第14話 背伸びの終わり、成長の証
花見の事件以降、朔の生活は奇妙なリズムへと入っていく。
その「奇妙さ」を言葉で表すのは難しい——良くなるわけでも、悪くなるわけでもなく。まるで元々二つのトラックしかなかった歌に、突然三つ目、四つ目が加わり、すべてのメロディーが絡み合い、主旋律も、向かうべき方向も分からなくなってしまうような、そんな感覚だ。
学校では、陽葵の猛攻がさらに激しさを増す。
彼女はもう昼休みに弁当を食べさせるという「通常オペレーション」だけでは満足しない。新たな「戦場」を開拓し始めるのだ。
例えば、朝。
以前なら、陽葵は昼休みにしか姿を見せない。だが今は、三十分早く学校に到着し、朔が校門をくぐるやいなや、コンビニのコーヒーを手に突撃してくる。
「先輩!おはようございます!これ、どうぞ!」
「コーヒーは自分で買う習慣があるんだけど」
「じゃあ、節約になりましたね!」
陽葵の笑顔は朝の光の中でキラキラと輝き、金色の髪が風に揺れ、まるで小さな旗のように翻る。朔はコーヒーを受け取る。温かく、ちょうど飲み頃の温度になっている。
彼女は温度すら計算しているのだ。
その事実に、朔の背筋は少しだけ冷たくなる——恐怖からではない。感動からだ。認めたくはないが、確かに存在する感動。
例えば、休み時間。
以前なら、陽葵は昼休みと放課後にしか現れない。だが今は、毎回の休み時間に朔の教室を「通りかかる」。ある時は飴玉を一つ朔の机に置き、脱兎のごとく走り去っていく。ある時は窓枠に身を乗り出し、ガラス越しに変顔をしてくる。またある時は何もしないで、ただ遠くから彼を一瞥し、満足げに立ち去っていく。
朔の隣の席の、眼鏡をかけた男子生徒が、とうとう我慢できずに尋ねてくる。「浅倉、お前あの金髪の後輩と一体どういう関係なんだ?」
「関係ないよ」と、朔は答える。
「関係ないのに毎日会いに来るのか?」
「……あいつは五十嵐陽希の妹だ」
「へえー、親友の妹か」隣の男子は意味深な笑みを浮かべる。「それって伝説の『シスコン変態』ってやつじゃないか?」
朔は口を閉ざす。何を言っても、他人の目から見た「事実」を変えられないと分かっているからだ。さらに恐ろしいのは、その「事実」が、自分自身が認めたいと思う以上に、真実に近いかもしれないということ。
そして、放課後。
以前なら、陽葵は特定の時にしか姿を見せない。だが今は、毎日朔の教室の前で彼を待っている。雨の日も風の日も。
「先輩!今日は一緒に帰りましょう!」
「方向が違う」
「今日は先輩の家の近くの本屋さんに行くんです!」
「昨日はコンビニに行くって言ってたじゃないか」
「今日は場所を変えたんです!人間、時には変化も必要ですよ!」
朔は、彼女を拒絶するのがますます難しくなっていることに気づく。
彼女の理由に説得力が増したからではない——実際のところ、その理由はどんどん支離滅裂になっている。ただ、彼が「ダメだ」と言いかけようとするたびに、陽葵が『あの表情』を見せるからだ。
その、「断られるのは分かっているけれど、それでも一縷の望みを抱いている」という表情。
その表情を見せられると、誰も拒み切れない。
少なくとも、朔には拒絶できない。
彼は放課後、陽葵と共に歩くその道のりに慣れ始めている。
学校から駅まで、およそ十五分。その十五分間、陽葵は今日学校で起きた出来事を語る——どの先生が授業で寒い冗談を言ったとか、どの同級生が体育の授業で転んだとか、お昼の唐揚げがどれだけ美味しかったか、など。彼女は顔をほころばせ、まるで一人芝居を演じるように語り続ける。
朔は大抵ただ耳を傾け、たまに「うん」と相槌を打つだけ。それでも陽葵は気にしない。彼女が必要としているのは返答ではなく、一人の聞き手なのだ。
