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ンードラロギア  作者: ああああ


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第七十四章:虚妄の兵站

七十四章です。

レインが去った後の庭園は、急激に熱を失い、静寂が支配した。

ロイドは、ベンチの横に置かれた軍帽を手に取り、それを乱暴に被った。

彼の頭脳は、すでに休息を拒絶し、次の戦場のシミュレーションを開始している。


「東部第二方面軍の兵站線は現在、約二百キロメートルに及んでいる。王国のゲリラ部隊が、この供給線を断つのは時間の問題だ。一方で、参謀本部はさらに五十キロ先にある重要拠点『サン・ガレ城』の攻略を命じている」


彼はポケットから、使い古された地図を取り出した。

地図上には、彼が書き込んだ無数の赤い線と青い印が躍っている。

一見すると、帝国の圧倒的な進撃を示しているように見えるが、ロイドの目には、それが巨大な蟻地獄の渦に見えていた。


「王国のサン・ガレ公爵。奴は、典型的な貴族だ。民衆への被害を顧みず、わざと城門を開け、我々を市街戦に誘い込むつもりだろうな…」


「戦争をする指揮官としては有能だが、領主としては最低だ。」


市街戦。それは帝国の掲げる「無傷での占領」という方針とは最も相性の悪い戦いだ。

狭い路地、民家に潜む伏兵、そして頭上から降り注ぐ熱油と矢。

そこでは、ロイドが得意とする広域機動戦術は無効化される。


「その配下の騎士団長・ディートリヒはそうではない。……彼は、か?」

「……もし俺がディートリヒなら、あえて降伏を装い、城内で自爆を試みるな。帝国軍の主力をおびき寄せる」


思考が深淵へと沈んでいく。

彼は、敵の立場になりきり、自分という「英雄」をどう殺すかを考え続けていた。

それが、彼がこれまで生き残ってきた唯一の秘訣であった。


「中佐、こちらにいらしたのですか」


静寂を切り裂くような溌剌とした声に、ロイドの思考の糸が断ち切られた。

振り返ると、そこには彼の副官である若き士官、ハンスが立っていた。磨き上げられた軍靴の音を響かせ、非の打ち所のない敬礼を捧げるその瞳には、隠しようのない心酔の色が宿っている。


ハンスだけではない。今や帝国軍の若手将校たちの間で、ロイド・フィールドという名は一種の宗教に等しい輝きを放っていた。彼らはロイドが吐き出す深い溜息を「勝利への深い思索」と呼び、彼が死を恐れて顔を青くすれば「戦況を冷静に見据える鉄の意志」と称える。

ロイドは、自分という実像から乖離し、肥大化していく「英雄」という名の偶像に、吐き気を覚えていた。


「ハンスか。何かあったか」


「はっ、参謀本部より至急の追加伝令が。……ロイド中佐、おめでとうございます!」


ハンスの声が一段と高まる。その表情は、まるで自分のことのように喜びに満ちていた。


「次なるサン・ガレ城攻略にあたり、ロイド中佐には『特殊任務大隊』の指揮権を一部委譲するとの通達です。……つまり、レイン・フィールド中隊長率いる近衛騎兵部隊も、本攻略作戦において中佐の直属となります!」


その瞬間、ロイドの心臓が、肋骨を突き破らんばかりに激しく跳ねた。

それは歓喜ではない。冷たい指先が背筋を這い上がるような、最悪の予感に対する戦慄だった。


「……指揮権の委譲だと? なぜ、このタイミングでそんな真似を」


「参謀本部長閣下のお考えです。『帝国の若き双星、英雄同士が手を取り合えば、難攻不落のサン・ガレ城など半日で陥落する。その輝かしい武功こそ、冬を控えた国民への最高の下賜品となるだろう』と!」


ロイドは、思わず天を仰いで乾いた笑いを漏らしそうになった。

参謀本部長――あの、戦場をチェス盤としか思っていない狸親父の顔が脳裏に浮かぶ。

奴は知っているのだ。ロイドとレインが幼馴染であり、許嫁であることも。そしてロイドが、自分自身のことよりもレインの安全を優先する甘さを秘めていることも。


愛する者を守りたいという私情すら、軍の士気を高揚させるための「戦術資源」として磨き上げ、戦場に放り込む。その徹底した非人間的な計算高さに、ロイドの胃の奥から酸っぱいものがこみ上げた。


