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ンードラロギア  作者: ああああ


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第八十四章:必勝のための条件

八十四章です。

サン・ガレ城の執務室の一室。窓の外では降り続く雪が音もなく世界を白く塗り潰しているが、部屋の中は、消えかかったランプの油の匂いと、何十枚もの書き損じられた羊皮紙の匂いが立ち込めていた。


ロイドは、三日間一度も横になっていない。

彼の瞳は赤く充血し、頬はこけ、軍服の襟元はわずかに乱れている。それでも、その指先だけは機械のような正確さでペンを動かし、最後の一線を力強く書き込んだ。


「……ふぅ」


短く、重い吐息。ロイドは殴り書きした作戦概要を一度だけ読み返し、それを傍らで控えていた副官のハンスに手渡した。


「ロイド中佐……」

ハンスは、受け取った紙の重みよりも、目の前の男の凄惨なまでの消耗ぶりに声を震わせた。

「決戦までの間、せめて数刻だけでもお休みになった方がよろしいのではないでしょうか。このままでは、敵が来る前に貴方の命が尽きてしまいます」


ロイドは力なく首を振った。その唇は乾燥して割れ、幽かな苦笑を浮かべている。

「ありがとう、ハンス。…この概要を届ければ、あの参謀本部の面々も、今回の決戦がいかに絶望的で、いかに無謀なものであるかを、その鈍い頭で理解せざるを得なくなるだろうからな」


ハンスは、手渡された羊皮紙に視線を落とした。

「……拝見しても、よろしいでしょうか」


「あぁ。見ても無駄だぞ。それは……机上の空論、実現不可能な幻想だ」


ハンスが内容に目を走らせる。そこには、数的に劣位にある軍が取るべき、最も大胆かつ危険な方法が記されていた。


「……なるほど。籠城を捨て、あえて城から打って出るというのですか。それも、中央の陣をわざと薄くし、敵主力をあえて内部まで深く引き込む……。その上で、突出した敵の背後を両翼の騎兵で遮断し、城壁からの遠距離攻撃を合わせて包囲殲滅する。……成功すれば、十五万の軍勢すら飲み込める魔法のような策だ。しかし……」


「しかし、何だ?」

ロイドの声には、自嘲の響きがあった。


「中央で敵を受け止める部隊には、地獄のような過酷さが強いられます。十五万の猛攻を、崩壊せずに、計画通りに『後退しながら支え続ける』。そんな真似ができる部隊など、我が軍には……」


「そうだ。今の我々には、決定的に欠けているものがある。――『士気』だ」


ロイドは椅子の背もたれに深く体を預け、天井の一点を見つめた。

「反攻に沸き立ち、憎悪に燃える王国の主力を正面から受け切り、死の恐怖に耐えながら整然と退く。それには、鉄の規律を凌駕するほどの練度と、何より狂信的なまでの士気が必要だ。だが、今の我が軍はどうだ? 兵站は雪に閉ざされて伸び切り、兵たちの腹は空き、心は故郷への望郷の念に侵されている。そんな連中に、『死んでこい、ただし計画通りにな』と命じて、誰が従う?」


「……士気を高める、ですか」


「私には無理だ。数字を計算し、地勢を読み、論理を組み立てることはできる。だが、飢えた兵士の心に火を灯し、死を恐れぬ獣に変えるような真似は、とても私の領分ではない。もし、今のこの惨状でそれを成し遂げる者がいるならば……私は、その男にこそ『帝国一の知略家』の称号を譲ってやろう。太鼓判を押してな」


ハンスは沈黙した。ロイドの言う通りだった。この作戦は、駒が理想通りに動くことを前提とした盤上の采配であり、血の通った人間が実行するには、あまりにも残酷で、あまりにも尊い献身を必要とする。


「ははは……なるほど。あえてこの『不可能な名案』を叩きつけることで、流石の参謀本部も己の強欲さを恥じ、諦めがつく……ということですね。これだけの策を提示してなお勝てぬのであれば、それはもう戦略の域を超えているのだと」


「そういうことだ。彼らが望む『宝石を守るための策』は出した。それが実行できないのは、私の知略不足ではなく、帝国の現状そのものの限界だという証明だよ」


ロイドはふらつく足取りで立ち上がった。


「ハンス、すまないが参謀本部にこれを届けてくれないか。……あいつらの、保身に満ちた醜い顔を見て眠りにつくのは、あまりに夢見が悪そうだ。私は……少し療養所に行ってくる。何か、泥のように眠れる薬をもらってこないと、脳が焼き切れてしまいそうだ」


