第11話 ストレートな後輩とお兄ちゃん
四月、桜の季節。
あの豪雨の夜から三週間が過ぎ、朔が発熱から回復してからも半月が経っていた。生活はまるで再校正された川のように、一見すれば平穏な流れを取り戻したかのように見えた。だが、水面下の暗流が消え去ったわけではない。
最大の変化は、家の中で起きていた。
結月は、以前ほど刺々しくなくなった。
彼女は相変わらず朝食の席で朔の向かい側に座り、その灰色の瞳で彼の挙動を観察していたが、そこに込められた審判のような意味合いは随分と薄れていた。代わりに宿っていたのは、朔にも説明のつかない何か――
観察しているようでもあり、何かを待っているようでもある、そんな眼差しだった。
「今日は部活?」
結月が訊ねる。天気を問うような、淡々とした口調だった。
「行かない」
「美術室に行く」
「月乃森さんと?」
「ああ」
結月はそれ以上追及せず、ただ頷いて朝食を食べ進めた。
そんな反応に、朔は調子が狂う。以前の彼女なら、「美術室で何をするの」「彼女に何か変なことをされていない?」「どうして毎日行くの」と畳みかけてきたはずだ。だが今の彼女は、太陽が東から昇るのを当たり前として受け入れるように、ただその事実を受け入れていた。
「……何か訊かないのか?」
朔は思わず口にしていた。
結月は顔を上げ、口角をわずかに綻ばせる。
「訊いてほしいの?」
「……いや」
「なら、訊かないわ」
彼女はコーヒーカップを手に取り、優雅に一口啜る。窓から差し込む陽光が、彼女の横顔に柔らかな輪郭を添えている。
その横顔を眺めながら、朔は妙な感覚に陥っていた。
言い表しがたい感覚――ずっと吹き荒れていた風が、ある日突然止んでしまった。そのことに、かえって居心地の悪さを覚えているような。
だが、朔には深く考え込んでいる時間はなかった。なぜなら、彼には今、もっと重要な……。
いや、「重要」ではない。
もっと「厄介」な問題が控えていたからだ。
学校。
昼休み。
朔が鞄をまとめ、美術室へ向かおうとした時だった。
「先輩――っ!」
廊下から陽葵の声が響く。目覚まし時計よりも正確なタイミングだった。
朔が立ち上がる間もなく、教室の入り口に陽葵が姿を現した。ピンク色の弁当箱を手に、金色の髪を陽光に輝かせている。
「先輩! 今日もお弁当作ってきましたよ!」
「言っただろ、もういいって」
「でも、前回は『上達した』って言ってくれたじゃないですか!」
「俺が言ったのは『前よりはマシ』だ。『美味い』とは言ってない」
「それって進歩じゃないですか!」
陽葵は弾むような足取りで教室に入ると、朔の隣の席に陣取って弁当箱を広げた。
中身は、それなりに「食べ物」らしく見える代物だった――エビフライ、玉子焼き、ミニトマト。そして、海苔で象られたウサギ型の詰め物。
「今日の玉子焼きは、十回も練習したんですから!」陽葵が誇らしげに胸を張る。
「十回ですよ! 卵を何個使ったと思います?」
「二十個か?」
「ぶっぶ——はずれ!答えは十五個です! 一回に二個使うので!」
「……残りの五個はどうしたんだよ」
「私が食べました! 美味しくないのは全部自分で食べて、先輩には絶対に美味しいのしか食べさせませんから!」
一度に二個使う計算でどうやって「十五個」という端数が出るのか、二人とも気付いていないようだった。
陽葵は箸で玉子焼きを一つ摘み、朔の口元へと差し出す。
「はい、あーん――」
教室内の他の生徒たちが、こちらを伺い始めていた。スマホを取り出す者、ひそひそと囁き合う者、「またか」という表情を浮かべる者。
朔は溜息を吐いた。
玉子焼きが口に入った瞬間、朔の眉がわずかに動く。
「どうですか?」
陽葵の瞳が星のようにキラキラと輝く。
「食える」
「それだけ?」
「前よりはいい」
陽葵の笑顔が、春の花が開くように溢れ出した。
「やったぁ! 先輩が美味しいって言ってくれた!」
「『食える』と言ったんだ」
「それは美味しいっていう意味ですよ!」
陽葵は弁当箱を朔の前に押しやると、鞄からもう一つの弁当箱を取り出した――中身は全く同じおかずだ。
「二つ作ってきたんです! 先輩の分と、私の分!」
彼女は自分の分を大きな口で頬張り始めた。頬を膨らませる様は、まるでリスのようだ。
その食べっぷりを眺めながら、朔の口角が無意識に緩む。
彼は箸を取り、玉子焼きを一つ口に運んだ。
味は、確かに悪くない。
結月の作る料理ほど完璧ではないが、そこには結月の料理にはない何かが宿っていた。
――おそらく、「努力」の味なのだろう。
朔はそう考え、すぐに自分を戒めた。そんな感傷的な考えは気味が悪い、早く忘れろ、と。
だが、忘れられなかった。
昼休みが終わり、廊下を歩きながら、朔の脳裏にはまだあの玉子焼きの味が残っていた。
味そのものではない。それを食べていた時の感覚。
陽葵の期待に満ちた眼差し、わずかに前傾した体、箸を差し出した時に指先が唇に触れた瞬間の温度――。
止まれ。
朔は足を止め、壁に寄りかかって深く息を吐いた。
自分は今、一学年下で、親友の妹で、毎日あらゆる手段で自分を振り回してくる金髪の少女に対して――。
ときめいている。
いや、ときめきではない。
これは「生理的な心拍数の上昇」だ。
