第12話 すれ違いのダイアローグ
論理的に自分の感情を分析できないのなら、誰か他の人間に分析してもらえばいい。
だが、結月はダメ(危険すぎる)、陽葵もダメ(気まずすぎる)、詩織もダメだ(彼女ならおそらく「感じたままにすればいい」なんて言うだろう)。
選択肢は、あと一人しか残っていない。
五十嵐陽希。
陽希は「協力する」と言ってくれたが、朔はいまいち信用しきれずにいた。自分の妹を親友に押し付けようとするような奴の思考回路は、おそらくまともではない。
それでも、他に道はなかった。
土曜日の午後、朔は駅前のファミレスで陽希と待ち合わせた。
陽希は先に着いていて、窓際の席に座り、半分ほど減ったコーラを前にしていた。
「来たか」陽希が顔を上げた。
「えらく酷い顔してるな」
「寝不足だ」
「妹のこと考えてたからか?」
「違う」
朔は席に着き、ブラックコーヒーを注文した。
「お前の妹の『件』について考えてたんだ」
「それ、結局同じことだろ?」
「……お前の勝ちでいいよ」
届いたコーヒーを一口飲み、朔は深く息を吸ってから、言葉を整理し始めた。
「陽希、一つ聞きたいことがある」
「聞けよ」
「自分が誰かを好きかどうかって、どうやって判断するんだ?」
陽希は目をぱちくりさせた。
「……お前、本気で言ってるのか?」
「本気だ」
陽希はコーラのグラスを置き、背もたれに寄りかかって両手を頭の後ろで組んだ。思考するような表情を浮かべる。
「うーん……難しい質問だな。そういう『好き』っていうのは、人によって違うからな」
「お前はどうなんだ? 前に彼女がいただろう」
「あれは別だ」陽希は言った。「俺が誰かを好きになるっていうのは、一緒にいたいとか、手を繋ぎたいとか、キスしたいとか。そんな単純なもんだ」
「俺にはそんな単純なことはできない。「『一緒にいたい』と『一緒にいても嫌じゃない』の区別がつかないんだ」
「じゃあ、あいつと手を繋ぎたいと思うか?」
朔は陽葵の手を思い浮かべた――小さくて、温かくて、観覧車の中でそっと指を握ってきた、あの手を。
「拒絶はしない」
「拒絶しないってことは、したいってことだろ」
「論理的に破綻している」
「恋愛に論理なんてねえよ」陽希は言った。「朔、お前は『定義』にこだわりすぎなんじゃないか? 『好き』という感情に正確な定義を与えて、自分の感情をそこに当てはめて合致するかどうか確認しようとしてる。でも、感情ってのはそんなふうに動くもんじゃない」
「じゃあ、どう動くんだ?」
「感情ってのは――一緒にいて心地いいかどうか。いなくなった時に会いたいと思うかどうか。あいつが笑った時に、自分も笑いたくなるかどうか。あいつが泣いた時に、胸が痛むかどうかだ」
沈黙。
陽葵の笑顔を思い出した――あの、曇り空さえも照らし出すような、天真爛漫で一点の曇りもない笑顔。
あの笑顔を見るたびに、自分は確かに――
確かに、笑みがこぼれそうになっていた。
「ほら」朔の表情を見て、陽希がニヤリと笑った。「もう答えは出てるじゃないか」
「答えなんて出ていない。俺はただ――」
「ただ、認めるのが怖いだけだろ」陽希が言葉を継ぐ。「認めてしまったら、その先のことに向き合わなきゃならないからな。神城にどう申し開きをするかとか、自分自身にどう落とし前をつけるかとか、もし失敗したらどうなるかとか」
朔は口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。
自分の感情が分からないわけではない——向き合うのが、怖いのだ。
「朔、アドバイスをやるよ」
「……どんな?」
「考えすぎるな。行動しろ」
「何をすればいい」
「妹とデートしてこい」
「……何を言ってるんだ?」
「デートだ、花見、海、夏祭り。まさに王道恋愛三点セット。これをやり遂げれば、お前が本当あいつを好きかどうかわかるはず」
「お前、妹を機関車に放り込む気か」
「お前は機関車か?」
「……そうかもしれない」
陽希は笑った。
「違うさ、お前はただ理性的すぎるだけだ。少しばかり非理性的な刺激が必要なんだよ」
彼はカバンから一冊のノートを取り出し、開いた。そこには文字がびっしりと書き込まれていた。
「……それは何だ?」
