第五十四章:潜入捜査
五十四章です。
ルートシア旧市街、かつて「吹き溜まり」と呼ばれた路地裏。
セイ・インシュラは、ボロボロのコートの襟を立て、鋭い眼光で『笑顔の家族』が占拠する窓を見つめていた。
「ここはタイゼル組の傘下の中でも、法外な取り立てを行っていたアンドリュー一家の根城だったはず……」
セイの記憶が確かならば、壁には血の気の多い連中による暴力的なスラングが殴り書きされていたはずだ。しかし、眼前に広がる光景にその面影は微塵もない。
『笑顔の家族』と書かれた、やけに丸っこいフォントの看板の横には、色とりどりの花や蝶が描かれ、まるで幼児の保育施設のようだった。あれほど散乱していた生ゴミや吸い殻一つ落ちていない路地を、夜風が虚しく吹き抜ける。
「……クソっ、異質だ。刑事の嗅覚が、あのアジトから『悪の臭い』を1ミリも感知できねぇ……。漂ってくるのは、焼き立てのパンと、柔軟剤の香りだけだ。こいつは長丁場になるかもしれないな……」
セイは手持ち無沙汰を紛らわせるようにタバコを取り出し、火を付ける。紫煙が夜の闇に溶け込もうとした、その時だった。
背後からスッと、あまりに気配のない影が差した。
「こんにちは! だんだん寒くなってきましたね。――携帯灰皿はお持ちですか?」
「うおわぁっ!?」
心臓が口から飛び出しそうになりながら振り返ると、そこには屈託のない笑顔を浮かべた『お人好し少年』アルトが立っていた。月の光を背負ったその姿には、殺気も敵意も、それどころか「隠し事」の気配すら皆無だった。
「あ……ど、ども。……持っていない、です」
「ポイ捨てはダメですよ? この周りは僕たちギャングが掃除して綺麗にしたから、汚さないでくださいね。こっちにタバコ吸えるスペースがあるので、こちらで吸ってください。ちなみに今は……みんな健康に目覚めちゃって、誰も吸わなくなりましたけど」
(なっ……!? 職務質問もなしに、中に潜入できるのか……!)
セイは内心の動揺を抑え込み、潜入捜査官の顔を作った。
「……ああ、それじゃあ中で吸わせてもらうよ」
「いいですよ。僕はアルトです。ギャングをやっています。おじさんの名前は? 何をやっている人なんですか?」
「えーと……セイ……です。……おまわりさんで、この辺をパトロールしてまーす……あはは」
咄嗟に出た、あまりに直球すぎる嘘。だが、アルトの反応はセイの予想を斜め上に飛び越えた。
「警察官の方なんですか!? お疲れ様です! 僕たちの安全を守ってくれて、本当にありがとうございます!」
アルトは疑うどころか、尊敬の眼差しでセイの両手をがっしりと握りしめた。その手の平の温かさと、邪気のない瞳に、セイの刑事としての防壁がガラガラと音を立てて崩れていく。
「よかったら、中に入って僕たち『ギャング』の活動を見ていってくださいよ!」
……気がつけば、セイはアジトの長テーブルの特等席に座らされていた。
目の前には、拳骨ほどもある山盛りの「マーク特製メンチカツ」と、湯気が立ち上る炊きたての米。
「……うめぇ。なんだこれ、肉汁が……ホロホロじゃねぇか……」
隣では、かつて泣く子も黙る凶悪ギャングだったアンドリューたちが、エプロン姿で皿を運んでいる。
「あ、刑事さん。そのソース、自家製の香草が入っててさらに『飛ぶ』ぜ! 遠慮すんな、おかわりはあるからな!」
アルトはニコニコしながら、絶妙なタイミングでお茶を注いで回っている。殺伐とした裏社会の抗争を追ってきたセイにとって、ここはあまりに、あまりに「聖域」すぎた。
「……ああ。……警察官になって、本当によかったぁぁぁぁぁぁ!!」
空っぽの皿を前に、セイは感涙にむせんだ。回収する場所を完全に間違えたメタセリフが、清潔感あふれる食堂に響き渡る。
「今はまだ食材を購入していますが、これから裏庭に種籾や芋を植えたりして、自分たちで育てて収穫するつもりなんです」
アルトが夢を語るように言うと、元ギャングの一人が力強く頷いた。
「自分たちが育てた野菜を、孤児院のガキ共が食べて笑顔になってくれたら……それこそギャング冥利に尽きるよな、兄貴!」
凄まじいギャップ。
いつの間にか、セイの心の中では「法を守る警察」よりも「飯が美味くて夢がある笑顔の家族」の方が、よっぽど尊い存在になり始めていた。
「それじゃあ皆さん、ごちそう様でしたぁ……。夜道とか、本当に気をつけてくださいね……」
地下倉庫の仮設対策本部。ルピナスとマイケルの怒号が響いた。
「はぁぁぁ!? 路上喫煙を注意された挙句、身分を明かしてアジトでメンチカツをご馳走になったぁ!?」
ルピナスは呆れ果て、こめかみを押さえた。その横で、マイケルが腰をくねらせながら机を叩く。
「セイ! あんた、この仕事を何だと思っているのよ!? 正義を掲げてこの仕事をしてるんでしょ!? 誇りはないの!? 国家公務員の風上にも置けないわよぉ!!」
マイケルのヒステリーに対し、セイは脂ぎった口元を拭い、遠い目で呟いた。
「……マイケル。正義なんてのはな、胸に秘めてるぐらいでちょうどいいんだ」
「「そのセリフ、使うところ間違ってるわよ!!!」」
ルピナスとマイケルの怒涛の総ツッコミが炸裂する。
その様子を煙管を燻らせながら眺めていたパク・エイティが、重々しく腰を上げた。
「やれやれ……。セイ、お前さんは少し『お人好し』に当てられすぎたようだな。今度の内偵はワシにまかしてくれ、やつらの真の狙いを掴んでみせる…ってことで、次章、行ってみよー!」
「それやりたかっただけでしょ!」
マイケルの絶叫が、地下倉庫に虚しく響いた。
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