「食物に対するポジティブなフィードバック」だ。
「相手が騒がしすぎるがゆえの、ストレス性応激反応」だ。
彼はあらゆるロジックを動員して今の鼓動の乱れを説明しようとしたが、どの説明もサイズの合わない服のように、無理やり着せてもどこかちぐはぐだった。
「浅倉? 廊下の真ん中で何してんだ?」
横から声が掛かる。
朔が顔を向けると、そこには五十嵐陽希がいた。朔の親友であり、陽葵の兄だ。窓際に寄りかかり、手には缶コーヒー。その顔には、何かを見透かしたような笑みが浮かんでいる。
陽希の顔立ちは陽葵とよく似ていた。同じ金髪(短髪だが)、同じ青い瞳(陽希の方が深みがある)、同じ高い鼻筋。だが、纏う雰囲気は妹とは正反対だった。陽葵が「夏の太陽」なら、陽希は「秋の風」――穏やかで、余裕があり、どこか捉えどころのない。
「別に。考え事だ」
「考え事ねぇ」
「もしかして、うちの妹のことか?」
朔は沈黙した。
陽希は彼の表情を見て、徐々に瞳を輝かせる。
「マジかよ? 本当に陽葵のこと考えてたのか?」
「『彼女のこと』を考えていたわけじゃない。彼女にまつわる事象を考察していただけだ」
「それを世間じゃ『想ってる』って言うんだよ」
「違う。前者は感情駆動だが、後者は――」
「はいはい、お前のその理屈はもういいって」陽希が朔の肩を叩いた。
「行くぞ、屋上へ。話がある」
屋上には、春の風に乗って遠くから桜の花びらが舞い込んでいた。
陽希は手すりに寄りかかり、朔はその隣に立つ。二人はしばらくの間、校庭で走り、ボールを蹴り、談笑する生徒たちを眺めていた。
「朔、お前、あいつのことどう思ってるんだ?」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味だよ。陽葵のことが好きなのか?」
「好きじゃない」と言おうとして――その言葉を飲み込んだ。
「わからない」
陽希は笑った。
「お前が『わからない』なんて言うとはな。何でも知ってるつもりかと思ってたよ」
「全てを知っているなんて言った覚えはない」
「口には出さなくても、お前の雰囲気はそう語ってるよ――『俺はすべてを論理で説明できる』ってな」陽希が朔に向き直る。「けど今は、説明できない。だろ?」
朔は答えなかった。
「それでいいんだよ、感情なんてのは、説明するためのもんじゃない。感じるためのもんだからな」
「お前、喋り方が妹に似てきたな」
「兄妹だからな」
陽希は少しだけ真面目な表情を作った。
「朔、本音を言うぞ。陽葵が好きになったのがお前じゃなかったら、俺は反対してたかもしれない」
「なぜだ?」
「あいつ、うざいからな」
「一度決めるとしつこいし、空気は読まない、距離感はバグってる。普通の男なら耐えられないさ」
「俺なら耐えられると?」
「お前は耐えてるだろ。口ではうるさいと言いながら、お前は一度もあいつを本気で突き放しちゃいない。マフラーを貸してやり、観覧車に付き合い、あいつの作った不味い粥を食べた。そんなこと、『耐えられない』奴は絶対にしない」
朔は沈黙を守る。
「だからさ、もしお前があいつを好きなら、俺は反対しない。それどころか――協力してやってもいいぜ」
「協力?」
「自分の気持ちを確かめる手伝いだよ。お前があいつを本当に好きなのかどうか、はっきりさせるためのな」
「どうやって?」
「それはお楽しみだ。俺に任せとけ」
「待て、お前まさか――」
「安心しろよ、悪いようにはしないさ」陽希は朔の肩をポンと叩いた。
「俺はあいつの兄貴だ。お前以上に、あいつの幸せを願ってるんだからな」
彼は屋上の扉へと歩き出し、数歩進んでから足を止めた。
「ああ、そうだ、朔」
「なんだ?」
「お前の家の義理の妹――神城結月。お前ら、昔付き合ってたんだろ?」
朔の体が微かに強張った。
「陽葵から聞いたのか?」
「ああ。お前から聞いたって言ってたぞ」
「お前たちの間に何があったかは訊かない。それはお前たちの過去だ。だが、一つだけ助言させてくれ」
「助言?」
「もし本当にお前が誰かを選ぶなら、中途半端にはするな。引きずるなよ。長引けば長引くほど、傷つく人間が増えるだけだ」
扉が閉まった。
朔は屋上に一人残り、春風に髪を乱されていた。
『引きずるな』
陽希の言葉は正しい。
だが、どう選べばいいのかがわからない。
なぜなら彼は、自分自身の「好き」という感情さえ、まだ確信できていないのだから。
美術室。
詩織の絵に、新たな変化が現れていた。
あの桜の樹は描き終えられていた――いや、描き終えられたのではなく、塗り潰されていた。キャンバスの上に現れたのは、新しい絵。一面の海だった。
深く、青く、荒れ狂う海。
立ち込める暗雲。
遠くで一閃の雷光が走り、海面に浮かぶ一艘の小舟を照らし出している。
その舟はとても小さく、今にも荒波に飲み込まれてしまいそうだった。
「ここはどこだ?」
「わからない、頭の中に浮かんだの」
「君の頭の中に、嵐が?」
「ええ」
「どうして」
「たぶん」彼女は振り向き、その深いブラウンの瞳で朔を見つめた。
「嵐が、来るから」
朔はその絵を見つめながら、その小舟に奇妙な既視感を覚えていた。
ずっと後になって、ようやく思い至ることになる。
あの舟は――自分に似ていたのだと。