「……わかった。ハンス、全部隊に伝達しろ。今夜から、兵站の防衛を現在の倍に増員する。そして、サン・ガレ城への進軍は……予定より一日遅らせる」


「は? ……失礼ながら中佐、それでは参謀本部の引いたスケジュールに遅滞が生じますが……」


ハンスが怪訝そうに眉をひそめる。帝国のドクトリンにおいて、電撃戦の停滞は重罪にも等しい。


「『偵察により、敵の埋伏を察知した』とでも報告書に書いておけ。……俺の言う通りにしろ。今の我々に必要なのは、速度ではなく確実性だ」


ロイドは地図を睨みつけながら、さらに矢継ぎ早に指示を飛ばした。


「それから――今この拠点に捕らえている捕虜、および収容中の民間人を、今すぐ全て解放するんだ」


「……なっ!?」


ハンスの声が裏返った。無理もない。捕虜は貴重な情報源であり、占領地での労働力だ。それを無償で放免するなど、軍紀に照らせば狂気の沙汰である。


「ロイド様、それは……! 一部権限を移譲されたとはいえ、中佐殿の独断で行える範囲を逸脱しております。後でどのような咎めを受けるか……!」


「いいか、ハンス。これはサン・ガレ城を無傷で攻略するために必要な『詭道』だ。そう参謀本部に伝達しておけば、あの狸どもは勝手に深読みして納得する」


ロイドは冷徹な指揮官の仮面を被り、副官の動揺を力でねじ伏せた。

だが、その内側で彼が考えていたのは、もっと泥臭く、もっと悲痛な現実だった。


「なぁハンス……一つ聞きたい。まさか帝国は、王国がこの冬を越すために溜め込んでいた食料庫を強奪することをアテにして、敢えてこの時期に開戦を強行したのではないか?」


「え……? まさか、そんな……我が帝国軍の兵站部は世界一の精度を誇ると……」


「兵站部の動きが不自然に遅い。いや、『遅らせている』んだ。最初から現地調達――すなわち略奪を前提にしている証拠だ。……そうであれば、我々にとって捕虜に食わせる麦の一粒たりとも惜しいはずだ。違うか?」


ハンスは言葉を失い、青ざめた顔で立ち尽くした。

ロイドは吐き捨てるように言葉を続ける。


「尚且つ、いずれ捕虜が脱走することもある。その時に我軍が現地調達に頼っていることが前提の戦略だということが漏れてみろ…今ならば我々にも余裕があるんだ」


誇大に『盛った』話ではあるが、決して嘘ではない話であることにロイドは思わず苦笑いをする。


「解放した捕虜たちを、アルブール王国の防衛線へ突き返せ。空腹の捕虜が数千人単位で雪崩れ込めば、王国の兵站には甚大な負荷がかかる。さらに、解放する民間人の中に、アルブール出身の訛りの無い工作員を紛れ込ませておけ」


「……工作員、ですか」


「ああ。『帝国軍は抵抗しない者には慈悲深い。だが、王国騎士団がサン・ガレ城に立て籠もり、無益な抵抗を続けるならば、城下町は地獄と化すだろう』……そう、避難民たちの間で噂を流させるんだ。騎士団に対して、早期の降伏、あるいは城外への打って出を促す機運を高めろ」


ハンスの瞳に、再び鋭い光が戻った。彼はロイドの意図を、自分に都合の良い「高度な情報戦」として解釈し始めたのだ。


「なるほど……市街地戦を回避し、彼らを城の外――野戦へと誘い出すためですね。城壁という盾を自ら捨てさせる……やはりロイド様は天才だ!」


「そうだ。サン・ガレ城さえ陥落させれば、そこを拠点に王国の反攻を逆に関門で受け止められる。……行け、ハンス。一刻を争うぞ」


「はっ! 了解いたしました!」


ハンスは弾かれたように走り去った。その背中を見送りながら、ロイドは深く、深く息を吐き出した。


(天才、か……。笑わせるな)


今の指示に、どれほどの詭弁を混ぜ込んだか、ロイド自身にも判別がつかなかった。

捕虜を解放したのは、彼らを必要以上に苦しめないためだ。

民間人を帰したのは、彼らを帝国の略奪に巻き込まれるのを防ぐためだ。

進軍を遅らせたのは、レインが最前線に立つ時間を、一分一秒でも先延ばしにするためだ。


すべては、人道的な、あまりにも個人的な理由。

それを「軍事的合理性」という厚化粧で隠さなければ、この国では理想一つ守ることすらできない。


七十四章読んでいただきありがとうございます。

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