あるいは、彼女が必要としているのは「先輩と一緒にいる」という、その事実自体なのかもしれない。
朔は危険なサインに気づき始める。自分がこの十五分間を期待し始めていることに。
「嫌いじゃない」ではなく——「期待している」。
この二つの言葉の間にあるギャップは、おそらく「無関心」と「好き」の間にある距離と同じだ。
その事実に、彼は強い不安を覚える。
なぜなら、「期待」は彼が意識していることを意味し、意識していることは彼が気にかけていることを意味し、気にかけているということは——
彼はもう、「分からない」とは言えなくなっているのだ。
少なくとも、自分自身に対しては。
家では、結月がますます静かになっていく。
この静寂は今日に始まったことではない——花見の後から続いてはいるが、最近になってより顕著になっている。彼女は自分から朔に話しかけなくなり、朝食時に「今日の予定は?」と尋ねることも、夜に彼の部屋のドアをノックして「夜食食べる?」と聞くこともなくなる。
彼女はただ、静かにそこに存在している。
まるで、一つの家具のように。
しかし、それは忘れ去られた家具ではない——意図的に見ないように、触れないようにされ、存在しないかのように扱われる家具だ。
毎朝、朔が階下に降りると、食卓にはすでに朝食が並べられている。和食の日——ご飯、味噌汁、焼き魚——もあれば、洋食の日——トースト、目玉焼き、サラダ——もある。食器は整然と並べられ、料理の温度もちょうどいい。
だが、結月の姿はない。
彼女の席には使用済みの食器だけが残され、彼女がかつてここで朝食をとったことを証明している。
「あいつ、いつ食べたの?」朔は継母に尋ねる。
「結月?あの子なら六時に起きて、七時には食べ終わっているわよ」継母は笑いながら答える。「最近は早起きが習慣になっているって言うの」
六時。
朔が起きるのは七時半だ。
それはつまり、結月が故意に彼と一緒に朝食をとる時間をずらしていることを意味する。
偶然ではなく、意図的に。
夕食も同じだ。朔が帰宅する頃には、結月はすでに食事を作り終え、ラップをかけて食卓に置いている。彼女自身の分はすでに食べ終え、食器も洗い、本人は自室に戻っている。
朔は冷めた食事(完全に冷え切ったわけではなく、ラップで包まれた「作ってからそれほど時間は経っていないが、もう温かくはない」温度)を前に、一人で食卓に座り、ガランとしたリビングに向かってゆっくりと口に運ぶ。
少し前まで、彼らがこのテーブルで対峙し、協定を結び、口論し、互いに探り合っていたことを思い出す。
あの頃、彼は「鬱陶しい」と感じている。
今になって気づく。「鬱陶しい」とは、少なくとも繋がりを意味しているのだと。
そして、静寂は——
静寂は、断絶を意味する。
「結月」
ある夜、朔は廊下で彼女を呼び止める。
結月は風呂から上がったばかりで、髪はまだ濡れており、肩に垂らしている。ライトグレーのルームウェアを身にまとい、手にはタオル、足には白いスリッパ。廊下の明かりが彼女の顔に淡い影を落とし、顔立ちを普段より立体的に、そしてより疲れているように見せている。
「何?」彼女は尋ねる。見知らぬ人と話すような、淡々とした口調で。
「最近、どうしたんだ?」
「どうしたって、何が?」
「静かすぎる」
結月は彼を見る。その灰色の瞳には何の感情もない——「意図的に隠している」無表情ではなく、真の、心からの虚無。
「うるさくしてほしいの?」
「違う。俺はただ——」
「ただ、私がおかしいと思うだけ?浅倉、私はごく正常よ。ただ、適応しようとしているだけ」
「何に適応するって?」
「あなたが私のそばにいないことに」
彼女は背を向け、数歩歩いてドアノブに手をかける。
