第八十五章:交錯 そして供物となる
八十五章です。
サン・ガレ城の片隅にある療養所は、死臭と消毒液の入り混じった重苦しい空気に満ちていた。
ロイドは、軍医から手渡された小さな小瓶を見つめていた。
「これを飲めば、泥のように眠れる」
そう言った軍医の目は、どこか焦点が合わず、不気味に濁っていた。ロイドは疑う余裕もなく、その場で濁った液体を喉に流し込む。焼き付くような苦みが脳を叩き、視界がわずかに歪んだ。
「あー……ティア曹長。今夜は、一段と冷えるね」
療養所の出口で、ロイドは一人の女性兵士と出くわした。
ティア・エンゼル曹長。かつては快活だった彼女の瞳は、恋人ヴァル・ヌルを失って以来、底の知れない沼のように虚ろだ。ロイドは声をかけずにはいられなかった。
「ロイド中佐……私のこと、覚えていてくださったのですね」
ティアの声は、枯れ葉が擦れるように乾いていた。
「中佐も、療養所に? お怪我でもされたのですか?」
「あぁ、徹夜続きでね。軍医に寝付きが良くなる薬をもらったのだよ。……これだ」
「薬……ちょっと待ってください! その薬、見せてもらえますか!?」
ティアの目が鋭く光り、ロイドの手から強引に小瓶を奪い取った。彼女は瓶の蓋を開け、微かな匂いを嗅ぐなり、顔色を変えた。
「こんなものを……っ!」
ティアは、迷うことなく小瓶を暗闇の向こうへと投げ捨てた。雪の中に落ちた瓶が、硬い音を立てて砕け散る。
「あ……何を!? なぜ投げ捨てたんだ!」
ロイドは驚き、思わず声を荒らげた。
「中佐……あの薬は、寝付きを良くするような代物ではありません。あれは『麻薬』です。……私の父は医者でした。幼い頃から、父が扱う薬草や禁忌の薬について聞きかじっていたから分かります」
「……麻薬だと!? 馬鹿な、軍医がそんなものを使用しているというのか」
「おそらく、最初は負傷兵の激痛を和らげるために、やむを得ず使い始めたのでしょう。ですが、絶望的な医薬品の枯渇と終わりの見えない惨状が、軍医自身の心をも蝕んだ……。感覚を麻痺させなければ、この地獄には耐えられなかったのでしょう」
ティアの言葉は、ロイドの胸に深く刺さった。軍の頭脳である参謀が保身に走り、医療を司る者が薬に溺れる。帝国という巨大な組織が、内側からボロボロに崩れ落ちている。
「そうか……。ならば、薬なんぞに頼っていられないな。私はまだ、正気でいなければ……うわっ」
言葉とは裏腹に、ロイドの膝が突然笑い、視界が激しく回転した。
飲んでしまった薬が、急速に彼の神経を麻痺させ始めていた。倒れかかったロイドの体を、ティアが素早く、かつ力強く抱き止める。
「……! す、すまない。実は、今さっきその場で飲んでしまったのだ……」
「それはいけません! このままここで倒れれば、凍死してしまいます。寝室までお供します、肩につかまってください」
ロイドは、ティアの肩に体重を預けながら、自分の指先から感覚が消えていくのを感じていた。
「ありがとう……。レインから聞いている通り、君は本当に、良い腹心だな」
「あ、ありがとうございます……! ロイド中佐にそう言っていただけるとは、光栄です」
ティアの頬が、わずかに赤らんだ。ヴァルを失って以来、凍りついていた彼女の心が、ロイドの不器用な労いによって、ほんの少しだけ溶かされたようだった。
「あ、ありがとうございます…!ロイド中佐にそう言っていただけるとは光栄です!」
なんとか無事に寝室にたどり着き、ベッドになだれ込んだ。
ロイドは麻薬のせいか、ぐったりと力が抜けていることに気がつく。
「ティア……この薬の副作用を、知っているなら教えてくれないか……? 私の脳は、どうなる……」
「……直ぐに重篤な症状は出ないはずです。ですが、人によっては効き目が強すぎて、意識が深く沈みすぎ、寝ている間に心臓が止まることもあります」
「なんだそれは……毒……そのもの……じゃないか……」
ロイドの声が、次第に不明瞭になっていく。
「中佐、大丈夫です。私がお休みになっている間、傍でずっと様子を見ておりますから。……安心してください」
「いや……そういう……わけに……いか……ない……」
ロイドは抗おうとしたが、まぶたの裏に広がる闇はあまりにも深く、甘美だった。
彼はティアの温もりを感じながら、絶望的な戦場の中、皮肉にも麻薬によってもたらされた深い眠りへと落ちていった。
実は軍医はロイドに対して強力な睡眠薬として麻薬を与えるように参謀本部の指示をされていたのだった。作戦の強行を阻止されることを防ぐために…。