「計画書、『陽葵好感度アップ計画』――名前は適当だから気にするな」
その文字を眺め、朔の瞼がぴくりと跳ねた。
「いつ書いたんだ?」
「お前がここに来る前だ。来るだろうなと思ってたからな」
「……お前、最初からこの日を待ってたのか?」
陽希は否定せず、ただ愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「朔、正直に言うよ。陽葵のやつは昔から理想が高くてな。幼稚園の時はクラスの男子を誰も相手にしなかったし、小学校の時は『男子はガキすぎる』なんて言ってた。中学校では告白してきた奴を全員振った」
「そんなあいつが、初めて『好き』って言った男が、お前なんだ」
朔の指に、わずかに力が入った。
「だから」陽希はノートを朔の前に押し出した。「俺は妹をお前に押し付けてるんじゃない。預けてるんだ」
「あくまで、お前があいつを本当に好きなら、の話だがな」
朔はノートに記された詳細なプランに目を落とした。花見の場所、海での行程、夏祭りのルート――細部に至るまで、まるで軍事作戦のように作り込まれている。
「……お前、恐ろしい奴だな」
「褒め言葉として受け取っておくよ。だが、本当に恐ろしいのは俺じゃない。……あっちだ」
陽希の視線が朔の肩越しに、ファミレスの入り口へと向けられた。
そこには、結月が立っていた。
白いのワンピースを身に纏い、髪を下ろした彼女は、表情は穏やかだったが、その灰色の瞳には、朔が見慣れたあの独特な光が宿っていた。
「奇遇ね」
結月は歩み寄ってくると、二人の隣の席に腰を下ろした。
「……つけてきたのか?」
「まさか。買い物に来たら、あなたたちが入っていくのが見えただけよ」結月は買い物袋をテーブルに置いた。
「何の話をしていたの?」
一瞬、空気が静まり返った。
陽希は結月と朔を交互に見やり、口角を上げた。
「デートの話だよ」
「デート?誰と?」
「俺の妹とさ。朔が、陽葵とデートすることになったんだ」
朔はテーブルの下で陽希を蹴飛ばしてやりたかったが、避けられた。
結月は朔をじっと見つめた。その灰色の瞳に怒りや悲しみはなく、ただ朔には読み取れない、複雑で何らかの意図を含んだような輝きだけ。
「そう」
「それはいいことね」
朔は呆気に取られた。
「……何だって?」
「いいことだって言ったのよ」結月は立ち上がり、買い物袋を手に取った。「若いんだから、青春を謳歌すべきだわ。行ってらっしゃい、お兄ちゃん」
彼女は微笑んだ。
あまりにも優しく、完璧なその微笑みに、朔の背筋に冷たいものが走った。
完璧すぎて、まるでお面のようだったからだ。
「じゃあ、私は先に行くわね」結月は踵を返し、数歩歩いてから足を止め、振り返って朔を見た。
「ああ、そうだ。浅倉くん。海に行くなら日焼け止めを忘れないで。あなた、肌が白いから火傷しやすいもの」
ファミレスのドアが、彼女の背後で閉まる。
朔と陽希は顔を見合わせた。
「お前の義妹……ちょっと怖いな」
「知ってる」
「さっきの笑顔、見たか?」
「見た」
「あれ、本心じゃないよな?」
「……ああ」
「じゃあ、なんであいつは許したんだ?」
朔は考えを巡らせた。
そして、一つの可能性に思い至った――総毛立つような可能性に。
彼女は試している。
自分が本当に陽葵と一緒になるのかどうかを。
自分への「忠誠」を。
もし彼女が手を離したとして、それでも自分が彼女のもとへ戻ってくるのかどうかを。
「……クソっ」
朔は低く毒づいた。
「今、お前『クソ』って言ったか?」
「ああ」
「お前がそんな汚い言葉を使うなんて珍しいな」
「それだけ今の状況が、汚い言葉の一つも吐きたくなる状況だってことだ」
陽希はしばらく沈黙した後、笑い出した。
「朔、俺は確信したよ。お前と妹を引き合わせたのは、俺の人生で最高の決断だったってな」
「……何がだ」
「お前たちの物語は、どんなライトノベルよりも刺激的だよ」
朔は彼を睨みつけ、テーブルの上のノートを手に取って開いた。
「花見、海、夏祭り。……これだけか?」
「これだけ。これをやり遂げれば、答えは見つかる」
朔はノートを閉じ、深く息を吐く。
「わかった……やってやるよ」
