第五十三章:負のマナの影
五十三章です。
静寂が庭園を支配していた。
先ほどまでの怒号と地鳴りのような衝撃波が嘘のように、月光だけが粉々に砕け散った門の残骸を照らしている。中央には、息を荒らげることもなく静かに立つ少年アルトと、その足元で糸が切れた人形のように伏したカイン。
見た目には、アルトの完全勝利。それも、一つの傷も負わずに相手を眠らせた、圧倒的なまでの力量差による幕引きだった。
だが、その場にいた強者たちの見解は異なっていた。
「……ご覧になりましたか、オルダ様」
エネアウラが、震える指先を隠すように胸元で組み、オルダに囁いた。
彼女の眼は捉えていた。決着の直前、追い詰められたカインの体内から溢れ出した、どす黒く禍々しい力の奔流を。それは「魔力」と呼ぶにはあまりに濁り、呪いに近い熱量を持っていた。アルトはそれを真っ向から受け止め、自らの清浄なマナで相殺したのだ。
「ああ…。アルトのやつ、無茶をしやがる」
オルダは苦々しく吐き捨てたが、その瞳にはアルトへの誇りと、それ以上の危惧が混じっていた。
(……私ではなく、エルキア様がここにいれば…。あの禍々しき力の正体を見抜けたはずなのに)
エネアウラは、己の無力さに唇を噛んだ。
応接室に戻った一行を待っていたのは、重苦しい沈黙だった。
タイゼルは、カインが負けたという事実よりも、アルトという少年の底知れなさに思考を巡らせていた。
「タイゼル。先ほどの話、続きといこうじゃないか」
オルダが、ソファに深く腰掛けながら切り出した。
「同盟の証として、テイゲン……そしてあのカイン。二人を、俺たちが預かりたい」
「なっ……何を言う! 我らの命はこのファミリーと共にある、そして次代を担う牙だぞ!」
テイゲンが激昂し、立ち上がる。組の屋台骨を引き抜こうという提案に、当然の反発だった。
しかし、タイゼルは静かに手を挙げ、テイゲンを制した。
「……テイゲンよ。我ら侠客は、時代の波に飲まれ、固執するあまり脆くなっていた。だが、あの少年の拳には、我らが忘れた『仁』の道があった」
老獅子の目は、どこか遠くを見据えていた。
「組内を整理し、筋を通した暁には、お前とカインを『笑顔の家族』へ託そう。それが、この組が真に新時代を歩むための唯一の道だ」
「お頭……っ!」
テイゲンは絶句した。それは、タイゼルがこの新しい「家族」に、組の未来そのものを賭けた瞬間だった。
その時、ソファで横になっていたカインが、肺に泥を詰め込まれたような激しい呼吸と共に飛び起きた。
「……ッ!」
カインの脳裏に、決闘の記憶が濁流となって押し寄せる。
ギャングとして修羅場を潜り、死に物狂いで磨き上げたはずの自分の牙。それが、アルトとい青年にとっては子供の戯れに等しく、ことごとく、柔らかに、残酷なまでに丁寧に受け流されていった。勝負にすらなっていなかったという屈辱。
「……カイン、気がついたか」
テイゲンの声に、カインは拳を震わせ、床を見つめたまま絞り出した。
「……おやじ、アニキ……すまねぇ……。俺が、不甲斐ないばかりに……っ」
「気にするな。相手が悪すぎただけだ。今は、ただ休め」
タイゼルの温かい言葉が、カインの張り詰めた神経を緩ませる。カインは熱に浮かされたように、再び深い眠りへと落ちていった。
こうして、アンドリュー一味の正式な組み抜けと、タイゼル組との不可侵同盟が成立した。旧市街の勢力図が塗り替わった歴史的な夜だった。
拠点に戻ると、留守を預かっていた者たちが、今にも爆発しそうな緊張感でオルダたちを待ち構えていた。
「……オルダ様、どうだったんですか?」
誰かが息を呑んで尋ねる。オルダは不敵に笑い、後ろに控える男の背を叩いた。
「アンドリュー。お前の口から伝えてやれ」
