第五十九章:聖女は少年の肩を揉み、恋敵の背中を押す
五十九章です。
ルートシア新市街の北端、古びた長屋がひしめく一角に、ラッシュは肩で息をしながら飛び込んだ。背後からは、もはや物理的な「圧」と化した殺気を放つエルキアと、それを楽しげに観察するエネアウラが迫っている。
「くそっ、どの部屋だ!? 長屋が多すぎてわからねぇ!」
ラッシュは共同洗い場で洗濯物を畳んでいた老婆に掴みかからんばかりの勢いで問いかけた。
「あ、あの! すみません、お婆さん! ここに『エルミア』って女性が住んでるはずなんですけど、場所わかりますか!?」
老婆は耳に手を当て、怪訝そうに目を細める。
「エルミア……? いやぁ、そんな名前の娘はこの長屋にはおらんよぉ。似た名前なら、洗濯屋のおヨネさんくらいかねぇ……」
「あーーーっ! 源氏名(プロの名前)だったわ!!」
ラッシュは自分の側頭部を拳で叩いた。
(しまった、本名を聞いてなかった! エルキアさんの魔力がもう臨界点突破してるってのに、このタイムロスは致命傷だぞ!)
その時だった。夕闇に包まれ始めた長屋の二階から、風に乗って「それ」が聞こえてきた。
「――あっ、……そこ、くすぐったいですよ、エルミアさん……っ!」
聞き覚えのある、アルトの少し上擦った、艶っぽい悲鳴。
ラッシュの心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
「ふふ、ようやくコツがわかってきたわ……こうねっ! ……あぁ、アルト君、意外と大きくて逞しいのねっ! あ……固いっ! ゴリゴリいっちゃってるわよ……!?」
「…………っ!!」
ラッシュの全身から血の気が引いた。今の声、今のフレーズ、今のトーン。
どこをどう切り取っても、健全な「用心棒の業務連絡」には聞こえない。
隣を見ると、エルキアが完全に「無」の表情で固まっていた。銀髪の隙間から見える瞳は光を失い、口元だけが機械のように小さく動いている。
「殺ス……殺ス……殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス……ミン…ナ……殺シテ……ワタシモ……死ヌ……」
「ひぃぃぃっ!? 最悪だ、最恐の暗殺者が覚醒しちまった!!」
ラッシュは恐怖で震えながらも、全力でその声の主とともに――階段の上の部屋へと駆け出した。
「アルトぉぉぉぉ!!! 逃げろ!! いや、逃げきれねぇ!! 最恐の暗殺者がそっちに行くぞ!! 全力でエルミアさんを……いや、自分自身を守れぇぇぇ!!」
バァァンッ!!
ラッシュとエルキアが、ほぼ同時にエルミアの部屋の扉を(鍵がかかっていなかったのを幸いに)蹴破るようにして踏み込んだ。
そこで目にした光景は、ラッシュの想像のさらに上を行く「地獄」だった。
安物のベッドの上。うつ伏せになり、顔をシーツに埋めているアルト。
そして、そのアルトの腰のあたりに「またがる」ような姿勢で、汗を光らせて微笑むエルミア。
(――終わった。これ、アルトの命日だ。ルートシアが地図から消えるレベルの惨劇が始まる……!)
