」
「あなたたちは遊んでて」 詩織は砂浜で場所を見つけるとイーゼルを立て、画材箱を開く。
その動作は静かで手慣れており、まるで無数に繰り返してきたことをこなしているかのようだ。
朔は彼女を見つめ、不思議な感覚を覚える――
安心感。
全員が「動」である中、彼女だけが「静」なのだ。
すべての音が騒ぎ立てる中、彼女の沈黙だけが本物なのだ。
彼はこの静寂を必要としている。
なぜなら、彼の世界はもうあまりにもうるさすぎるからだ。
詩織はイーゼルを立て終えると顔を上げ、深いブラウンの瞳で朔を見つめる。
ほんの一瞬。
そして彼女はうつむき、色を作り始める。
しかしその一瞬の間に、朔は何かを見る。
メッセージではない。
暗示でもない。
期待でもない。
ただの――眼差しだ。
純粋で、何の目的も持たない眼差し。
まるで「あなたを見つけたわ」と言っているかのような。
「先輩――!早く来て!ヒトデを見つけました!」
朔は海辺に目をやる。
陽葵は海の中に立ち、足元を指さしている。その顔には子供のような興奮が浮かんでいる。
朔は歩いていく。
海水が足首、ふくらはぎ、膝と浸していく。
「見て!」 陽葵はしゃがみ込み、水中の小さなものを指さす。
それはとても小さなヒトデだ。 茶色をしていて、砂に張り付き、砂の色とほとんど同化している。
「小さいな」
「でしょ!こんなに小さなヒトデ、初めて見ました!」 陽葵は指を伸ばし、そっとヒトデに触れる。ヒトデがピクリと動き、ゆっくりと砂の中へ潜り始める。
「わっ、逃げてる」
「私たちが大きすぎるから、怖いんですよ」陽葵は立ち上がり、ヒトデが消えた場所を見つめる。
「ヒトデになりたいなあ」
「なんでだ?」
「だって、ヒトデなら選択する必要がありませんから。ただ海底にいて、食べて、寝て、何も考えなくていい。素敵じゃないですか」
朔は彼女を見つめる。
その言葉を口にする時の口調はとても軽く、まるで冗談を言っているかのようだ。
しかし朔は気づく。彼女の視線が、彼と結月の間を素早く行き来したことに。
その瞬間、彼は悟った――
彼女はヒトデの話をしているのではないと。
彼女は、自分自身のことを言っているのだと。
彼女は選択をしたくないのだ。
選択するのは疲れすぎるから。
だから、ただ彼のそばにいて、食べて、寝て、何も考えないでいる。
なんて素敵なことか。
しかし、それは真実ではない。
なぜなら、彼女は人間であり、ヒトデではないからだ。
彼女だって疲れるし、痛みも感じるし、深夜にスマホを見つめながら泣くこともある。
ただ、彼にそれを見せないことを選択しているだけだ。
「陽葵」
「はい?」
「ヒトデは選択する必要はないかもしれないが、一生海底にいて、空を見ることができない」
陽葵はハッとする。
「だから、ヒトデになんてなるな」
彼は陽葵の目を見つめる。
「お前は人間だ。空を見ることができる」
陽葵の目頭が熱くなる。
「先輩」 彼女の声は少し震えている。「こういう時に、そんなこと言わないでくださいよ……泣いちゃいますから……」
「なら泣けばいい」
「嫌です!泣いたらメイクが落ちちゃいます!それに、神城先輩が見てるのに!」
結月は傍らに立ち、二人のやり取りを見つめる。
その表情はとても静かだ。
しかし、水面下で彼女の手はぎゅっと握り締められている。
怒りからではない。
それは――
彼女も、あんな風に見つめられたいから。
彼女も、朔に「ヒトデになんてなるな」と言われたいから。
しかし、朔は彼女にそう言わない。
なぜなら彼は知っているからだ――彼女がヒトデにならないことを。
彼女は鳥になるだけだ。
高く、遠くへ飛び、けれど常に羽を休める場所を探し続ける鳥に。
そして、その羽を休める場所とは、かつては朔の肩だった。
今は――
彼女自身も、まだそうなのかどうかが分からない。
