第六十七章:蜂蜜で固めた絆
六十七章です。
不夜城のVIPルーム。アルトとラッシュが部屋に戻った時、そこにはまだ、張り詰めたような緊張感が漂っていた。
「――ですから、その物流ルートの確保は、市民の生活水準に直結するのです。オルダ様、妥協は許されません」
「……ふむ。おまえさんの言う通りだ、プリム…。だが、既存の商会との軋轢はどう処理する?」
仮面の下から響くプリムの声は、鋭く、理知的で、澱みがない。隣に座るオルダと、今後のアンゾールマについて、激しい議論を戦わせていた。
(すごいなぁ……)
アルトは、そのやり取りを少し離れた場所から、感嘆の吐息とともに見つめていた。オルダの話は、アルトにとってはいつも難解なパズルのようで、頭が痛くなる。それを対等に、いや、それ以上に熱心に打ち返しているプリムの姿は、アルトの目には神々しいほどの「尊敬の対象」として映っていた。
「……? どうしたの、アルト君。そんなにじっと見て」
「あ、いや。プリムさんって、本当にかっこいいなと思って」
アルトの屈託のない称賛に、プリムは仮面の下でわずかに頬を赤らめた。
「そんなことないわ…私にできるのはこんなことくらいだもの…」
「おい、アルト。こっちは時間がねぇんだ…悪いが向こうで待っててくれ」
「ごめんなさい、アルト君」
「はーい」
アルトはラッシュとエルミア、りっちゃんが集まっているソファに腰かける。
「そういえば、エルミアさん……じゃなくて、アグリさん」
アルトは、部屋の隅で優雅に佇む『エルミア』に声をかけた。
「……『アグリ』でいいわ。誰かさんと一文字違いの名前の方が、貴方にとっては呼びやすいのでしょうね?」
「アグリ」と名乗る彼女――その正体であるエルミアは、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「いえ! そういうことではないんですが……まだ新しい名前に慣れていなくて」
「ふふ、いいわ。……ところでアルト君。例の『マッサージ』、あれからやったのかしら?」
アルトは一瞬、きょとんとした後、元気に頷いた。
「はい! 帰ったその日の晩にやりました。エルキアも『身体が軽くなった』って喜んでくれましたよ」
「……そう。それは良かったわ」
アグリは、窓の外の夜景に視線を移した。その瞳には、かつてない複雑な色が混ざっている。
「私ね……エルキアさんには、さんざん憎たらしいことを言ったけれど。実はあの人のこと、嫌いじゃない……いえ、好きだなって思ったのよ。私とどこか似ていて、放っておけない感じがして。きっと、良いお友達になれると思うわ」
「えっ……!? そうなんですか?」
アルトは目を輝かせた。自分の大好きなエルキアと、目の前のエルミアが仲良くなれる。これほど嬉しいことはない。
「うん、エルキアもきっと喜ぶよ!」
「ふふ。……『応援しています』って、彼女に伝えておいて。……貴方のことも、ね」
「? ……うん、わかった!」
アルトには、その言葉の真意――『本命』に譲ることにした――ということなど、微塵も分からなかった。
話題は、先ほど起きた「暴漢騒ぎ」に移る。
「そういえば……りっちゃん、凄かったのよ! こんなに可愛い格好なのに、魔法で一瞬で暴漢をやっつけちゃうんだから」
アグリが、アルトの脇に抱えられたウサギのぬいぐるみを指差した。
『ふふん、アグリよ。もっと我を褒め称えよ。我は主様の主命を見事果たしたのだ。……この程度、赤子の手をひねるより容易いことよ』
不死の王の念話が、不遜に響く。アルトは感心しながら、ぬいぐるみの頭を撫でた。
ラッシュはグラスを傾けながらりっちゃんに訊ねる。
「なぁ、りっちゃん。その暴漢っていうのは、どんな奴だったんだ?」
『……ただの麻薬中毒者だな。目が濁っていた。麻薬欲しさに誰かに利用されたか、あるいは単なる暴発か……。真相は泥の中だが、この街の病根は深いぞ、ラッシュ』
「……麻薬、か」
アルトの顔が少し曇る。その様子を見ていたアグリが、話題を変えるように切り出した。
「さっき聞いた通りだけど、明日この国を旅立つの。どこの国に行くかは、今は言えないけれど……落ち着いたら、必ず皆さんに手紙を送るわ」
「うん…手紙が届くの待ってます…また皆で楽しく会えるといいよね」
そう言うとアルトは、吸い込まれるようにプリムを見つめた。彼女がこの街で背負っている孤独が、急に巨大な影のように見えたからだ。
「おい、アルト。どうしたんだよ、急に黙り込んで」
ラッシュが、アルトの肘を小突く。
「……いや。もっと、プリムさんと話がしたいなーって。……そうだ!」
アルトはパッと顔を上げると、まだ難しい顔をして書類を見ていたオルダの元へ駆け寄った。
「オルダ、もう話はいいよね!? ちょっと、プリムさんを借りていくよ!」
「……えっ!? ア、アルト君……?」
「おいおい、アルト! プリムさんは忙しいんだぞ?」
驚くプリムとラッシュを余所に、アルトは強引に彼女の手を掴んだ。
「ちょっと、外に遊びにいこ! オルダ、あとの仕事はテイゲンさんと一緒に手伝ってあげて!」
「……まったく、しょうがねぇ野郎だな」
オルダは呆れ返りながらも、その口元には温かな笑みが浮かんでいた。
「……わかったよ。プリムさん、今夜はもう店じまいだ。アルトに付き合ってやってくれ」
プリムは、仮面の下で大きく目を見開いた。
「……っ。……すぐに、着替えます。少しだけ、待っていてください」