ラッシュは、エルキアから放たれるであろう極大消滅魔術の直撃を覚悟し、ぎゅっと目を閉じた。
しかし、数秒経っても爆発音は聞こえない。
代わりに聞こえてきたのは、「ドサッ」という、糸の切れた人形が倒れるような鈍い音だった。
「ん……? あれ、エルキアさん!?」
恐る恐る目を開けると、そこには白目を剥いて、あるいは絶望しきった顔で床に突っ伏しているエルキアの姿があった。
あまりにも強烈な「見たくない現実」を脳が拒絶し、ヒューズが飛ぶように自らの意識を強制遮断したのだ。
「……アルト、てんめぇぇぇ……! お前、お前なぁ!!」
ラッシュが、絶叫する。
「いや、ラッシュ、これには事情が! 僕も流石にまずいと思ったんだけど、エルミアさんが……!」
「なんなのよ、ラッシュ君! 大きな音を出して他人の部屋に踏み込んで。……ただのマッサージくらいで大袈裟ねぇ。服、着てるでしょ?」
エルミアは、乱れた髪を指でかき上げながら、アルトの背中からゆったりと降りた。その表情には、すべてを計算し尽くしたような、悪魔的な余裕の笑みが浮かんでいる。
「声が丸聞こえなこんなところで、いやらしいことなんてしないわよ。……ねぇ、アルト君?」
「う、うぅ……マッサージ、本当に痛かったんだ……」
アルトはシーツに顔を伏せたまま、震える声で絞り出した。
「……その弁明は、殺意が振り切れてここに転がっていらっしゃる方を、なんとかしてからにしましょうか」
背後から、エネアウラが冷ややかな、けれどどこか楽しげな声で告げる。
「エネアウラさん、お願いだ、エルキアさんの介抱を......! この人、このまま放っておくと精神世界から帰ってこられなくなる!」
「はいはい、そしたらラッシュ君もエルキアを持ち上げるの手伝って…変なところ触ったら『殺ス』わよ…」
冗談ではない冷たい殺気を込めたエネアウラの声に、ラッシュの心臓は止まりかける。
「…でも、これと似たような展開、以前にもあったような気がするな……。その時は、確かもう少し平和だった気がするけれど」
エネアウラによって、エルミアの質素なベッドへと「お姫様抱っこ」で運び込まれたエルキア。その横で、アルトは針のむしろに座るような心地で、消え入りそうな命の灯火を必死に守っていた。
エルミアの部屋に5人は窮屈過ぎるので、ラッシュは外で待つこととなり、エルミアはハーブティーを淹れるために炊事場で湯を沸かしている。
数分の沈黙の後。エルキアの睫毛が震え、記憶の微睡みから意識が浮上する。
……目を開けた瞬間、飛び込んできたのは天井の染みと、慈愛に満ちたエネアウラの笑顔だった。
覚醒と同時にダムが決壊した。
「エネアウラぁっ!!世界が!アルトがぁ!また私を残酷に傷つけるのよぉっ!!」
エルキアは人目も憚らず、エネアウラの胸に顔を埋めて子供のように咽び泣く。最強の魔導師としての威厳はどこへやら、今の彼女はただの『恋に破れた(と思い込んでいる)不器用すぎる乙女』だった。
「あぁ、よしよし…。とても怖かったわね。でももう大丈夫…あっ、エルキア…。ここは他人様のお部屋だから、とりあえず落ち着きましょ」
エネアウラは、赤子をあやすようにエルキアの背を撫でる。そしてエネアウラはエルキアの抱擁に、指先に自分を求める熱が込められていることに気が付く。この流れは止めないといけない。アルトとエルミアの存在を完全に忘れているようだった。エネアウラはこれ以上の痴態を見せないように諭す。
「……!!」
アルトはイルファーンの嵐の夜を思い出す…鼓動のように甦る、舌に感じる幻痛。アルトの世界を真っ暗にしていった。
「まったく……とんでもない用心棒様ね。部屋に入るなり、勝手にショックを受けて気を失うなんて」
炊事場から戻ったエルミアが、淹れたてのハーブティーをカップに注ぎながら、容赦のない毒を吐く。その声に、エルキアはハッと我に返り、涙で濡れた瞳に鋭い敵意を宿らせた。
「こちら、エルミアさんよ。さっきはアルト君をマッサージしていただけだったわ」