午後三時、太陽が西へ傾き始める。
陽希がビーチバレーをやろうと提案する。 陽葵は興奮気味に手を挙げて賛成し、結月もいいわよと答え、朔はどっちでもいいと言う。
詩織は断る。「私は絵を描くから」
そこで四人――朔、陽葵、結月、陽希――は海辺に簡易ネットを張る。
「私と先輩が同じチーム!」
陽葵が即座に宣言する。
「じゃあ、俺は当然義弟と同じチームだな?」陽希が笑う。
「お兄ちゃん!義弟って何よ!」
「違うのか?ならなんでお前はどうしてもあいつと同じチームになりたいんだ?」
「だ、だって私の先輩だから!」
「へえ――先輩ね」 陽希の笑みがいっそう深くなる。 「なるほどね」
「何が分かったのよ!」
「どうしてあいつと同じチームになりたいのか分かったってことだ」
「お兄ちゃーーん!!」
傍らに立つ朔は、この兄妹の口喧嘩を眺めながら、無意識に口角を少し上げる。
向かい側に立つ結月は、朔の持ち上がった口角を見つめながらも、その表情は依然として静かだ。
しかし彼女の心の中では、ある一本の弦が弾かれている。
その弦の名前は「かつて」。
かつて、朔は彼女ひとりにしか笑わなかった。
かつて、彼女は彼に口角を上げさせることができる唯一の存在だった。
今は――
今は、もう違う。
試合が始まる。
朔と陽葵が左側、結月と陽希が右側だ。
陽葵の運動神経は驚くほど良い――走るのが速く、反応が鋭く、レシーブも安定している。 朔の運動能力も悪くないが、彼がより得意としているのは観察と予測だ――相手の立ち位置と動きから、ボールがどこに落ちるかを大体判断できる。
一球目、陽希のサーブ。とても速く、朔と陽葵の間のスペースを狙っている。
「私が!」 陽葵が飛び出し、フライングレシーブでボールをネットの向こうへ返す。
ボールは結月の目の前へ落ちて、結月がそれを拾い、ボールは空高く舞い上がる。
陽希が跳び上がり、スパイク。
ボールは容赦なく朔の足元に叩きつけられ、弾んでコート外へ飛び出す。
「15対0!」
「お兄ちゃん、力入りすぎ!」 陽葵が抗議する。
「これが実力ってやつさ!」
二球目、朔のサーブ。
彼はボールをトスし、跳び上がり、スパイクを打ち込む。
ボールはネットすれすれを飛び越え、結月の足元に落ちる。
結月は取れない。
「ナイスサーブ!」と陽葵が歓声を上げる。
結月は足元のボールを見つめ、顔を上げ、灰色の瞳で朔を見る。
その眼差しには何かがある。
怒りではない。
悔しさでもない。
それは――
懐かしさ。
「昔は」結月は小声で言う。「あなたのサーブ、いつもネットを越えなかったわね」
朔はハッとする。
彼女は覚えている。
彼がサーブを打ってもネットを越えなかったことを覚えている。
それはずっと昔のことだ――中学生の頃、体育の授業で一度だけバレーボールをやった。 彼は五回サーブを打ち、四回はネットを越えず、一回はアウトになった。
当時彼の隣に立っていた結月は、「へたくそ」と小さく呟いた。
そして、彼女がサーブの打ち方を教えたのだ。
手の構え方、足のスタンス、トスの高さまで。
彼女はとても真剣に教えた。
彼もすぐに覚えた。
それ以来、彼はサーブで二度とミスを犯さない。
「今は越える」
結月はうなずく。
「ええ。上達したわ」
短い会話。
二人にしか分からない。
傍らに立つ陽葵は、朔と結月の間の、短いながらも「二人だけの秘密」に満ちた視線の交錯を見つめる。
彼女の笑顔は変わらない。
しかし、彼女の指はボールをぎゅっと握り締める。
第四セットで、アクシデントが起きる。
陽葵がボールを拾おうとした際、貝殻を踏んで足を滑らせ、砂浜に転倒する。
「陽葵!」
陽葵は地面に座り込み、膝を押さえている。 指の隙間から血が滲む――そこまでひどくはないが、傷口に砂が混じり、痛そうだ。
「痛むか?」
