第10話 終わらない契約
朔の熱が下がったのは木曜日だった。
体温は36.5度まで下がり、頭痛も喉の痛みも消えていた。全身が水の中から引き揚げられてそのまま乾かされたような、ふわふわとした感覚。
机に向かい、ノートを広げていた。この一週間に起きた出来事を復習しようと試みたのだ。
それは習慣だった――文字によって混乱した思考を整理し、制御不能な感情を、制御可能な枠組みの中に落とし込むこと。
だが、今週の出来事だけは、どうしても書けなかった。
忘れてしまったわけではない。
一行書くたびに新しい変数が飛び出してきて、彼の論理をかき乱すからだ。
「月曜日:結月が泣いた。彼女は、僕を好きでいることを一度もやめたことはないと言った」
そして考えた。それは何を意味するのか? 彼女はまだ僕を好きだ。なら僕は? 僕はまだ彼女が好きなのか? もしそうなら、復習すべきなのか? もし違うなら、なぜ彼女を泣かせたくないと思ったのか?
変数が多すぎる。
その行を横線で消し、書き直した。
「火曜日:豪雨。結月は雷を怖がる。僕は一晩中彼女に付き添った」
そして考えた。付き添ったのは正しい選択だったのか? 人間性の観点からは、そうだ。けれど協議の観点からは違う。協議には「故意に接近してはならない」とある。付き添ったのは、故意の接近に当たるのではないか?
もし当たるなら、協議はすでに彼によって破棄されている。
もし当たらないなら、何をもって「故意」とするのか?
やはり、変数が多すぎる。
また横線で消した。
「水曜日:僕が発熱した。陽葵が来て、詩織が来た。二人はちょうど結月と鉢合わせになった。結果として、三人が僕のベッドサイドにひしめき合うことになった」
これについては、考えることすら恐ろしかった。
あの日起きたことは、いかなる理論モデルをもってしても説明がつかないからだ。
三人の少女がベッドサイドに座り、彼を看病し、口喧嘩をし、互いに牽制し合う――ライトノベルの設定なら標準的なハーレム展開だが、現実に起きれば、そこにあるのは巨大で言いようのない「荒謬(不条理)」だけだ。
自分はハーレム主人公ではない。
自分はただ、論理によって生きようとする一人の凡人に過ぎない。
なのに、なぜ自分の生活は、ますますラブコメのようになっていくのか?
朔はペンを置き、こめかみを押さえた。
ノートの上は空っぽで、ただ三行の消された文字だけが、行き止まりの路地のように残っていた。
ドアが開く音がした。
ノックはない。
そんな風に部屋に入ってくる人間は、一人しかいない。
結月が入り口に立っていた。パジャマ姿で髪を下ろし、手には一枚の紙を持っている。
その紙を、朔は知っていた。
彼らの『義兄妹共同生活協議』だ。
「まだ起きてたの?」
「眠れなくて」
椅子ではなく、ベッドに座った――雷が鳴っていない時に、彼女が自らこれほど近くに座るのは初めてのことだった。
「返しに来たの」
彼女はその紙を、朔の机の上に置いた。
朔はそれに目をやった。
協議の条項は大部分が塗りつぶされ、わずか数行だけが残されていた。
第一条:双方は学校において普通のクラスメイトとしての距離を保つ。
第三条:双方は相手の異性交遊に対して「合理的な関心」を示す権利を有する。
第五条:本協議は署名の日より発効し、有効期限は――なし。
その他の条項――共有スペースでの行動制限や、故意の接近を禁ずる規定、交渉決裂時の条項――はすべて一本の横線で消されていた。
「君が消したのか?」
「うん」
「どうして?」
結月はうつむき、自分の指先を見つめた。
「だって、これらの条項は、もう全部私たちが破っちゃったから——破られたものに、残しておく意味なんてないでしょ」
しばし沈黙した。
「なら、どうして第一条と第三条は残したんだ?」
結月の指が、シーツの上に目に見えない図形を描く。