「結月」朔は再び彼女を呼び止める。
彼女は立ち止まるが、振り返らない。
「俺のそばにいないわけじゃないだろ」
「毎日いるじゃないか。朝ごはんを作るのも、夕ごはんを作るのも、服を洗濯するのもお前だ。ずっといるだろ」
結月の手が、ドアノブの上で数秒間止まる。
「身体はいるわ」彼女はとても小さな声で言う。「でも、心はいない」
ドアが開き、そして閉じる。
朔は廊下に立ち尽くし、その閉ざされたドアを見つめている。廊下の明かりが彼の影を長く引き伸ばし、薄茶色の床に、まるで沈黙のクエスチョンマークのように投影している。
「あなたが私のそばにいないことに適応する」
「身体はいる、でも心はいない」
この二つの言葉が二本の針のように、朔の心に突き刺さる。激しい痛みはないが、ずっとそこにあって、呼吸をするたびにその針の存在を感じる。
半年前の別れ際、結月が「私もそう思う」と言ったときの表情を思い出す。当時は理解できなかったが、今は分かる——あれは安堵ではなく、諦念なのだ。
「彼はもう私を必要としていない」「彼が他の誰かの元へ行ってしまう」という事実を、諦めて受け入れること。
そして、自分ももう必要としていないふりをすること。
自分は気にしていないふりをすること。
しかし、彼女は朔に気にしている。
他の誰よりも。
ただ、それを表に出さないことを覚えただけなのだ。
表に出したところで、何の意味もないから。
その事実に、朔の胸が苦しくなる。あのドアを叩いて、彼女に何かを言いたい——しかし、何を言えばいい?
「好きだ」?
言えない。彼自身に確証がないから。
「君のところへ戻るよ」?
言えない。彼自身に確証がないから。
「待たないでくれ」?
言えない。その言葉はあまりにも残酷すぎるから。
だから彼はただそこに立ち、あのドアを見つめ続ける。廊下のセンサーライトが消え、彼一人を暗闇の中に置き去りにするまで。
数日後、美術室。
夏休みが近づき、美術室の絵がまた変化している。
あの草原の木が大きくなっている。枝葉が茂り、木の冠が巨大な傘のようにキャンバスの大半を覆い隠している。木の下にはベンチがあり、そこには二人の人影が座っている——顔ははっきりしないが、一組の男女であることは分かる。彼らの肩はほとんど触れ合っており、親密でありながらも馴れ馴れしすぎず、まるで昔からの知り合いのよう。
「これはどこ?」朔が尋ねる。
「分からない」
「頭の中に浮かんだの?」
「うん」
「君の頭の中に、二人の人が浮かんだってこと?」
「うん」
「誰なんだ、彼らは?」
詩織は筆を置き、振り返る。深茶色の瞳は二つの深い淵のように穏やかで、底は見えないが、その底知れぬ静けさは感じ取れる。
「あなたかもしれない、私かもしれない。他の誰かかもしれない」
「見えないの?」
「見えない」詩織は言い、少し間を置く。「でも、彼らが幸せであることを願っているわ」
朔はその絵を見つめる。どうしても、あのぼんやりとした二つの人影が馴染み深いものに思えてならない。顔立ちが見覚えがあるわけではない——感覚的な親しみだ。どこかで見たような気もするし、どこでも見たことがないような気もする。まるで忘れ去られた夢のようで、目が覚めたときに微かな余熱だけが残り、掴むことも、忘れることもできない。
「詩織。俺って、すごく自分勝手な人間だと思わないか?」
詩織は小首を傾げる——それが彼女の「理解できない」を示す仕草だ。
「どうしてそんな風に聞くの?」
「だって——俺は誰も傷つけたくないのに、俺が迷っていること自体が、すべての人を傷つけているからだ」
詩織はすぐには答えない。彼女は再び向き直り、筆を手に取ってキャンバスに一筆描き加える——おそらくは葉の葉脈。その木がより一層、本物のように見えてくる。