「痛くないです!」 陽葵は笑って言うが、目は赤くなっている。
朔は彼女の膝を見る――爪ほどの大きさの擦り傷があり、砂が入り込んでいるため、洗浄が必要だ。
「行くぞ、手当てしよう」 朔は彼女を抱え起こす。
「まだ続けられます――」
「だめだ」
「でも――」
「でもじゃない」
朔の口調は断固としている。陽葵は少し口を開くが、それ以上は何も言わない。
結月は傍らに立ち、陽葵を支えて立ち去る朔の後ろ姿を見つめる。
その表情は相変わらず静かだ。
しかし陽希は気づく。 彼女の唇がかすかに震えていることに。
「神城さん」 陽希が歩み寄り、小声で尋ねる。「大丈夫か?」
「ええ」
「唇が震えてるぞ」
「気のせいよ」
陽希はそれ以上追及しない。
「無理して強がらなくてもいいんだぞ」
結月はしばらく沈黙する。
「強がってなんてないわ。私はただ――」
彼女は言葉を区切る。
「ただ、慣れてるだけ」
陽希は彼女を見つめ、ふと、この少女が自分の妹にとてもよく似ていると感じる。
顔が似ているのではない。
その意地っ張りなところが似ているのだ。
一度この人と決めたら、絶対に手を離そうとしない。
たとえその人が、もう遠くへ行ってしまっていても。
簡易救護所で、朔はミネラルウォーターを使って陽葵の傷口を洗い流す。
水が傷口にかかると、陽葵の脚がビクッと震えるが、声は出さない。
「痛いなら言え」
「痛くないです」
「脚が震えてるぞ」
「寒いからです」
「今は七月だ」
「七月でも海水は冷たいんです!」
朔はため息をつき、救急箱からイソジンとガーゼを取り出す。
「少し染みるかもしれない」
「平気です、怖くない――」
イソジンが傷口に触れた瞬間、陽葵は「ひっ」と息を呑み、顔全体をしかめる。
「怖くないって言ったよな?」
「怖くないです!ただ――ちょっと冷たかっただけです!」
彼女の表情を見て、朔はたまらず少し笑みをこぼす。
「何笑ってるんですか!」 陽葵の顔が赤くなる。
「お前を笑ってるんだ」
「私のどこがおかしいって言うんですか!」
「おかしなところだらけだ」
陽葵は唇を尖らせるが、本気で怒ってはいない。
朔はガーゼを貼り終え、立ち上がる。
「よし。水には濡らすなよ」
「わかりました……」
陽葵はうつむいて膝のガーゼを見つめ、ふいに小声で言う。「先輩、知ってますか。 ケガをして、誰かに手当てしてもらうのは、これが初めてです」
朔は彼女を見る。
「前はケガしても、全部自分で手当てしてたんです。お兄ちゃんはああいう大雑把な人ですから、私がケガしても『大丈夫大丈夫、二日もすれば治る』って言うだけだし。 お母さんは仕事が忙しくて、私の面倒を見る時間なんてないし」
「だから私は覚えたんです――ケガをしても泣かないこと。 泣いても誰も気づいてくれないから」
彼女は顔を上げ、朔を見つめる。
「でも先輩、さっき手当てしてくれた時、私、思ったんです――もし、ずっと誰かが私の傷を手当てしてくれるなら、どんなにいいだろうって」
「誰かに手当てしてほしいからじゃないんです。誰かが私のために手当てをしてくれる、そのこと自体が、傷が治ることよりも大事なんだって」
朔は彼女を見つめる。
その目元に浮かぶ、ほとんど見えないくらいの涙の光を。
「陽葵」
「はい?」
「これからケガをしたら、俺のところへ来い」
陽葵の目が大きく見開かれる。
「本当ですか?」
「本当だ」
「先輩のその言葉――本気にしてもいいんですか?」
「いいぞ」
陽葵の涙が、ついにこぼれ落ちる。
声を上げて泣くわけではない。
静かに、音もなく、ずっと我慢していたのがとうとうこらえきれなくなったかのように、涙を流す。
「先輩、ひどすぎます……」 彼女は泣きながら笑う。「今日は、私を泣かせようとする言葉ばかり言って……」
「なら泣けばいい」
「嫌です!泣いたらメイクが――」
