第七十六章:綺麗な手の代償
七十六章です。
詰所の扉を荒々しく開け放ち、レインは机に突っ伏した。激しい動悸が収まらない。耳の奥にはまだ、あの民家から漏れていた女の、魂の叫びのような懇願がへばりついている。
「中隊長殿、お戻りでしたか」
暗がりの隅から、事務官の老兵が声をかけた。彼はレインの乱れた呼吸など気にも留めない様子で、山積みの帳簿に目を落としている。
「……事務官。今すぐ、第三区の予備兵たちに緊急の査察…憲兵を入れなさい。軍紀違反……いいえ、人道に対する罪が行われているわ」
レインが絞り出すように言うと、事務官はペンを止め、眼鏡の奥の濁った瞳を彼女に向けた。
「査察ですか。よろしいですが……そうなると、彼らへの『特別配給』を止めねばなりませんな」
「特別配給? あんな獣たちに報酬を与えるというの?」
「いえ、中隊長殿。報酬ではありません。『穴埋め』です」
事務官は、一冊の汚れた台帳をレインの前に突き出した。そこには、このガラゲ村へ送られてくる糧秣と資材の予定数が書かれていたが、そのほとんどに赤い線で×印が引かれている。
「本国からの補給は、予定の三分の一も届いておりません。彼ら予備兵に与えられているのは、家畜も食わないような腐った麦粉と、泥の混じった水だけです。装備は朽ちており、魔法の触媒も底をつき、彼らは明日、裸同然で敵の火炎魔法の中に突っ込むことになるのです」
事務官の声は、淡々としていて、それゆえに冷酷だった。
「彼らを繋ぎ止めているのは、もはや給金でも愛国心でもありません。……今、あそこで行われている『慰み』だけが、彼らに明日死ぬ覚悟を与えているのです。中隊長殿、あなたが人道を説いて彼らの唯一の楽しみを奪うのなら、明日の払暁、彼らは敵陣ではなく、この詰所に刃を向けてなだれ込んでくるでしょうな」
「そんな……。食料がないなら、私の……私の予備分を回しなさい!」
「とっくに回しておりますよ。……開戦後の翌日からです」
背後から、追いついてきたティアが静かに告げた。彼女の瞳には、逃げ場のない諦念が宿っている。
「レイン様、私たちが今日食べた温かいスープは、彼ら百人分の食事を削って作られたものです。……私たちが『綺麗』でいられるのは、彼らが『汚れて』くれているから。……それが、この戦場で行われている等価交換なのです」
レインは、自分の指先を見た。
白く、滑らかで、汚れ一つない手。
この手が、あの民家で女が流した血と涙の上に、間接的に乗っかっているという事実。
「……あ」
言葉にならない声が漏れる。
彼女が守ろうとしていた「軍の名誉」は、現場の兵士たちの飢えと、名もなき女の叫びを生贄に捧げることで、かろうじて維持されている、中身の空っぽな張りぼてだった。
「中隊長殿。明日の作戦指示書です。……明朝、彼ら予備兵の半数が戦死すれば、一人当たりの麦の量は二倍に増えます。……彼らは、それを楽しみに戦場へ行くのですよ」
事務官が差し出した書面には、明日の突撃順が書かれていた。先頭は、先ほどの民家にいた男たちの部隊だ。
「この作戦指示書は、ロイド中佐が作成されたものなのですか…!?」
「……あの方は盤面の駒を操作するための作戦を立案されます。そこには誰をどのように死ねせるかということは描かれません。英雄が描かれるのは勝利の栄光までの道筋だけです」
レインは、その書面を受け取ることができなかった。
彼女の知る「戦争」は、地図の上で駒を動かす高潔なゲームだった。しかし、ここにあるのは、人間の肉と尊厳をすり潰して、一日分の命という名の「麦」を絞り出す、巨大な挽き肉機だった。
闇の中から、再びヴァルの声が聞こえた気がした。
――自分の命すら安く見積もってしまわなければ、この地獄には耐えられない――
