幕間:割れた鏡 変化の兆し
幕間です。
VIPルーム「鏡の間」、その中で発する音は外界に漏れることは無い。贅の限りを尽くしたその部屋は、防音対策も十分に施されていたのだった。壁に跳ね返るりっちゃんの艶めかしい悲鳴も、アルトの無邪気な笑い声も、すべては厚い絨毯に吸い込まれていく。
「さぁ、りっちゃん。湯船に入る前にしっかり身体を洗うよ~ちょっと待って僕も脱ぐから…」
『アルト…わかったからせめて前を隠して…不自然な発光や謎の湯気で隠す暇もなく脱ぐんじゃない!!』
慌てふためくりっちゃんを余所に、アルトは躊躇なくその「聖剣」を携えて歩み寄る。
「でも前に怒られて一緒にお風呂に入った時は…あれ?誰に怒られたんだっけ?…まぁいいや」
『その「誰か」が血涙を流しているぞ! せめて真面目に追体験して! 1900年の威厳を犠牲にしてるんだから!』
(アルト君、どんな英才教育を受けてきたのよ……。エルキア様、おいたが過ぎるわ)
傍観を決め込むエネアウラの冷や汗を置き去りに、洗浄の儀式が幕を開けた。
「よし、まずは頭からね」
『あ!原液をそのまま前頭骨につけるな!……ひんっ、側頭骨は……そこは弱いのよぉ!』
「中もキレイにしないとね…」
『ぐぅっ……眼窩に指を入れられる感触……あ、あ、鼻骨の穴まで……やめて、これでも女の子なのよぉ!!』
眼窩を撫でられ、鼻腔をまさぐられる。生身の人間なら悶絶するような暴挙も、骨というフィルターを通せば「細部清掃」に過ぎない。しかし、その声だけは、1900年前の「美少女天才魔法使い」の記憶を呼び覚ましていた。
(あぁ…なぜかアルト君に洗浄されていると、りっちゃんの中の女子が表面に出てくるのが不思議な光景だわ)
アルトはりっちゃんの手から、獲物を奪い取るように歯ブラシを搦めとった。
「歯磨きもしてあげるよ」
『あ…アルト…他人に歯ブラシで磨かれるのって結構ゾクゾクするの…知らないのか?くそっ!今の我は糸引く唾液も粘膜も無い骨だから…隅々まで洗浄されちゃう…あぁっ』
「どうだった?」
『……あぁ、上手かったぞ。オエッとならなかった。……それとアルト、我は食事をせんから虫歯にはならんのだがな』
「虫歯にならなくても歯周病はこわいよ?」
『歯茎がないだろ!歯茎!!』
強がってみせるりっちゃんだが、続く「全身洗浄」に、その強気は霧散する。
「じゃあどんどんいくね」
『ちょっと待って…あぁ頚椎を指で撫でないで!ひやんっ!鎖骨は感じちゃうっ…はぁ、はぁ、まって、そこは胸骨よ…そこには小さかったけど確かに膨らみがあったのよ!いやぁっ…』
(視覚を遮ると聞こえてくる内容は鼻血ものだけど、見ている分にはなんてことない、ただの洗浄作業なのよね…)
『あぁ、アルト…そこは心臓が…私の心臓があったところよ…!もっと優しく触れなさい』
(あらあら、一人称が『私』になってる。いつもの『我』はどこにいっちゃったの??文字通り『我』を忘れて身も心も女の子になっちゃってるわよ、りっちゃん…)
アルトが腰椎を洗い始め、どんどん下に下がってくる。
『あふんっ…もうだめ、自分でやるわ、あ、やっぱりやめないで…アルト…お願い…恥骨を念入りに歯ブラシで磨いて…』
(あぁ…ついにりっちゃん、陥落しちゃうのか…)
『あ、アルト、腕の肩甲骨が外れそうなの、片手でギュッと抑えて…そうよ。そのまま、歯ブラシで磨いてほしいの…』
りっちゃんの指骨があるとの背中に回り込み、アルトの肌に食い込む。胸骨もアルトと密着する。
(ふふ…りっちゃん、かぁいいわよ…)
『あ、あ、あ、待って!よく考えたらエネアウラに見られ…はぁっ、あ、いや!いっ………!!』
逃れられない感覚の奔流がりっちゃんの骨格を駆け巡っていく。ストンと全身の力が抜ける。
「……ん!?あれ?おーい、りっちゃん!?」
真っ白に燃え尽き、カタカタと震えながらタイルに横たわる骨の塊。
「アルト君…りっちゃんは疲れちゃったのよ、私が拭いておくから、お風呂に入っていなさい」
エネアウラが優しく、かつ獲物を狙う目付きでアルトを促す。
「りっちゃん、自分だけ最後まで楽しんじゃってずるいわよ…」
『面目ない…』
(もはや賢者タイムね、この骨)
「いいわ…後は私にまかせて…エルキア様がどこまでいったのか…気になるところでもあるわ」
シュルル……。エネアウラは衣類を脱ぎ捨て、バスタオル一枚をその豊満な肉体に纏わせる。鏡張りの部屋が、彼女の曲線美を幾重にも増幅し、空間そのものが熱を帯びた。
「アルト君…おまたせ…」