「落ちても嫌いにはならない」
陽葵はさらに激しく泣きじゃくる。
朔は彼女の前に立ち、どうすればいいのか分からない。
彼は手を伸ばし、少し躊躇してから、彼女の頭にそっと置く。
そして、撫でる。
「泣くな。不細工だぞ」
「先輩の方が不細工です!」 陽葵は袖で涙を拭い、鼻をすする。「先輩が一番不細工です!」
「それなのに、俺のことが好きなのか?」
「好きです!」
陽葵は泣きながら笑う。
彼女の笑顔を見て、朔の心の中の温かいものがさらに大きく膨らんでいく。
溢れ出しそうなくらいに。
それが何なのか、彼は分からない。
だが、これだけは分かる――
それがとても大切なものだということは。
夕方、太陽が沈み始める頃、詩織の絵が完成する。
キャンバスに描かれているのは、一面の海だ。
絵葉書でよく見るような穏やかな青い海ではない――複雑で、奥行きがあり、まるで命を持っているかのような海だ。
手前の海水は薄い緑色で、巨大なゼリーのように透き通っており、海底の砂や貝殻まで見通せる。
中間の海水は深い青に変わり、波の模様がくっきりと浮かび上がり、その波紋の一つ一つが精巧に計算されているかのようだ。
遠くの水平線では、夕日が空と海面を金赤色に染め上げている。 光が水面で跳ね回り、無数の小さなダイヤモンドが煌めいているようだ。
砂浜には、四つの小さな人影がある。
顔はよく見えない。
だが、女が三人、男が一人であることは分かる。
少女たちはそれぞれ違う場所に立ち、違う方向を向いている。
少年は真ん中に立っている。
「これは……」 朔はその絵を見つめる。
「今日の午後の海よ」と詩織は言う。
「この四人は――俺たちか?」
「ええ」
「どうして皆、違う方向を向いてるんだ?」
詩織は絵筆を置き、少し考える。
「だって。人によって、海を見る方向は違うもの。過去を見る人もいれば、未来を見る人もいるし、現在を見る人もいる。 海だけが、ずっとそこにあるのよ」
朔は四つの小さな人影を見つめる。
あの少年は――海の方を向いている。
だが朔には、その体がわずかに斜めに傾き、隣の誰かを見ているように思えてならない。
「詩織」
「ん?」
「お前は、どの方向を向いてるんだ?」
詩織はしばらく沈黙する。
「私は――」 彼女はキャンバスを見る。「絵の中の人を向いてるわ」
朔は言葉を発しない。
夕日が海面へゆっくりと沈んでいき、空の雲がオレンジ、紫、ピンク色に染まっていく。
詩織の横顔は夕日の中で際立って柔らかく見え、まるで温かい光でコーティングされているかのようだ。
「浅倉くん」
「なんだ?」
「今日は来てくれてありがとう」
「どうして俺に礼を言うんだ?誘ったのは陽希だ」
「だって――」 詩織は顔を向け、深いブラウンの瞳で彼を見つめる。「あなたが来てくれたから、この絵が描けたんだもの」
「もし俺がいなかったら?」
「もしあなたがいなかったら、この絵にあの少年はいない。少年がいなければ、この絵はただの空っぽの海よ」
「空っぽの海は綺麗じゃないのか?」
「綺麗よ。でも、意味がないの」
朔は彼女の目を見つめる。
彼女の瞳の中で夕日が燃え、二つの小さな炎のように揺らめいている。
「詩織。お前の言うことって、いつもどう返せばいいか分からないって思わないか?」
詩織の口角が上がる。
それは朔が今まで見た中で、最もはっきりとした彼女の笑顔だ。
「なら、返さなくていいわ。覚えておいてくれれば、それでいいの」
彼女は画板を片付け、立ち上がる。
「行きましょう、日が暮れるわ」
二人は一緒に帰り道を歩き出す。
砂浜には、二人の足跡が並んで伸び、海辺から砂浜の高みへと続いている。
海風が吹き抜け、いくつかの足跡を平らにしていく。
だが、いくつかの痕跡は、そのまま残る。
心の中に。
時間の隙間に。
永遠に。