彼女は、弾かれたように奥の部屋へと向かった。
(……いつか、こうして。私を檻から外の世界へ連れて行ってくれる人を、待っていた気がする……)
着替えを終え、仮面を外し、フード付きのマントで顔を隠したプリム。その手を、アルトが迷いなく引いていく。
不夜城の冷たい廊下。けれど、握られた手のひらから伝わるアルトの体温は、眩しいほどの熱を持っていた。
「はい! どうぞ!」
不夜城の香水の香りが漂う空間を抜け、四人と一匹が辿り着いたのは、裏路地の屋台だった。
「これ。熱いから気をつけて!」
アルトが差し出したのは、蜂蜜がたっぷりと注がれた、揚げたての菓子だ。
「アルト……お前これ好きだなぁ。……あ、プリムさん、無理しなくていいですからね? こんな安っぽいもん……」
ラッシュが心配そうに見守る中、プリムはおずおずとその菓子を口にした。
「……ふふ。……甘い。……美味しい。……本当に、脳が溶けてしまいそうです」
フードの奥から、鈴の音のような笑い声が零れる。仮面のない彼女の横顔は、不夜城の秘書官ではなく、ただの年相応な少女のものだった。
「でしょ? これを食べながら話したかったんだ。……僕が、この街に来るまでに会ってきた、たくさんの『友達』の話を」
そこから、アルトの思いつきのような独演会が始まった。
ヤプールの北集落でのエルキア、毒舌だけどかわいいりっちゃん、いつもニコニコなエネアウラ。ヤプールの村の村長、オートン先生、塾の仲間たち。サーガイル王子にアンジュさん、アルブール国王。ラッシュお気に入りのルリちゃん。イーグロ公国の人々や、マーク……『笑顔の家族』の皆のこと。
プリムは、その話を一言も聞き漏らさないように、とても幸せそうな、けれどどこか羨望の混じった眼差しで聞いていた。
「……羨ましい。……本当に、眩しいです、アルト君。君の周りには、そんなにたくさんの光があるのですね。……私には、そんな世界は、一生かかっても手が届かない場所にある気がして……」
アンゾールマの未来を背負い、誰にも本音を言えず、仮面の下で独り泣いていた聖女。彼女にとって、アルトの語る「ただの友達」という絆は、どんな魔法よりも奇跡に近いものだった。
「そんなことないよ、プリムさん」
アルトは、隣に座るプリムの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「そんなの、明日からだってできるよ。……ううん、明日まで待たなくていい。……今日、今この瞬間から、僕たちは友達だ。そうでしょ?」
アルトは、蜂蜜でベタついた小指を差し出した。
「ほら、りっちゃんも、ラッシュも、エルミアさんも。……みんな、君の友達になりたくて、ここにいるんだよ」
「……友達。……私が、君たちの?」
「そうだよ。……プリムさん、ゆびきりしよ?」
アルトが、りっちゃんの手を動かして彼女の指に触れさせる。
「……あ、……はい。……はい……っ!」
小指と小指が絡まる。そこにラッシュの掌が重なり、少し照れくさそうにアグリも手を重ねた。中心には、不死の王の小さな手。
「よし! これで僕たちは、世界一甘い『友達同盟』だ!」
プリムの頬を一筋の涙が伝い、蜂蜜の甘さと混ざり合う。
それは、彼女が「役割」という鎧を脱ぎ捨て、一人の少女として世界と繋がった、初めての瞬間だった。
「あ! あれやろうよ!」
アルトが大きな空き袋を見つけ、土手へと駆け出した。
「プリムさんもきてー!」
「え……? 何をするんですか……?」
「こうするの!」
アルトが袋をソリ代わりにし、一気に土手を滑り降りる。
「きゃああああ!!」
勢い余って転がり、草むらの中で重なり合う二人。
「あはは! プリムさん、草だらけだ!」
アルトは笑いながら、プリムを助け起こした。
「プリムさんがやってること、僕にはできない。みんなのために凄いことをしている。……でもさ、みんなのためじゃない、自分のためにしたいことも必要だよ。そうしないと息がつまるよ。そういうこと、考えたことないの?」
アルトの差し伸べられた手。その笑顔は、あまりに無垢で、あまりに眩しかった。
「……っ。……それは……今は秘密、です」
(…言えない。……なぜかアルト君に私の夢を言うことができない……)
「そっかー! じゃあ、いつか教えてね!」
アルトの横顔を、プリムは静かに見つめていた。
(……この人を、守りたい。……この人が笑っていられる、世界を守りたい)
その決意が、十年の歳月をかけて彼女を「聖女」へと変えていく。
その決意が、彼女を一人、孤独な高みへと押し上げていく。
「あ、アルト君。頬に、蜂蜜がついていますよ」
「え? どこどこ?」
「ふふ、じっとしていてください。……はい、取れました」
プリムの指が、一瞬だけアルトの頬に触れた。
(温かい……)
そう思ったのも束の間…。
「あむっ!」
アルトはプリムの指ごと蜂蜜を頬張る。
「きゃっ!」
「ん…あ! ありがと!」
「……いいえ」
(ああ、やっぱり……この人は、傷だらけの私の手を見ても怖がらない。私をただの一人の人間として扱ってくれる……。それが、何よりも嬉しい)
『お嫁さんになりたい』
いつか、この人に言える日が来るだろうか。
世界の理を歪めてでも叶えたい「わがまま」が、彼女の胸の奥底に、小さく、けれど消えない火種として宿った夜だった。
六十七章読んでいただきありがとうございます。
プリムにとって、今までの人生で一番甘いものになった瞬間を描きました。