「浅倉君」背中越しに、彼女の声が届く。「一本の木がここまで大きくなるのに、何年かかるか知ってる?」
「……分からない」
「私も知らない。でも、一日で育つものではないことは知っているわ」
「無数の春と冬、無数の雨と雪を経験し、何度も風に曲げられてはまた真っ直ぐに伸びる。長い時間をかけて、ようやく今の姿になったのよ」
「あなたも同じ」
「長い時間をかけて、今の姿になったの——迷い、他人を傷つけることを恐れ、自分を自分勝手だと思う人間に。それは欠点じゃない。あなたが成長した証よ」
朔は彼女の背中を見つめる。
明るい栗色の髪が午後の光の中で柔らかな輝きを放ち、薄手の制服越しに肩甲骨の輪郭がうっすらと浮かんでいる。彼女の背筋は、あの木のようにピンと伸びている。
「詩織って、言うことがいつも——」
「いつも、何?」
「なんて返せばいいか分からないようなことばかりだ」
詩織の筆が止まる。それから、ほとんど聞こえないほどの微かな笑い声を漏らす。
「じゃあ、返さなくていいわ。ただ聞いていればいいの」
朔は椅子の背もたれに寄りかかり、目を閉じる。
美術室の空気は静まり返り、筆がキャンバスを擦る微かな音だけが、蚕が桑の葉を食むように響いている。北窓から差し込む陽光が空中に斜めの光の柱を描き出し、その光柱の中を塵がゆっくりと漂っている。まるで時間そのものの粒のように。
その音を聞き、その光を感じ、テレピン油と絵の具の匂いを嗅ぐ。
もし人生が永遠にこの瞬間に留まってくれるなら、どんなにいいだろう、と。
選択する必要も、傷つける必要も、傷つけられる必要もない。
ただ、静かに存在しているだけでいい。
しかし、人生はどんな瞬間にも立ち止まってはくれない。
永遠に前に進み続ける。
あなたの準備が整っていようと、いまいと。
夏休み前の最後の日、朔は学校の屋上で陽希に出くわす。
屋上には誰もいない。風が強く、二人の髪を無造作に揺らしている。遠くにはグラウンドで体育の授業を受けている生徒たちがおり、彼らの笑い声が風に飛ばされ、ぼんやりとした欠片へと変わっていく。
「ひどく疲れてるみたいだな」陽希はフェンスに寄りかかり、手には缶コーヒーを持っている。
「まあな」
「嘘つけ。目の下のクマがパンダより酷いぞ」
朔は反論しない。確かに彼はよく眠れていない。もう一週間連続で、毎晩ベッドに横たわり、天井を見つめながら、結月の言葉、陽葵の笑顔、詩織の絵について考えている。自分は一体どうすべきなのか。自分は一体誰が好きなのか。
午前二、三時になってようやく眠りに落ち、そして朝六時には目を覚ます。
「まだあのこと、考えてるのか?」陽希が問う。
「あのことって?」
「誰が好きなのか、ってこと」
「陽希、お前は、自分が誰かを好きだって、どうやって確信するんだ?」
「簡単なことさ。一緒にいたいと思う、話したいと思う、笑顔を見たいと思う。彼女がいるときは時間が経つのが早く感じて、いないときは時間が経つのが遅く感じる」
「そんなに簡単なことか?」
「そういう簡単なことなんだよ。恋愛は数学の問題じゃない、そんなに複雑に考える必要なんてない」
朔は遠くのグラウンドを見下ろす。一人の男子がシュートを決め、チームメイトたちが集まってきて彼の頭を叩き、嬉しそうに笑っている。
「もし俺が——」朔はゆっくりと話し始める。「ある人と一緒にいるときに心地よくて、でも、別の人と一緒にいるときも心地いいとしたら。二つの心地よさは違うけれど、どちらも心地いい。だったら、どう選べばいいんだ?」
陽希は彼を見る。青い瞳には複雑な感情が浮かんでいる——同情しているようでもあり、面白がっているようでもある。
「朔、お前、一つのことについて考えたことはあるか?」
「何を?」