アンドリューは一歩前に出ると、かつての部下たち、そして新しい「家族」の面々を見渡し、晴れやかに叫んだ。
「……全て、上手くいった! 俺たちは晴れて組を抜け、今日から胸を張って『笑顔の家族』の一員だ!」
その瞬間、建物が揺れるほどの歓声が沸き起こった。
「よっしゃぁぁぁ!」
「よかった!!ほんとうによかった!」
「さあ、宴ですよ! 最高の料理と酒を用意致しました!」
マークが、頬を紅潮させて厨房から飛び出してきた。買い込んできた食材、選りすぐりの酒。商人の矜持と、家族としての喜びが混じった気合の入りようだった。
喧騒から少し離れたテラスで、エネアウラはエルキアに事の次第を伝えていた。
「……禍々しい力の奔流ね…」
エルキアの声が鋭くなった。
「ええ。アルト君がそれを一人で相殺してしまわれました。私の目には、そう見えたのです」
「……確証が無いから断言はできないわね。だけど、カインという青年が宿しているのは、単なる才能や魔力ではない可能性があるわ。そして、それを相殺したアルトのマナは……」
そこへ、アルトがふらふらと歩いてきた。
「エネアウラさん、エルキア……。みんな、喜んでくれてよかったね」
「アルト…あなたは一刻も早く休んだ方が良いわ。あなたのマナの消耗は、私の想像を超えています』
エルキアの保護者のような、けれど痛切なまでの心配。アルトは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……なんだか、昔のエルキアに戻ったみたいだね。……心配してくれて、ありがとう」
アルトは力なく笑った。だが、その額には嫌な脂汗が滲み、指先は僅かに震えている。
「……うん、そうだね。今日は、少し早めに休ませてもらうよ」
エルキアはラッシュを捕まえて、アルトを宿まで連れていくよう伝える。
「え…アルトのやつ、どうしたんすか?」
「見た目は傷一つ無いけど、思った以上に消耗しているわ。それもかなり深刻に…りっちゃんも連れていって、夜通し彼の様子を見ててほしいの」
『アルト…いつになく弱っているな…』
「わかりました。おい、アルト。つらいなら肩を貸すぞ」
「ありがとう、ごめんね。ラッシュ、宴の途中なのに…」
「気にするなって、さぁ、宿に戻ろう」
アルト達が去った後で、エルキアはポツリと呟く。
「『負のマナ』…そう定義づけるのが自然ね」
エネアウラはそんなエルキアをジト目で見つめる。
「エルキア~?アルト君をラッシュ君達にまかせちゃうのは間違っていたんじゃないかしら…?」
「はっ!?エネアウラ!?…何を言ってるのかしら?」
「アルト君の消耗したマナを回復するにはエルキアが介抱してあげるのが一番だと思ったんだけどな~?」
ボンッ!とエルキアの顔が一気に紅潮する。
「ダメよ!私はもうアルトの保護者じゃないの!そっ、そういうことはできないわ」
「私じゃ効果が薄いかもしれないけど『そういうこと』してあげようかな~…ほら、一応アルト君、男の子だし」
「ぜ~~~ったいダメよ!そんなことしたら絶交よ!」
「…はいはい、わかりました~」
(アルト君、確実にエルキア様を守れるくらいに強くなってきているのに…これはまだまだお預けのようね、おかわいそうに…)
「そしたらオルダ様に交渉しましょう。今日のタイゼル組に行ったのは、慣れない魔法を行使して疲れちゃったわ。別のランクの高い宿に変えてもらって、大きなお風呂付きのお部屋にしてもらいましょう」
「…そうね、私も昨日は深夜労働だったから当然の権利よね」
二人は昼間のオルダもたじろぐようなとんでもない交渉によって、アンゾールマの高級宿の特別室の宿泊をもぎ取ったのだった。
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