「承知いたしました。……中佐、どうかお大事に」


ハンスは深く敬礼し、背を向けて歩き出した。その手にある羊皮紙は、帝国軍の最期を記した宣告書のようにも、あるいは、奇跡を願う祈祷書のようにも見えた。


一人残されたロイドは、誰もいなくなった部屋で、静かに窓の外を見つめた。

雪は、さらに激しさを増している。


「……さて。あのポンコツどもが、この毒入りの果実をどう処理するか。……見ものだな」


ロイドは独り言ち、冷え切った廊下に消えていく。彼の背中は、もはや一国の運命を背負う将官のそれではなく、すべてを投げ出し、ただ一時の安息を求める一人の男のそれであった。


ハンスが参謀本部の扉を叩いてから数刻。そこではロイドの期待とは真逆の、おぞましい熱狂が渦巻いていた。

「素晴らしい! これぞまさに帝国軍の真髄だ!」

ギルバート少将は、ロイドが殴り書きした作戦図をむさぼるように見つめ、快哉を叫んだ。


「あえて引き込み、包囲して殲滅する。数的劣位を戦略で覆す……これこそ、我々が本国へ報告すべき勝利の形ではないか!」

彼らには、ロイドが注釈として書き込んだ「実現不可能」「極めて高い士気が必要」という警告の文字が見えていなかった。あるいは、見えていても「自分たちに都合の良い部分」だけを抽出して酔いしれていた。


「だが少将閣下、この中央で敵を受け止める部隊はどうします? 王国の十五万を正面から受け、後退しながら支え続けるなど、並の部隊では瞬時に瓦解しますぞ」

一人の参謀の言葉に、少将は醜悪な笑みを浮かべた。

「案ずるな。我が帝国には、これにふさわしい『名誉ある生贄』がいるではないか」


参謀本部に呼び出されたのは、近衛特殊任務大隊のレイン中隊長であった。

彼女は帝国軍人として理想的な、凛とした佇まいを見せていたが、その瞳の奥には拭い去れない影が差している。サン・ガレ城攻略戦の別動隊として命じられたものの、ヤプール城塞の攻略では――数的有利な状況にありながら、彼女の部隊はウォールという従騎士の前に敗北を喫した。


「レイン中隊長。貴官の失態により、我が軍の進撃がどれほど遅れたか、理解しているか?」

ギルバート少将のねちっこい声が、彼女の古傷を抉る。

「ヤプールでの失策は、帝国の名門である貴公の父、オズワルド・フィールド閣下の名に、消えない泥を塗ったも同然だ」


レインは唇を噛み、拳を固く握りしめた。

「……弁明の余地もございません」


「そこでだ。貴官に名誉挽回の機会を与えよう。この作戦の要、中央陣地の死守を、貴公の中隊に任せたい」


提示された作戦概要を見た瞬間、レインの背筋に冷たい戦慄が走った。

軍人としての勘が告げている。これは作戦ではない。ただの処刑台だ。

今の中隊に、王国軍十五万の猛攻を正面から受け切る力などない。何より、兵たちは彼女を『親の七光りでお飾りの地位に就き、ヤプールで仲間を犬死にさせた無能な女』と蔑んでいる。


唯一の心の支えであり、自分を庇って死んだヴァル・ヌル曹長の不在が、今の彼女には何よりも重くのしかかっていた。


「……閣下。我が部隊は現在、士気の低下も著しく……」


「ほう。では、逃げるのか?」

少将が身を乗り出す。

「父上の威光を借りてエリート部隊に入りながら、死地と見るや背を向ける。その臆病風、本国の父上はどう思われるかな?」


レインの脳裏に、厳格な父の顔が浮かんだ。彼女にとって、家名を汚すことは死ぬことよりも恐ろしいことだった。


「……謹んで、お引き受けいたします」

レインの声は、震えていた。しかし、それは恐怖ではなく、退路を断った者の震えだった。


「よろしい! さすがは名門の血筋だ」

満足げな少将の声を背に、レインは参謀本部を後にした。


凍てつく廊下を歩きながら、彼女は自分の置かれた状況を冷徹に分析した。

部下たちの目は冷え切っている。最初の衝突で、彼らはきっと逃げ出すか、恐怖で動けなくなるだろう。現場の兵士に「死を覚悟して後退する」ほどの忠誠も士気も今はない。


(ならば、私が『士気』そのものになるしかない)


「お父様、見ていてください。……フィールド家の名に恥じぬ最期を遂げて見せます」

彼女は決心してしまった。


部下たちが逃げ出す暇もないほど凄惨に、自分が最前線での士気を高め、自らが部隊をこの場所に繋ぎ止める。


レインは自室に戻ると、手入れの行き届いた剣を抜き、その冷たい輝きに己の死に顔を映した。


八十四章読んでいただきありがとうございます。投稿開始から一ヶ月…なんとか今日中に100エピソード目を投稿できるようにがんばります。

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