「お前は『誰を選ぶべきか分からない』んじゃない——『誰も傷つけたくない』んだよ」陽希は言う。「だが、お前がそうであればあるほど、傷つける人間は増えていく」
朔は答えない。
陽希の言うことが正しいと分かっているからだ。
「昨日、妹が泣いてた」陽希が唐突に言う。
「あいつは俺に気づかれてないと思ってるだろうけど。でも、見たんだ。自分の部屋で一人、スマホを見つめて泣いているのを。どうしたのか聞いたら、『なんでもない、目にゴミが入っただけ』って言うんだ。だが、スマホの画面には、お前とのLINEのトーク画面が映っていた」
朔の心臓が大きく跳ねる。
「どうして、泣いてたんだ?」
「俺が知るわけないだろ?」陽希は肩をすくめる。
「自分で聞いてみろよ」
彼は最後の一口を飲み干し、空き缶を握り潰して傍らのゴミ箱に放り投げる。
「朔、無理強いはしない。お前は親友だし、妹は妹だ。二人とも俺にとって大事な存在だからな」
「だが、早く決断してほしいとは思っている。長引けば長引くほど、傷口は深くなる。妹の傷口じゃない——お前のな」
陽希は立ち去っていく。
朔は一人屋上に取り残される。風が頬を撫で、陽光が肌をジリジリと照りつける。
「お前の傷口」
自分に何の傷があるというのか?
傷ついてなどいない。失恋したわけでも、捨てられたわけでも、傷つけられたわけでもない。
ただ、三人の人間に好意を寄せられているだけだ。
これのどこに傷つく要素があるというのか?
だが、陽希の言う通りだ。
彼には傷がある。
その傷は他人に与えられたものではない——自分自身で切り裂いたものだ。
「分からない」というナイフを使って、一刀、また一刀と自分の心に切り刻んでいく。誰を選ぶべきか分からないたびに、「分からない」を使って逃避する。しかし、逃げたところで問題は消えず、ただ大きくなるだけだ。そして大きくなった問題が心に重くのしかかり、ますます重く、痛みを増していく。
その痛みこそが傷口なのだ。
これ以上、逃げ続けることはできない。
しかし、どう向き合えばいいのかも分からない。
だから彼はただそこに立っている。一本の木のように、風に吹かれながら、どちらの方向へ倒れればいいのか分からないまま。
午後、朔は美術室へ足を運ぶ。
これが夏休み前、最後に訪れる美術室だ——明日から学校は休みに入り、美術室には鍵がかけられるからだ。詩織は鍵を持っているが、彼女が夏休み中も来るかどうかは分からない。
詩織は絵を描いている。
今日の彼女は白いTシャツに濃紺のショートパンツ姿で、髪は低い位置でポニーテールにまとめられ、色白のうなじを覗かせている。北窓から差し込む光が、彼女の鎖骨に小さな三角形の光を落としている。
キャンバスの上で、あの絵はほぼ完成している。
木、ベンチ、二つの人影。
だが今日、その二つの人影には顔がある。
鮮明な顔ではない——水でぼかしたような、曖昧な輪郭だ。それでも朔には見て取れる。それが一組の男女であることを。男は短髪で、女は長い髪をしている。二人の顔はとても近く、何かひそひそ話をしているかのようだ。
「もうすぐ完成?」
「ええ」詩織は筆を置く。「あと少し」
「何が足りないんだ?」
詩織は少し考える。
「名前が一つ足りないの」
「なんの名前?」
「この絵のタイトル」詩織は言う。「名前をつけようと思うんだけど、思いつかなくて」
朔はキャンバスの前に歩み寄り、その絵を見つめる。
陽光、木、ベンチ、二つの人影。
静かで、暖かく、曖昧。
まるで、記憶に刻まれた一つの夢のようだ。
「『待つ』ってのはどう?」
朔は提案する。
詩織は小首を傾げる。
「どうして『待つ』なの?」
「彼ら、何かを待っているように見えるから。それか——誰かを」
詩織はしばらく黙り込む。