エネアウラが、獲物を仕留める一歩を踏み出したその時だった。
「わぁぁぁぁ!!!ごめんなさい!」
浴室の扉が勢いよく開き、アルトが脱兎のごとく飛び出していった。あまりの「女の気配」の濃密さに、退行した脳の防衛本能が限界を迎えたのだ。
「…………」
静まり返る浴室。
「………あー、この展開は無かったということなのね…エルキア様、真面目だものね…おーい、りっちゃん。悪いけど、外にいるアルト君にタオルと服を渡してあげて」
『……心得た……』
カタカタと、腰を抜かしたまま這いずり出る不死の王。
扉の隙間から、震えるアルトにタオルが投げ込まれる。
鏡張りのVIPルーム「鏡の間」の外。廊下の隅で膝を抱え、小さくうずくまるアルトの姿があった。
エネアウラが寝間着に着替えを終え、ドアを開けるまで、彼は決して中へ戻ろうとしなかった。たとえ精神が退行していようとも、エルキアが彼の魂に刻み込んだ「女性の神秘に対する峻厳なまでの敬意」と「踏み込んではならぬ一線」という名の戒律は、本能レベルで機能していたのだ。
それは皮肉にも、エルキアがいかに彼を「大切に」、そして「一人の男」として狂おしいほどの手間をかけて育て上げたかの証明でもあった。
「……もう大丈夫よ、アルト君。入ってちょうだい」
エネアウラの声に、アルトは恐る恐る顔を上げた。その瞳には、先ほどのパニックの残滓と、捨てられた仔犬のような心細さが混じり合っている。エネアウラは、そんな彼の細い手首を優しく、だが拒絶を許さない確かな力で掴み、部屋の中へと引き入れた。
円形の巨大なベッドに、二人で並んで横たわる。
つい先ほどまで、欲望の渦が巻いていたはずのこの部屋は、今や驚くほど静謐な空気に包まれていた。
「……おやすみなさい、エネアウラ」
小さな呟きの後、アルトはすぐに深い眠りに落ちた。
鏡張りの壁に映し出されるのは、安らかな寝息を立てる少年の顔。
エネアウラは隣で眠るアルトの横顔を見つめ、そっとその頬に手を伸ばしかけて――止めた。
指先から伝わってくるのは、彼が生きているという確かな体温。
この「ハッスル・キャッスル」という場所で、エルキアは一体どんな想いで彼と夜を共にしたのか。鏡に映る自分たちの姿を見ながら、彼女はどれほどの自制心と、それ以上の深い慈愛をもって、この「純粋」を形作ってきたのか。
(……ああ、分かってしまうわ。エルキア様。あなたがこの子に注いだのは、単なる保護欲じゃない。これは……祈りね)
自分が汚泥の中で生きてきたからこそ、この子だけは「光」の中に留めておきたい。自分の歪んだ愛着で染め上げるのではなく、彼自身が誇り高く立てるようにと、慈しみ、磨き上げてきた結晶。それが目の前で眠る「アルト」という存在なのだ。
エネアウラの内側で、ドロリとした黒い感情――記憶のない彼を自分好みに塗り替え、すべてを奪い尽くしたいという「捕食衝動」が、確かな重みを持って鎌首をもたげた。彼を汚すのは容易い。今の彼なら、優しく誘えば容易く深淵へ落ちてくれるだろう。
(……いけないわ。これを今、私の手で汚してしまったら、私は本当にエルキア様を裏切ることになる)
だが、エネアウラは自分の中に渦巻く昏い欲望を、深い吐息と共に飲み込んだ。
彼女はアルトを抱き寄せるのではなく、ただそっと、布団を肩まで掛け直してやるに留めた。
『……エネアウラ殿、賢明な判断だ』
部屋の隅、月明かりを浴びてしっとりと光る(洗浄済み)りっちゃんが、静かに声を潜めて呟いた。
『我も、さっきは少しばかり浮ついてしまったが……この寝顔を見せられてはな。不死の王として、この平穏を破る不届き者は、たとえコンプラの壁を越えてでも塵に帰さねばならん気分だ』
「……そうね。今夜は、ただの「お姉さん」でいてあげるわ」
エネアウラは、鏡に映る自分に言い聞かせるように微笑んだ。
欲望の迷宮のような「鏡の間」で、二人の歪な守護者たちは、少年の無垢な眠りを守る盾となった。
外ではグロードル帝国の軍靴が響き、世界は戦火に包まれようとしている。だが、この防音の施された、鏡に囲まれた箱庭の中だけは、かつての師匠が望んだ「平穏」が、奇跡のようなバランスで保たれていた。
翌朝、オルダたちがラウンジで目にするのは、一皮剥けて神々しいまでの光を放つ骨と、どこか吹っ切れたような、清々しい表情のエネアウラ。そして、何も知らずに健やかに目覚めたアルトの姿であった。
――であった。
一行が清々しい朝の光に包まれ、絆を深めたかのように見えたその瞬間。
ピシィッ!!!