ファミレスを出る頃には、日はすっかり落ちていた。
朔は駅の前に立ち、行き交う群衆を眺めながら、先ほどの会話を反芻していた。
陽希の計画。
結月の微笑。
そして、自分自身。
「やってやる」と言った時、鼓動が速くなった。
恐怖からではない。
それは――。
自分は本当は、陽葵とデートしたいと思っているのだと、気づいてしまったからだ。
その気づきが、彼を怯えさせた。
「認めたくない」からではない。
もし、自分が本当に陽葵を好きになってしまったら、その時、結月はどうなるのか。
あの激しい雨の夜、自分を抱きしめて「行かないで」と言った少女。
契約書の内容を塗りつぶし、三つの境界線だけを残した少女。
自分に「おやすみなさい、朔」と告げる少女。
彼女を、そのまま放っておくことなんてできない。
「浅倉くん」
朔が顔を上げると。
駅の柱の側に、まだ買い物袋を手にした結月が立っていた。彼女は帰宅せず、ずっとここで待っていたのだ。
「どうしてまだここにいるんだ?」
「待ってたの」結月が言った。「話したいことがあって」
彼女は朔の前に歩み寄り、二人の距離は一メートルもなかった。
街灯が灯り、彼女の髪に暖色の光を投げかける。
「あの計画」結月が切り出した。「五十嵐くんが言っていたやつ――やるつもり?」
「やるよ」
「五十嵐陽葵さんと、一緒に?」
「ああ」
結月はしばらく沈黙した。
「……いいわ、止めはしない」
「どうしてだ?」
「だって」結月が顔を上げると、灰色の瞳に街灯が映り込んだ。「行かなければ、あなたは永遠に答えを知ることができない。そして私は――あなたに『もしも』を抱えたまま生きてほしくないの」
朔は彼女の目を見つめた。
そこには虚飾も計算もなく、ただ、ある種残酷なまでの誠実さがあった。
「結月――」
「けれど」結月は彼の言葉を遮った。「一つだけ、条件があるわ」
「条件?」
「もし――もし行ってみて、彼女への気持ちがそういうものじゃないと分かったら。……私のところに戻ってきて」
「戻るって、どこへ」
「私の隣よ」
夜風が吹き抜け、遠くから桜の香りを運んできた。
「わかった」
だが、言葉が出てこなかった。
「わかった」は約束を意味し、約束は責任を意味する。
自分の感情すら不確かな自分が、どうして誰かに約束などできるだろうか。
「……それはできない」
結月の瞳から、光が失われた。
「どうして?」
「約束はできないからだ」朔は言った。「そこで何を見つけるか、自分でもわからない。陽葵を好きになるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、できない約束をするのは、欺瞞だ」
「嘘をつくのが怖いの?」
「怖い。だから、お前には嘘をつかない」
結月は長い間、彼を見つめていた。
やがて彼女は笑った。それは先ほどの冷たい微笑ではなく、苦く、やるせなく、どこか吹っ切れたような笑みだった。
「相変わらずね、どこまでも誠実で」
「誠実であることは、最もコストの低い戦略だ」
「こんな時にまで『戦略』なんて言葉を使うのね」
「癖なんだ」
結月は俯き、手元の買い物袋を見つめた。
「……袋の中身は何だ?」
結月は躊躇った後、袋を彼に差し出した。
朔が中を覗くと。
そこには、一着の浴衣が入っていた。
深い紺色に、夏の夜空のような白い花模様があしらわれた、美しい浴衣。
「本当は……夏祭りに、あなたと一緒に着ようと思って買ったの」結月の声は、消え入りそうに細かった。「でも、もう出番はないかもしれないわね」
朔は浴衣を手に取り、その柔らかい生地を指先でなぞった。
「結月」
「……何?」
「夏祭り、お前も来い」
結月が顔を上げた。
「……何?」
「見に来い、俺が答えを見つけるところを」
買い物袋を結月に返した。
「この浴衣、綺麗だ。……お前が着るべきさ」
そして朔は背を向け、改札口へと向かった。
結月はその場に立ち尽くし、浴衣を抱きしめたまま、朔の背中が人混みに消えていくのを見送った。
夜風に煽られ、彼女の目尻がついに赤く染まったが。
それでも、泣かなかった。
ただ、大切な何かを抱えるように、その浴衣を強く、強く抱きしめていた。
「……ええ」
彼女は小さく呟いた。
「行くわ」




