第八十六章:微睡みの中で【閲覧注意】
八十六章です。【閲覧注意】
今回のエピソードには、キャラクターに対する暴力、および性的暴行を示唆する極めて凄惨な描写が含まれます。
帝国という組織の腐敗、そして戦場の狂気が引き起こす最悪の悲劇を描くための演出ですが、ショッキングな展開が苦手な方はご注意ください。
救いのない描写が続きますが、これはロイドとレイン、そしてティアの運命が大きく変転する重要な一歩となります。ご了承いただける方のみ、先へお進みください。
ロイドの意識は、深い沼の底を這いずるような重苦しさの中にあった。
(……眠ってはいけない。ティアを……女性士官を、独りにしては……)
辛うじて持ち上げた瞼の隙間から見えたのは、慣れ親しんだ自室の天井ではなかった。煤けた石造りの壁と、鼻を突く薬品の臭い。そこは療養所の奥まった一室だった。
「おや、起きましたか。中佐……」
視界に割り込んできたのは、脂ぎった顔に薄ら笑いを浮かべた軍医の顔だ。
「……っ!?」
ロイドは跳ね起きようとしたが、指一本すら動かない。全身が鉛に作り変えられたかのような、異常な重脱力。視線を落とせば、剥き出しの腕に無機質な針が刺さり、琥珀色の液体が滴り落ちていた。
「この睡眠剤は特殊でしてね。用法用量を守らねば、意識と記憶が中途半端に残ってしまう……。だがご安心を。今、追加で『点滴』をしています。これでまた、何も考えずにお眠りいただけますよ」
軍医の背後には、参謀本部の影が見え隠れしていた。
(……それともギルバートの差し金か!?私が撤兵を強行し、彼らの『面子』を潰すのを恐れたか……!)
ロイドは必死に声を絞り出そうとしたが、喉は麻痺し、ただ熱い吐息が漏れるだけだった。抗うことのできない闇が、再び彼の脳を侵食していく。
一方、ロイドが闇に沈んでいることなど、サン・ガレ城の支配者たちには些細な問題ですらなかった。
司令部の重厚な扉の向こうでは、勝利を祝う抜栓の音が絶え間なく響いている。
「素晴らしい! 素晴らしいぞ、我がグロードルの精鋭たちは!」
ギルバート少将は、最高級のブランデーを注いだグラスを高く掲げた。
「王国騎士団の十五万を、あの中央陣地だけで粉砕したのだ! これこそが帝国の、近衛特殊任務大隊の真骨頂ではないか!」
参謀たちは、赤ら顔で笑い合い、地図上に散らばった「戦果」という名の数字を愛でていた。
「正直、『お飾り』と揶揄されていたレイン中隊長には期待していませんでしたが……。隊員たちの実力は、やはり本物でしたな」
「あぁ、あそこまで苛烈な戦いを見せるとは。これぞ軍人の鑑だ!」
「ところで少将。これほどの功労者だ。レイン中隊長と隊員たちをこの場に招き、我ら自ら酒を振る舞っては?」
一人の参謀の提案に、使いの伝令が困惑した表情で首を振った。
「いえ……お誘いしたのですが、中隊長殿からは『犠牲が多く、今は全隊をもって喪に服したい』との返答がございました。天幕を固く閉ざし、外部の人間は一切入れるなと……」
「なんと! 勝利に溺れず、死した戦友を悼むとは。感服した!」
ギルバートは上機嫌にグラスを飲み干した。
「よかろう、彼らの『静寂』を邪魔するな。英雄には休息が必要だ。我々は我々で、この『歴史的大勝利』をいかに本国へ報告するか、じっくり語り合おうではないか! ギャハハハハ!!」
石造りの壁を震わせる笑い声。
その真下、雪に埋もれた天幕の中で、『自分たちの順番』を巡って獣たちが示し合わせ、狂宴の始まりを今か今かと待ち望んでいる。
勝利の美酒に酔いしれる「知略の徒」たちには、レイン中隊の天幕でこれから何が行われるか、知る由もなかった。
「中隊長殿ー!!まだですかー!」
レインは部下の隊員に囃し立てられ、膝を震わせている…。
「皆さん…今日の戦いは…本当にお見事でした…感謝を申し上げます」
「それでは…約束通り私の身体を……好きにして…くだ…あっ!」
そう言いかけたところで、その言葉を聞いて目を見開いたティアと目が合うレイン。レインはこの後、ティアに降りかかる未来が見えた。