「それは……私にまだ、境界線が必要だから。もし私たちの間に完全に境界がなくなったら、私、自分を抑えられなくなる」
「何を抑えられないんだ?」
「あなたを独占したいっていう気持ち」
彼女は顔を上げ、灰色の瞳でまっすぐに朔を見つめた。
「浅倉くん、知ってるでしょ。私はあなたのスマホを覗き見るし、友達を勝手に消すし、尾行だってする。あなたが他の女の子と話してたら狂いそうになる。そういうこと、付き合ってた時もしたし、別れた後もした」
「もう、そんなことしたくないの」
「それが間違ってると思うからじゃない――あなたが嫌がるって、分かってるから」
「だから、自分に境界線を引いたの。一本の線を。ここまでで十分だって自分に言い聞かせるために。これ以上、踏み込まないように」
朔は彼女の瞳を見つめた。
その灰色の瞳には、恐怖があり、渇望があり、克制があり、そして一種の痛切なまでの清醒があった。
「結月」
「もしかしたら、君はコントロールなんてしなくていいのかもよ」
結月は虚を突かれたような顔をした。
「もし君がそういう人間なら。それが君なんだ。他の誰かを装う必要なんてない」
「でも、あなたは嫌いでしょ――」
「僕が嫌うかどうかは、君が決めることじゃない、僕が決めることだ」
結月は口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。
「スマホを見られたら、確かに不愉快だ。でも不愉快なのは『見られたから』じゃない――『聞かれなかったから』だ。もし聞かれたら、見せてもいいと思ってる」
「本当に?」
「本当だ。隠すことなんて何もないから」
「相変わらずね、いつも論理で感情の問題を解決しようとして」
「役に立ってるか?」
「少しだけね」
結月は立ち上がり、窓辺へ歩いてカーテンを開けた。
外には丸い月が出ていた。月光が庭に降り注ぎ、すべてを銀白色の輝きで包み込んでいた。
「浅倉くん」
「一つ、質問していい?」
「何だ?」
「五十嵐さんのこと、好き?」
朔は考えた。
「分からない」
「じゃあ、月乃森さんのことは?」
「分からない」
「……私のことは、好き?」
朔は沈黙した。
月光が部屋の中をゆっくりと移動していく。まるで時間の刻印のように。
「分からない」
ようやく、彼は口にした。
結月は振り返り、彼を見た。
月光に照らされた彼女の表情は、はっきりとしているようでいて、どこか曖昧だった。
「分からない?」
「分からないんだ」
「分かっているつもりだったけど、分からなくなった」
「以前君と一緒にいた時は、それが好きという感情だと思っていた。別れた後は、好きという気持ちは切断できるものだと思っていた。でも今は、確信が持てないんだ」
「好き、というものが何なのか、僕には分からない」
「ただ分かっているのは、君を泣かせたくないということだ。陽葵にあんな無理をした笑顔をさせておきたくない。詩織を美術室に一人きりでいさせたくない」
「それらの『したくない』という気持ちが、果たして『好き』に分類されるのか、僕には分からないんだ」
結月は朔をじっと見つめている。
そして笑った。
嘲笑でもなく、苦笑でもない。それは理解と、諦念と、あるいはようやく一つの答えを見つけたような、晴れやかな笑みだった。
「浅倉くん」
「知ってる? あなたが今言った『分からない』は、どんな『分かっている』よりも答えに近いかもしれないわよ」
「どういう意味だ?」
「意味はね」
「あなたは自分が思っているより、ずっと感情っていうものを分かってるってこと」
彼女はドアのところで立ち止まり、振り返った。
「おやすみ、朔」
「浅倉」とも「お兄ちゃん」とも呼ばなかった。
彼女は、彼の名前を呼んだ。
「朔」
それは、最も親しい人間だけが呼べる名前だった。
ドアが閉まった。
朔は机の前に座り、外を眺めた。