レインは、震える手で自分の喉をかきむしる。
自分が吐き気がするほど嫌悪したあの獣たちと、彼らに「死ぬための理由」を与えられない自分と、どちらがより残酷なのか、もはや分からなくなっていた。
兄さんに会わなければ…レインは再び詰所を飛び出していく。
ロイドの詰所はロウソクの灯りが見えた。
「兄さん!!起きているのでしょう!?」
夜更けという時間を気にすること無く、ドアを叩くレイン。
「どうしたんだ!?何があった!?」
レインの泣きじゃくった顔、その焦燥ぶりを見たロイドはただ事では無いと感じる。
「私は最前線がどういう場所か知らなかったの…!!うわぁぁぁ!!」
泣き崩れるレイン。ティアが上官に対してとんでもない失態をしてしまったかのように敬礼を行っている。
「すみませんが、ティア。説明をしてもらえるか?」
ティアがレインに代わり、一部始終を説明する。
「そうか…レインは見てしまったんだね。戦場で人が見せる、醜い部分を…」
「人が獣だということを始めて知りました…!だからこそ規律が…誇りが必要なのだと…!」
「それは違う…狼も熊も、こんなことをしない。効率を求めて地獄の炎をさらに大きくするのは人だけだよ。人の業が深すぎるんだ。レイン、これに気づいたのであれば、直ぐに軍を抜けろ、今なら敵前逃亡とはならない。私が一筆書けば、病気療養で除隊できる」
「いや…そんなこと…できない!!」
「レインっ!!」
「だって…それで軍を抜けて、あなたを待つ家庭を作っても…あなたが戦場に赴き、帰還する度に、あなたが地獄の炎に焼かれていることを嫌でもわかってしまうもの!!」
「全ての軍が、戦争がそうではないよ…今回の出兵がデタラメなんだ。皮肉なことにアルブール王国の騎士団及び、戦略予備軍は人の尊厳が守られている。我軍が侵攻した先の民は誰もが飢えておらず、冬を越える食料の備蓄もそのままなんだ…」
「…それは、この南の地が裕福だからなのではないでしょうか…?」
「いや、それは違う。アルブール王国は高い精神主義と騎士道を重んじることで、戦場のなかでも理性と軍紀を守り通している。彼らだって、決して物資に余剰があるわけではないんだ」
「そんな…」
「私は一刻も早くこの戦争を一先ず落ち着かせるための最短距離を考えるつもりだ。だからいいね?軍を抜けるんだ」
ヴァルが放った「肉欲が糧」という言葉が、呪詛のように背中に突き刺さっている。肺が焼けるほど冷たい夜気を吸い込み、ぬかるんだ地面を蹴る。彼女が向かう先はただ一つ、この狂った世界で唯一の「正解」を体現しているはずの存在――兄と慕っている、ロイドの詰所だった。
ロイドの詰所の窓からは、心細いほど小さな、だが揺るぎないロウソクの灯りが漏れていた。
「兄さん!! 起きているのでしょう!? 開けて、兄さん!!」
夜更けという時間も、上官に対する礼節も、今のレインの頭からは消え失せていた。狂ったようにドアを叩く。その拳はすでに赤く腫れ上がっている。
「どうしたんだ!? 何があった!?」
扉が勢いよく開き、驚愕の表情を浮かべたロイドが姿を現す。
レインの顔を見た瞬間、彼の言葉が凍りついた。美しい顔を歪めて泣きじゃくる妹の姿。その瞳に宿る、この世の終わりを見たかのような焦燥。ロイドは直感した。彼女の魂に、取り返しのつかない「亀裂」が入ったことを。
「私は……私は最前線がどういう場所か、何も知らなかったの……!! わぁぁぁ!!」
レインはその場に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣いた。
その背後で、追いついたティアが、上官に対してとんでもない失態を犯したかのように、震える指先で必死の敬礼を捧げている。