世界の端に、あってはならない「亀裂」が走った。
鳥のさえずりは不自然に途切れ、ラウンジに差し込む朝日が、ノイズの混じった安物のホログラムのように激しく明滅する。
「なに…このコレジャナイ的なヌルい展開は…」
虚空から響いたのは、鈴の音のように美しい、しかし絶対的な死を予感させる冷酷な女の声。
次の瞬間、アルトたちがいた王都の風景は、ガラスが砕け散るようにバラバラに崩落した。石畳も、朝日も、安らぎに満ちたアルトの寝顔も、すべては漆黒の闇へと吸い込まれて消える。
「アルト君、みんなに大切にされていてよかったねっていう、ほのぼのエピソードでしたね。良い話じゃないですか」
魔王は、ヒビの入った水鏡を憎々しげに指差した。彼女の瞳には、紅蓮の怒りが宿っている。
「良い話なんて求めてないのよ! 私は『撮れ高』の話をしているの! いい? 昨夜の最大の見せ場が『骨がハブラシで洗われて昇天するシーン』ってどういうことよ!…こんなのどこに需要があるっていうのよ!全くの未開のニッチジャンルよ!私が見たかったのは、エネアウラの牙がアルトの喉元に突き立てられる、あの背徳の瞬間だったのよ!!」
傍らに控えるアリスは、主の剣幕に眉一つ動かさず、優雅に紅茶を注ぎ足す。
「骨格標本を見ながら聴覚を集中する『ASMR』的な運用とか…りっちゃんさんの声、需要ありそうですが…。あ、魔王様、アルト君を強引に操作して事に及ばせるのは反則ですよ? 『誰かに操られた人形劇は、真のエンターテインメントではない』。そう仰ったのは、他ならぬ魔王様ご自身です」
「そうだけど…そうだけどさぁ…!オナ禁して今日こそはご褒美回かと全裸待機していたのに期待を裏切られたこの賢者タイムならぬ『虚無タイム』をどうしてくれるのよ!」
「していないですよね…オナ禁。だったら、過去のハイライトいかがです?」
「……アリス、アンタねぇ。それでハイライトに逃げるのは二流なのよ。新作の期待を裏切られた傷は、新作でしか癒やせないの。賢者タイムが虚しくなるだけよ……」
「ふぅ、今に始まったことじゃないけど退屈ね…あーぁ、私、友達がほしいわ」
その言葉が出た瞬間、アリスの指先がわずかに止まった。
「アルト君、私とお友達になってくれないかしら…?」
魔王の呟きは、どこか幼い少女のような、純粋な渇望に満ちていた。しかし、それを受けたアリスの瞳には、一切の情けも宿っていない。
「……魔王様にとって、アルト君はどんな存在なのですか」
「え? ……最高の素材で、私の欲を形にする触媒で、いじり倒して壊してやりたい、エルキアちゃんと同じ唯一無二の観測対象(推し)よ」
「……。無理な理由はそれです」
アリスは、溜息すらつかずに冷たく言い放った。
「あなたの愛は『消費』と『破壊』です。対象と同じ地平に立つことを拒み、高みから弄ぶ者に、対等な『友』を名乗る資格はありません」
「……っ。なによ、正論ばっかり。……じゃあ、同じ地平にいるあんたは? アリス。あんたが私の友達になってよ」
「……無理です」
「なんなのよ! もうっ!!」
魔王は玉座のクッションを力いっぱい叩いた。
「なぜよ! あんた、私の一番近くにいるじゃない! ずっと一緒にこの地獄みたいな虚空にいるじゃないの!」
魔王の叫びに、アリスは静かに、しかし残酷なほどの微笑みを浮かべて答えた。
「魔王様。私はあなたの執事であり、あなたの観測者です。……鏡の中の自分と友達になれる人間がいますか? 私があなたと対等になれば、誰があなたの『わがまま』を記録し、誰があなたの『撮れ高』を評価するのです?」
アリスは一歩下がり、深い礼を捧げる。
「あなたが孤独であればあるほど、あなたの生み出す物語は純粋で、残酷で、美しい。私はその『孤独な魔王』という作品のファンなのです。……友達になどなって、あなたの価値を下げてやるつもりはありません」
「……最低。あんた、本当に最低だわ」
魔王は再び膝を抱え、ヒビの入った「水鏡」に映る、地上を歩くアルトたちの姿を睨みつけた。
「……いいわよ。私なりにあがいてみせるわ。後で寂しいって泣きついてきても知らないんだからっ」
「ええ。期待しておりますよ、魔王様」
鉄面皮の表情の奥で、アリスは悠久の時の中で魔王が初めて発した「友達が欲しい」「友達になって」という言葉に微かに震えていた。
幕間読んでいただきありがとうございます。実は、魔王が水鏡越しでも見てました回でした。魔王の最後の発言は、今後のそれがアルト達にとって波乱万丈に繋がりそう…そんな不安がよぎるものでした。