月が明るすぎて、眠れそうになかった。
朔はノートパソコンを開き、新しいドキュメントを作成した。
今度は、論理分析も、人物設定も、プロットも書かなかった。
ただ一行だけ、言葉を綴った。
『好きというのが何なのか、僕には分からない。けれど、僕は一人になりたくないのだと思う』
その言葉を、長い間見つめて。
そして――削除した。
出来が良くなかったからではない。
そうせざるを得なかったからだ。
外のベランダから、誰かの叫び声が聞こえてきた。
「センパ――イ!!」
陽葵が一階の庭に立っていた。パジャマ姿の上にダウンジャケットを羽織り、金色の髪が月光にきらきらと輝いている。
「先輩! 熱、下がりましたかー!」
彼女は顔を上げて叫んだ。静かな夜に、その声はやけに響いた。
「正気か?」朔は窓を押し開けた。「深夜の一時に人の家の庭で大騒ぎするなんて」
「だって眠れなかったんですもん! 先輩のことが心配で!ちなみに先輩! 明日はちゃんと取材に行きますからね!」
「行かない」
「じゃあ原稿持っていきます!」
「いらない」
「じゃあお粥作りに来ます!」
「もっといらない」
「じゃあ、私自身が行きます!」
朔はため息をついた。
「勝手にしろ」
陽葵はけらけらと笑った。
「先輩、おやすみなさい! また明日!」
彼女はくるりと背を向けて走っていった。ダウンジャケットの裾が風に舞い、まるで小さな旗のようだった。
朔は窓を閉め、首を振った。
けれど、口角は無意識に緩んでいた。
机に戻り、スマホを手に取る。
新着メッセージが一通。
詩織:
『あなたと彼女の秘密、知っちゃいました』
朔はメッセージを凝視した。心臓が跳ねた。
『何の秘密だ?』
『あなたと彼女が、以前付き合っていたこと。最初から知っていました』
朔の指が画面の上で止まる。
『なら、どうして今まで言わなかった?』
『私には関係のないことでしたから』
『じゃあ、なぜ今言うんだ?』
『最初からすべてを見ていた人間がいることを、あなたに知ってほしかったんです』
『それで?』
『あとは、あなたがどうするか決めるだけです』
朔の頭の中は真っ白だった。
けれど、不思議と混乱はしていなかった。
詩織の言う通り――最初からすべてを見ている人間がいる。
それは、隠す必要がないということ。
偽る必要もない。
ただ――。
自分であればいい。
ドキュメントに新しい一行を書き加えた。
「人生は論理パズルではない。正解なんて必要ないんだ」
デスクライトを消し、ベッドに横たわった。
窓の外では、月光が水のように流れている。
結月がもう眠っているだろう。
階下では、陽葵がまだ家路を走っているかもしれない。
美術室では、詩織がまだ絵を描いているのかもしれない。
そして俺は――。
朔は目を閉じた。
明日、何が起きるのかは分からない。
陽葵が何を持ってくるのか。
結月がまたスマホを覗くのか。
詩織がさらなる秘密を口にするのか。
自分が、一体誰を好きなのか。
けれど、一つだけ分かっていることがあった。
自分の理性的な生活は、完全に崩壊したのだ。
その代わりに、混乱に満ち、分類不可能で、予測不能な――。
「生活」が始まった。
ラブコメではない。
ライトノベルでもない。
どんなプロットにも書き込めない何か。
ただの、人生だ。
そして彼は、その中を生きていくと決めた。
第一巻 完
【あとがき】
浅倉 朔のノートには、あの一夜を境に、横線で消された文字がいくつも増えていた。
だが、消されずに残った言葉もある。
その中の一行には、こう記されていた。
「たぶん、答えは、見つけたから信じるものじゃない。信じるからこそ、見つかるものなんだ」
その一行は、消されていなかった。
それが一体どういう意味なのか——
おそらく、朔自身にも分かっていないのだろう。
けれど、分からなくても構わない。