「……すまないが、ティア。説明してもらえるか?」
レインを優しく立ち上がらせながら、ロイドは低く、静かな声でティアに命じる。ティアは言葉を詰まらせながらも、民家で見た光景、ヴァルが告げた非情な現実、そしてレインを追い詰めた絶望の一部始終を、絞り出すように説明した。
ロイドは黙ってそれを聞き終えると、俯いたままのレインの肩に、そっと手を置いた。
「そうか……。レインは知ってしまったんだね。戦場で人が見せる、最も醜い部分を……」
「人が、獣だということを初めて知りました……!! だからこそ、規律が……誇りが必要なのだと、私は……!!」
レインが顔を上げ、すがるように兄を見つめる。だが、ロイドの返答は、彼女が求めていた「救い」ではなかった。
「それは違う……。狼も熊も、こんなことはしない。目的もなく同族を貪り、効率を求めて地獄の炎をさらに大きくするのは人だけだ。獣の方がよほど理性的だよ。……人の業が、深すぎるんだ」
ロイドの瞳には、深い諦念と、レインへの悲痛な慈しみが混在していた。
「レイン、これに気づいたのであれば、今すぐ軍を抜けるんだ。幸い、まだ大きな会戦前だ。今なら敵前逃亡とはならない。私が一筆書けば、病気療養の名目で除隊できる」
「いや……そんなこと……できない!!」
「レインっ!!」
ロイドが初めて声を荒らげた。それは、妹をこの「腐敗」から物理的に引き剥がそうとする、兄としての断腸の叫びだった。しかし、レインは首を激しく横に振る。
「だって……それで軍を抜けて、銃後であなたを待つ家庭を作っても……。あなたが戦場に赴き、帰還する度に……。あなたが、あんな地獄の炎に焼かれていることを、私は嫌でもわかってしまうもの!! 兄さんのその手が、その心が、何に触れてきたのかを知りながら、私は笑って見送り、出迎えることなんて耐えられない!!」
彼女の叫びは、ロイドの胸を貫いた。
兄が守り続けてきた「綺麗なマント」の裏側が血に塗れていることを知ってしまった今、彼女にとって日常という名の平穏は、すでに失われた楽園だった。
ロイドは深い溜息をつき、ロウソクの火を見つめた。
「全ての軍が、全ての戦争がそうではないよ……。今回の出兵が、あまりにもデタラメなんだ。皮肉なことに、敵であるアルブール王国の騎士団、およびその戦略予備軍は、人の尊厳が守られている。我が軍が侵攻した先の村の民は、誰もが飢えておらず、冬を越える食料の備蓄もそのまま手付かずなんだ……」
「……それは、この南の地が裕福だからなのではないでしょうか……? 恵まれているから、高潔でいられるのでは……?」
レインが疑念を口にする。だがロイドは静かに首を振った。
「いや、それは違う。アルブール王国は高い精神主義と騎士道を重んじることで、戦場の中でも理性と軍紀を守り通している。彼らだって、決して物資に余剰があるわけではない。ただ、彼らには『腹を空かせても、奪わない』という共通の意志があるんだ」
「そんな……。同じ人間なのに、なぜ私たちは……」
「私は、一刻も早くこの戦争を一先ず落ち着かせるための、最短距離を考えるつもりだ。これ以上、この軍の腐敗を広げないために。……だから、いいか? レイン。お前は軍を抜けるんだ。この地獄に染まる前に」
ロイドの言葉は、レインの心に重い鉛のように沈んでいった。
目の前にいる兄は、地獄の中にいながら、なお「最短距離」という名の光を探している。その光の影には、誰かの犠牲が潜んでいるのではないか――。
レインは兄の手を振り切った。その瞳からは涙が消え、代わりに、これまでになかった「暗い覚悟」が、静かに宿り始めていた。
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