第七十五章:最前線
七十五章です。
グロードル軍最前線基地、ガラゲ村。
かつては麦の香りが漂い、羊の鳴き声がのどかに響いていたであろうその村は、今や巨大な軍事機械の「歯車」へと作り変えられていた。軍靴に踏み固められた土は生命の息吹を失い、家々の壁には乾燥した泥と、正体不明の黒ずんだ汚れがこびりついている。
中隊長レイン・フィールドは、側近のティア、そして巨躯の随伴兵ヴァル・ヌルを従え、ぬかるんだ路地を見廻りしていた。レインの腰に提げられた、意匠の凝らされたサーベルが、歩くたびにカチ、カチと規則正しい音を立てる。その潔い音だけが、この死んだ村で唯一の「軍人の矜持」を刻んでいるかのようだった。
「……中隊長殿」
背後に控えていたヴァルの野太い声が、夜の重苦しい沈黙を破った。彼は周囲の闇を警戒するように、鋭い眼光を四方に走らせている。その手は常に、腰の巨大な戦斧の柄に置かれていた。
「ティアと女性二人きりでの夜の見廻りはお控えください。中隊長殿に万が一のことがあっては、この戦線の維持に支障をきたします」
レインは足を止めず、わずかに肩をすくめて振り返った。その瞳には、まだ戦場の真実を知らぬ者の、気高い光が宿っている。
「ヴァルは心配性ね。敵の間者が、この厳重な警戒網を潜り抜けて私を狙っているとでも言うの? 策源地の警備状況を確認するのも中隊長の務めよ」
「いえ……。間者ならば、まだマシかもしれません」
ヴァルの言葉には、鉄を噛み潰したような苦渋が混じっていた。
彼は知っていた。この最前線基地に集っているのは、レインのような誇り高き職業軍人だけではないことを。
『戦略予備軍』。響きこそ良いが、その実態は、前線で魔法の盾となり、矢の雨をその身で受けるための「肉の壁」だ。徴用された農民、食い詰めた小作人、そして牢獄から引きずり出された盗賊。
彼らにとって、帝国への忠誠など、空腹を満たせぬ紙屑に等しい。明日をも知れぬ死地において、彼らの理性を繋ぎ止めていた細い糸は、とうの昔に断ち切れている。ヴァルが恐れているのは、敵の刃ではなく、身内の「飢えた獣」たちの眼差しだった。
「いやあぁぁぁぁ!! やめてください! お願いですっ!!」
鋭い悲鳴が、重い空気の幕を切り裂いた。
レインの身体がびくりと震える。その声は、すぐ近くの、半壊した民家から漏れ聞こえてきた。
「今の声は……!」
レインが駆け寄ろうとした瞬間、家の中から獣のような、下卑た男たちの笑い声が追いかけてきた。
「いいじゃねえか、どうせ明日は死ぬんだ。いい思い出をさせてくれよ」
「おい、こっちを押さえろ! 暴れるんじゃねえ!」
レインが家紋入りの扉を蹴破ろうとしたその時、二つの影が彼女の行手を阻んだ。ティアとヴァルだ。二人は申し合わせたように、堅固な壁となって彼女を遮った。
「あなた達! 何をやっているの!? 下がりなさい! 略奪や暴行は軍規違反よ。民間人が困っていたら助けるのが軍人の義務でしょう!」
レインの声が震える。憤怒と、そして信じ難い現実への拒絶。
ヴァルは動かない。その岩のような大きな手でレインの肩を制し、地獄の底を覗き込むような暗い声で囁いた。
「中隊長殿……。初めてでしたか……。これが『最前線』の真の姿なのです」
「何を言っているの、ヴァル! これは明白な戦争犯罪よ! 我がグロードル帝国の名誉が穢れるわ。すぐに当事者を処断して、綱紀粛正を行わなければ、兵の士気にも関わる!」
「……いいえ」
ヴァルは無機質な計算機のように首を振った。
「彼らの蛮行が表に出ることはありません。あそこにいる女は、記録上『民間人』ではありません。敵地から紛れ込んだ『娼婦』、あるいは『身元の知れぬ売春婦』ということになります。それでおしまいです」
「ふざけないでよ!! 本人が黙っていないわよ! 誰かが見ている、私が今こうして見ているじゃない!」
レインの叫びに呼応するように、家の中から「ゴッ」という鈍い衝撃音が響いた。悲鳴がくぐもった叫びへと変わり、やがて不自然な、粘り気のある静寂が訪れる。
「ですから……!!」
ヴァルがレインの瞳を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、感情を殺した男の冷徹な知性が宿っている。