一方、サン・ガレ城の外縁、吹き頻る雪に打たれるレイン中隊の天幕内は、凍てつく外気よりも冷ややかな沈黙に支配されていた。
ヤプールでの敗北以来、この場所から「活気」という言葉は消え失せている。
レインが天幕に入ると、焚き火を囲んでいた兵士たちの視線が一斉に向けられた。だが、そこにあるのは敬意ではない。自分たちを死地へ追いやり、仲間のヴァル曹長を死なせた「無能な指揮官」への、隠そうともしない嫌悪と軽蔑だ。
「……皆、聞いてほしい」
レインの声は、自分でも驚くほど震えていた。彼女は参謀本部から下された、中央陣地の死守――すなわち、十五万の王国軍を受け止める「肉壁」の役割を引き受けたことを告げた。
「な……ッ、正気か!?」
一人の古参兵が立ち上がり、地面に唾を吐いた。
「十五万だぞ! 中央で受け止める? 撤退しながら支えるだと? そんなの、死ねと言っているのと同じじゃないか!」
「参謀本部の連中め、ヤプールの責任を全部俺たちに押し付けて、まとめて始末する気か!」
怒号が渦巻く。兵士たちの怒りは当然だった。彼らは「使い捨ての駒」にされたことを瞬時に理解したのだ。
「待って! 違うわ!」
レインは必死に声を張り上げた。
「ここで私たちが敵主力を引き付け、作戦を成し遂げれば、それは帝国史に残る輝かしい勝利になる! そうすれば、皆の汚名も雪げるし、正当な恩賞だって……!」
「……黙れよ、お嬢様」
最前列にいた若い兵士が、冷たい笑みを浮かべて遮った。
「輝かしい勝利? 恩賞? そんなもん、死んだ後にもらって何になるんだ。あんたはいいよな、戦場でも後ろで親父さんの威光に守られてりゃいいんだから。俺たちは、あんたの無能な指揮のせいで、犬死にするだけだ」
「無能な中隊長が、一体何をしてくれるってんだ。あんたに命を預けるくらいなら、今ここで脱走したほうがマシだぜ」
周囲の兵士たちも、同意するように武器を投げ出す。
部隊は、今この瞬間に瓦解しようとしていた。
レインの視界が、屈辱と悲しみで滲む。
(……ああ、やはり言葉だけでは、誰も動かせない)
彼女は、自分が「お飾り」であることを誰よりも知っていた。実力もなく、実績もなく、ただ家名だけに守られてきた自分。そんな自分が、死を目前にした男たちの心を動かすには、言葉よりも重い「対価」が必要だった。
「わ……わかったわ……」
レインの手が、自身の鎧の金具にかかる。
「おい、何をしてるんだ……?」
兵士たちが訝しげに見守る中、彼女は無機質な音を立てて胸当てを外し、肩の防具を床に落とした。
薄暗い天幕の中、火に照らされて、二十歳の女性特有の、傷一つない柔らかな白い肌が露わになる。戦場にはおよそ不釣り合いな、あまりにも無防備で清らかな輝き。
「この作戦に成功して……もし、生き残ることができたら」
レインは、恥辱に顔を真っ赤に染めながら、しかし逃げ場のない瞳で兵士たちを見据えた。
「わ、私の身体……好きにして、いいわ。何でも…ずっと…望む通りに」
天幕の中に、しばしの絶望的な沈黙が流れた。
兵士たちは、目の前の「高貴な乙女」が提示した、あまりにも生々しく、破壊的な対価に言葉を失った。エリートである彼女が、最も大切にすべき自尊心を、汚泥の中に投げ捨てたのだ。
沈黙を破ったのは、一人の兵士の、獣のような低い笑い声だった。
「……おい、聞いたか? あの『フィールド家の令嬢』が、俺たちに抱かせると言ったんだぞ」
「本当か……? 本当に、俺たちの好きにしていいんだな?」
沈黙は、瞬く間に濁った熱狂へと塗り替えられた。
「うおおおおおおお!!」
「やってやる! やってやるぞ!!」
「あの肌を弄ぶことができるなら、十五万だろうが三十万だろうが、串刺しにしてやる!」
それは「士気」と呼ぶにはあまりにも醜く、歪んだエネルギーだった。
だが、死に物狂いの男たちの瞳には、確かに狂気的な殺意が宿った。
レインは震える手で、脱ぎ捨てた鎧を拾い上げた。
その瞳からは、もはや光が消えていた。
(これで……いいのよね、ヴァル)
彼女は「士気」そのものになった。
自らの尊厳を餌にして、部下たちを飢えた獣に変えたのだ。
サン・ガレ城の最前線に、帝国で最も恐ろしく、最も哀れな「肉壁」が誕生した瞬間だった。
八十五章読んでいただきありがとうございます。幕間と合わせて100エピソード達成しました!ここまで走りきれたのは読者の皆様のおかげです。本当にありがとうございます。これからも頑張って執筆していきますので応援いただけますと幸甚です。