「待ってくださいっ!ティア曹長はっ…!!」
レインの叫びは、天幕に充満する男たちの、獣じみた濁った吐息にかき消された。
彼女が必死に伸ばした指先は、ティアの軍服を掴む前に、粗野な泥まみれの軍靴によって踏みにじられた。
「……っあ!」
痛みに顔を歪めるレインの視界で、ティアが組み敷かれていく。その絶望に染まった瞳と目が合った瞬間、レインの心の中で何かが決定的に壊れた。自分の浅はかな決断が、自分を慕っていた唯一の女性兵士をも地獄へ引きずり込んだのだ。
「いいんだよ、中隊長殿。あんたが『好きにしていい』って言ったんだ。……責任を取りなよ、エリートのお嬢様。今日は順番待ちを我慢出来ない奴も多いんだ」
顎を乱暴に掴み上げ、下卑た笑みを浮かべる兵士。その視線は、レインの傷一つない白い肌を、品定めするように舐め回した。
「おい、知ってるか? このお嬢様、あの『奇才』ロイド中佐殿の許嫁なんだぜ」
その言葉に、天幕内は下品な笑いに包まれた。
「へぇ……あの中佐殿の? 道理で二十歳にもなって、こんなに傷一つないわけだ。頭は回るが女に関してはアッチの方はご無沙汰だって噂だからな」
「まぁいいか。中佐殿のお下がりでも、この上玉だ!…俺たちは、ロイド中佐と兄弟になるんだな、ギャハハハ!」
「やめ……それだけは……ロイド兄さんを、馬鹿にしないで……っ」
拒絶の言葉は、乱暴な接吻によって塞がれた。
レインの脳裏に、かつてロイドと交わした、淡く、けれど清潔な約束の記憶が浮かぶ。
「おいおい、箱入り娘は接吻の仕方も知らないのかぁ?フラれちまうぞ、まぁそんなことはいいや…」
隊員は、無理やりレインに侵入しようとしてくる。
「い…いやっ!」
彼女にとって、この「初めて」を彼に捧げることは、過酷な戦場を生き抜くための唯一の希望であり、光だった。
布地が裂ける乾いた音。
彼女が生まれて初めて経験する激痛は、肉体だけでなく、魂に刻まれた『ロイドとの絆』をも引き裂いていく。
「……っあ、あぁ……!」
レインの唇から、苦痛と絶望の悲鳴が漏れた。
その瞬間、彼女を蹂躙していた隊員の動きが、ピタリと止まった。
彼は、自分の手元を見つめ、そしてレインの顔を見下ろし、信じられないものを見たかのように目を丸くした。
「……おい、おいおいおい! 見ろよ、これを!」
彼の視線の先。レインの白い太腿を、鮮烈な赤色が伝い落ちていた。
雪の上に落ちた、一輪の赤い花弁のように。
「……嘘だろ? 『初物』じゃねぇか!!」
その言葉が発せられた瞬間、天幕内は、先ほどまでの下品な笑いとは一線を画す、地鳴りのような狂気の歓声に包まれた。
「うおおおおおおおおお!! マジかよ! マジで初物なのか!」
「あのロイド中佐、許嫁を一度も抱いてなかったのかよ! 潔癖症にも程があるぜ、クソ真面目な野郎だ!」
「感謝しなきゃな! おかげで、俺が、あのフィールド家の令嬢の『一番槍』を頂いたってわけだ!」
隊員たちの欲望は、一気に沸点を突破した。
彼らにとって、それは単なる性欲の解消ではない。帝国のエリート、名門の令嬢、そしてあの「奇才」ロイド中佐が守り続けてきた純潔を、自らの手で汚し、破壊するという、この上ない背徳感と征服感の象徴だった。
「ロイド中佐には、後でたっぷり感想を教えてやろうぜ。あんたの許嫁の『初めて』は、俺たちが最高の鳴き声と共に、汚泥の中に沈めてやったってなぁ!」
「やめ……やめて……! ロイド……ごめんなさい……私は、もう……」
レインの瞳から、最後の一滴の光が消えた。
ロイド。彼が慈しみ、守ってくれた自分の「純潔」が、今、彼を最も深く傷つけ、辱めるための道具として利用されている。その事実が、肉体的な苦痛以上に彼女を地獄へ突き落とした。
天幕の布越しに、二つの影が大きく、歪に揺れる。
一人は、己の尊厳を餌にして獣を飼い慣らそうとした、愚かな指揮官。
一人は、ただ献身を捧げたがゆえに、その巻き添えとなった哀れな犠牲者。