「死人に口無し……というやつですよ、中隊長殿。この場所では、法を説く者よりも、暴力を持つ者の方が常に『正しい』のです」
「そ、そんな……。彼らは凌辱をしたら、その口を封じるために殺すというの……!?」
レインの視界がぐにゃりと歪んだ。
自分が信じていた「正義」や「騎士道」という土台が、足元から崩れ去っていく。
頭痛がする。吐き気がこみ上げる。最前線とは、敵と戦う高潔な場所ではなく、人間が人間であることをやめるための処理場だったのか。
「レイン様、一度詰所に戻ってお休みになりましょう。ここでは、見えないものを見る必要はありません。我が国の国庫には彼ら一人一人の心を満たせるだけの余裕は無いのです」
ティアが、痛々しいものを見るような眼差しでレインの手を握った。しかし、その手は微かに震えていた。ティアもまた、この光景を「理解」してしまっている自分を嫌悪しているようだった。
「人の命を……。帝国の民を……。何だと思っているの……?」
「人の命の価値が、麦一粒よりも安くなってしまうのが『戦場』なのです。そして――」
ヴァルの声が、一層低くなる。
「――自分の命すら安く見積もってしまわなければ、この地獄には耐えられない。明日、自分が物言わぬ肉塊になることが確定しているのなら、人は今日のうちに獣になる。ここはそんな場所なのです、中隊長殿……。彼らにとって、あの女は『自分たちが明日失う命』の代償に過ぎない」
「ロイド兄さんは……父様は……。こんな、こんな泥濘のような戦場を駆け抜けていたというの……?」
レインの脳裏に、敬愛する兄ロイドの背中が浮かぶ。
彼はいつも凛々しく、完璧だった。けれど、その完璧なマントの裏側には、今、この目の前の家で行われているような「必要悪」という名の汚濁が、べっとりと染み付いていたのだろうか。
(彼らも……知っていたの? 知っていて、私に何も言わず、綺麗なお伽話だけを語っていたの……?)
疑念という名の毒が、レインの心を侵食し始める。
いつの間にか、家の中からの物音は完全に絶えていた。
女が全てを受け入れて絶望の淵に沈んだのか、あるいはヴァルの言う通り、麦一粒の価値もない命として、その火を消されたのか。それを確認する勇気は、今の彼女には無かった。
「あ……あぁ!!」
レインは、自分の内側から何かが決定的に崩壊する音を聞いた。
気高い軍人としての自分が、この汚濁に耐えきれず悲鳴を上げている。
(ごめんなさい!! ごめんなさい!!)
誰に宛てたものかもわからない謝罪を口の中で繰り返し、彼女は路地を走り去っていった。逃げ場のない、この最前線という名の檻から逃げ出すように。
「ティア! 中隊長殿をお願いします!! 決して一人にするな!!」
ヴァルの鋭い号令が響く。
「わかりました!!」
ティアがスカートを翻し、夜の帳の中へと消えていくレインの背を追った。
残されたヴァル・ヌルは、一人、惨劇の行われた民家の前で立ち尽くした。
彼は民家の中から漏れる、事切れたような静寂を、ただ冷淡に受け止めている。
だが、その静寂は完全な無音ではない。厚い扉の向こう側からは、獣のような荒い吐息と、湿った音が漏れ聞こえていた。
「なんでも……なんでもするから……っ。お願い、命だけは、助けて……」
何度も、何度も、壊れた楽器のように喘ぎ声とともに繰り返される懇願。
それはもはや言葉としての体を成しておらず、ただ生への執着だけが凝縮された震えとなって、ヴァルの耳の奥深くにへばりつく。その声が消える時が、その命が「地獄」から解放された時であることを、彼は知っていた。
「……中隊長殿。あなたはまだ、ご存知ない。この地獄で彼らが生き抜くための糧は、高潔な志などではない。泥にまみれた肉欲、ただそれだけなのです」
ヴァルは、この地獄を何度も観測してきた者としての確信を呟き、夜の闇へと沈んでいった。
背後の民家から聞こえていた懇願の声が、ふっと途切れる。
そこにはまだ、雨の気配すらなかった。ただ、人間の腐敗した欲望の臭いと、断ち切られた絶望の残響だけが、濃厚に漂っていた。
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