「いいわね。『待つ』にしましょう」
彼女はキャンバスの右下隅に、細い筆致で二つの文字を書き記す——
待つ。
とても小さく、とても薄い字で。まるで誰にも見られたくないかのように。
だが、朔には見えている。
彼はその二文字を見つめ、ふと思う——
もしかしたら、詩織はずっと待っていたのではないか。
誰かが彼女の絵を見てくれるのを。
誰かが彼女の絵を理解してくれるのを。
誰かが——彼女自身を見てくれるのを。
「詩織、夏祭りには来る予定がある?」
「行く」
「何しに?」
「絵を描きに」
「何を描くんだ?」
詩織は窓の外を見る。
窓の外の空はひどく青く、雲は白く、陽光は眩しい。遠くのグラウンドでは誰かが走っており、その影は長く伸びて、まるで何かを追いかけているかのようだ。
「花火を描くの」
朔は彼女の横顔を見つめる。陽光が彼女の毛先で踊り、その輪郭をまるで一枚の絵のように見せている——まだ完成していない、一枚の絵のように。
「君には、好きな人はいるのか?」
筆がキャンバスの上で止まる。
静寂。
蝉の鳴き声が窓の外から響いてくる。一つ、また一つと、まるで夏のカウントダウンのように。
「いるわ」
朔の鼓動が一つ、飛び跳ねる。
「誰?」
詩織は答えない。
彼女は筆を取り、キャンバスに最後の一筆を書き加える——ベンチの傍らに落ちる、一枚の小さな葉を。
そして筆を置き、立ち上がり、画材を片付け始める。筆を筆立てに差し込み、絵の具箱の蓋を閉め、濡れた布で手についた絵の具を拭き取る。その動作は急ぐでもなく、まるで何かの儀式を行っているかのよう。
「浅倉君、夏祭りの日、分かるはずよ」
彼女は画板を手に取り、ドアへと向かう。
ドアの前に着いたとき、彼女は立ち止まり、首を少し巡らせる。
夕陽が窓から差し込み、彼女の横顔に落ちて、その輪郭に金赤色の光のコーティングを施している。
「来てくれるわよね?」
「行くよ」
「それなら、よかった」
彼女は去っていく。
美術室には朔一人が残される。
彼は椅子に座り、あの絵——『待つ』を見つめている。
陽光、木、ベンチ、二つの人影。
そして、あの小さな一枚の葉。
その葉はベンチの傍らに落ちているのではない、と。
彼の心の上に落ちているのだ。
その夜、朔はベッドに横たわるが、寝返りを打つばかりで眠りにつけない。
彼はスマホを手に取り、LINEを開く。
未読メッセージがたくさんある。
陽葵からは何十件も届いている——「先輩今日もお疲れ様です」から「先輩おやすみなさい」、「先輩また明日」、「先輩会いたいです」まで、間には様々な顔文字やスタンプが散りばめられている。機関銃のような頻度で送られてくるメッセージは、朔が返信しようがしまいが、彼女一人が楽しげに話し続けていることを示している。
结月からのメッセージはない。彼女のトーク画面は淀んだ水たまりのように静まり返っている。最後のメッセージは三日前の「おやすみ」で止まっている。
詩織からは一件。
「絵の額装が終わったわ。夏祭りに持っていくわね」
朔はこの三つのメッセージを、長い間見つめ続ける。
自分はたぶん、本当にダメになってしまったのだと。
今日に始まったことではない。
もうずっと前から始まっていたのだ。
初めて陽葵を突き放さなかったときから。
初めて結月の涙に気づいたときから。
初めて美術室で静寂の力を感じ取ったときから。
彼の理知的な生活は、とうの昔に崩壊しているのだ。
ただ、彼がずっとそれを認めようとしなかっただけで。
そして今——
今、彼は認めざるを得なくなっている。
夏祭りがやってくるからだ。
そして夏祭りの後、すべては今までとは違うものになる。
窓の外では、蝉が鳴いている。
一つ、また一つと。
カウントダウンのように。