その悲鳴すら、外で吹き荒れる吹雪と、遠く離れた司令部から聞こえる「勝利の美酒」を酌み交わす音にかき消されていく。
ロイドが軍医による麻薬の眠りから覚めたとき、彼が最も守りたかったものは、もうこの世界のどこにも残っていない。彼の知略がもたらした「勝利」は、彼自身を地獄へ突き落とすための舞台装置に過ぎなかったのである。
サン・ガレ城を包んでいた深い闇が、薄汚れた灰色の朝へと塗り替えられていく。
天幕を揺らしていた獣たちの咆哮は止み、代わりに残されたのは、重苦しい鉄錆と脂の混じった臭気、そして絶望の沈黙だった。
レインは、冷え切った地面に這いつくばったまま、震える手で自身の腹部を固く押さえていた。
もはや『初めて』を奪われたという感傷など、遠い過去の出来事に思えた。全身を突き抜けるのは、内臓を掻き回されるような濁った激痛と、身体の芯まで泥にまみれたという拭い去れない嫌悪感。
「あ……ぅ、ぁ……」
彼女の唇から漏れるのは、もはや言葉にならないすすり泣きだった。名門フィールド家の矜持も、帝国軍人としての誇りも、一夜にして肉の塊へと成り果てた。流れる涙は、彼女の白い頬にこびりついた汚れを洗うことすらできず、ただ虚しく雪に吸い込まれていく。
その時、レインの背中に、刺すような冷たい視線が突き刺さった。
ゆっくりと首を巡らせたレインの視界に入ったのは、乱れた軍服のまま、壁にもたれかかるティアの姿だった。
かつてロイドを案じ、ヴァルを愛していたあの慈愛に満ちた瞳は、今や完全に死に絶えていた。そこにあるのは、ただ一点、レインという存在を焼き尽くすためだけに燃える、漆黒の憎悪の炎だけだ。
「……ティア……曹……長……」
レインが謝罪を口にしようとした、その時だった。
「あなただけは……絶対に、許さない……!」
ティアの声は、枯れ葉が擦れるような、あるいは隙間風が鳴くような、低く、枯れきった音だった。しかし、その響きには、一晩中響いていた兵士たちの怒号よりも恐ろしい、絶対的な「呪い」が宿っていた。
「私の……私の大切なもの、全部奪って……地獄に突き落として……。……誓って…やる…わ。死んでも、許さない。必ず、私以上の……この世で最も醜い地獄に、叩き落としてやる……!」
ティアの瞳から、一滴の涙も流れることはなかった。彼女の心は、レインへの復讐心という唯一の楔によって、辛うじてこの現世に繋ぎ止められているに過ぎなかった。
レインは、その呪詛を全身に浴びながら、力なく項垂れた。
部下を守るために捧げた尊厳は、部下を獣に変え、最も信頼していた戦友を最大の敵に変えてしまった。
外では、勝利を祝う軍楽隊の乾いた太鼓の音が響き始めている。
『栄光』に沸くグロードル帝国軍の陣営の陰で、二人の女性の魂は、二度と癒えることのない傷を抱えたまま、終わりのない暗闇へと沈んでいった。
その頃、療養所のベッドで、ロイドの手が僅かに動いた。
彼が目覚めて最初に見る光景が、昨日までの世界と別物になっていることを彼はまだ知らない。
八十六章読んでいただきありがとうございます。書き手としても、筆が重い回でした。
勝利の代償として書きました。勝利のために、良心を殺して任務を遂行するのが戦争であり、その戦争を行うとこういう過程を辿る可能性がある。耳触りの良い話、結果や視覚的な訴え以外に戦争の悲惨さを伝えるための演出でした。
名門の誇りと純潔を守り抜こうとしたレイン、そして良心と献身の象徴であったティア。二人がこれほどまでに無残に打ち砕かれる結末は、ロイドが目指した「最善の知略」が、皮肉にも最悪の地獄を招いてしまうという帝国の闇を象徴しています。
レインの流した血と、ティアの「呪詛」。
全てを失った彼女たちと、薬漬けにされていくロイド。
偽りの勝利に沸く帝国軍の中で、目覚めたロイドが何を見るのか。
物語はここから、逃れられない復讐と破滅の輪舞曲へと加速していきます。
次回、ロイドが真実を知る時、サン・ガレ城にはまた別の嵐が吹き荒れることになります。
引き続き、彼らの行く末を見守っていただければ幸いです。