エネアウラはやさしくエルキアに解説する。
「……貴女、何をしたの。アルトにあんな……あんな、ふ、不潔な……!」
「不潔?」
いつもなら笑って受け流すはずのエルミアだったが、奴隷として泥を舐めて生きてきた彼女にとっての反射的な怒り以上に、『不潔』という切り捨て方が二人の停滞を生んでいると感じ、無性に腹立たしくなって、思わず噛みつく。
「あーら、マッサージのどこが不潔なのよ。アルト君は『誰かさん』のためにいつも頑張ってて、身体はバッキバキ、心も張り詰めっぱなし。……少しは労わってあげたらどうなの?」
エルミアは、ふぅ、とため息をして一呼吸する。
「アルト君!ベッドに横になりなさい」
「…!!え…でも今はエルキアが…」
パチンと我に返ってオロオロするアルト。
「ベッド!」
エルミアが犬を犬小屋に入れるように指さす。
「はい!」
軍用犬のように素早く、アルトがエルキアの隣にうつ伏せで並ぶ。
うつ伏せでアルトがエルキアの隣で横になる。
「ひゃっ!?」
不意に横たわったアルトの体温を感じ、エルキアが跳ね上がった。
「さぁ、エルキアさん。アルト君をマッサージしてあげなさいな。…肩でいいわよ」
「え…でも…」
「あ…じゃあ私がマッサージしても良いの?」
「ダメぇっ!!」
エルキアはブンブンと猛烈な勢いで首を振り、恐る恐るアルトの肩に指を伸ばした。その手つきは、まるで壊れ物を扱うかのように、あるいは爆発物を解除するかのように慎重だった。
「アルト…私なんかがマッサージしてもいいの…?」
「あ……エルキア、その触り方は……くすぐったい、ですっ!」
「フェザータッチはだめでしょ!ちゃんと筋肉のコリをほぐすの!」
エルミアは呆れたように腕を組んだ。
(何よこのポンコツエルフ!アルト君にとっての本命なのに…そんな腰が引けてたら、コロッと誰かに取られちゃうわよ!?)
「こ、こう……かしら?」
エルキアが意を決して、ぐっと指に力を込める。
「あ……。……気持ちいいよ、エルキア」
「あぁ……き、気持ちいいのね……!? アルト……。よかったわ、くふふ……」
アルトの素直な反応に、エルキアの頬がみるみる林檎のように赤らんでいく。その様子を、背後から顔を紅潮させて見つめ、熱い吐息を漏らすエネアウラ。
(……え。このエネアウラって人も、なんだかよく分からないわ……。変な性癖の集まりなの?)
エルミアの冷ややかな視線が、二人の異常な熱気に注がれる。
しばらくして、エルミアが冷徹に告げた。
「はい、交代」
「「えっ?」」
「アルト君。日頃の感謝のお返しとして、今度は貴方がエルキアさんにマッサージしてあげなさい」
「はい!エルキア…横になって…」
「え……は、はい。お、お願いします……」
トクン、とエルキアの胸が高鳴る。いつもは教える立場である自分が、今度はアルトの手を受け入れる。立場が逆転したシチュエーションに、彼女の思考は再びオーバーヒート寸前だった。
「ど…どうかな…?エルキア?」
「あっ……。……いいわっ。そこ、すごく……いい……」
頬を赤らめてしまうエルキア。
エルキアの声が甘く漏れ、彼女は恥ずかしさのあまり枕に顔を埋めた。
それを見たエネアウラが、ついに「ジュルッ」と危ない音を立てて涎を零しそうになる。
(なんなの、このよく分からない人間関係は!! 地獄よりカオスじゃない!)
エルミアの頭痛は加速するばかりだったが、彼女はこの「純粋すぎる者たち」の触れ合いに、どこか救われている自分にも気づいていた。
「いい? こうやってたまにはマッサージし合うのよ。無言でするんじゃなくて、お互いに話題を振ってね。……いいわね、今晩またやるのよ! 感覚が空くとできなくなっちゃうんだから!」
「「「エルミアさん、ありがとう!!」」」
(エネアウラさんまで!? 何に感謝してるのよ!)
狭い部屋の中に、感謝と、情熱と、少しの涎が入り混じる。
外で待つラッシュの孤独など、もはや誰も覚えていなかった。
五十九章読んでいただきありがとうございます。




