幕間:泥濘の檻の中で
幕間です。ちょっと重い内容です。
意識は、底のない冷たい沼に沈んでいくようだった。
熱い。全身の節々が、まるで巨大な鉄槌で丹念に叩き潰されたように疼き、脈動している。肺に吸い込む空気は鉛のように重く、喉の奥には凝り固まった鉄の味がへばりついて離れない。
視界は白く霞み、耳元では遠く、誰かの呼び声が風の音に混じって聞こえるような気がしたが、今のカインにはそれを拾い上げる力すらなかった。
(……ああ、またか。また、あのクソったれな夢を見なきゃならねぇのか)
微睡の境界線で、カインは逃れられぬ運命を悟り、諦念とともに意識のシャッターを下ろした。引きずり戻されるのは、アンゾールマの華やかな灯火の裏側に捨てられた――あの泥を啜り、絶望を噛み締めていた日々の記憶。
それは、カインという個人が生まれるずっと前から、この街に蔓延していた病理だった。
カインには、五つ離れた姉と双子の姉、そして二人の弟がいた。
アンゾールマにおいて、カインのような「ストリートチルドレン」の存在は、公然の秘密として広く知れ渡っていた。この街の泥濘の中に産み落とされた者たちが、そこから這い上がるのは至難の業だ。
一度足を踏み入れれば絡みついて離れない泥。その底で溜まり続ける怨念が、いつか社会を焼き尽くす巨大な破壊のエネルギーへと変わることを、靴に泥一つついたことのない特権階級の者たちは、本能的に理解していた。
この世界は、残酷なまでに「持てる者」と「持たざる者」の二種に大別されている。
新市街で着飾る者たちは言う。「努力すれば報われる」と。だが、その「努力する権利」すら、生まれ持った家庭や運という特権階級だけが享受できる贅沢品であることを彼らは知らない。
彼らが築き上げた白亜の御殿と、それを維持するためのシステムは、泥濘の世界を物理的に、そして精神的に完全に分断していた。
稀に、泥の中から這い上がり、その才能を見出されて御殿へと招かれる者もいる。しかし、それはシステムが「自らの正当性」を証明するために飼い慣らした、愛玩動物に過ぎない。そんな汚れを知らぬ彼らが作る「綺麗事の世界」は、カインに何一つ与えることはできなかった。
行政が発布する案内には、「すべての子供たちに光を」という眩い美辞麗句が踊っていた。表向き、弱者を救うための「福祉」は存在していたのだ。
だが、出生届すら出されず、路地裏の湿ったゴミ溜めで産み落とされたカインたちにとって、それは救いの手などではなく、ただの「残酷な罠」でしかなかった。
助けを求めた瞬間に振り下ろされるのは、行政という名の冷徹な刃だ。
彼らが唯一所有を許されたもの――「家族」という絆を自ら放棄し、姉弟をバラバラに引き裂かれることを受け入れなければ、カビの生えたパンの欠片すら与えられない。さらに、綺麗事で塗り固められた法律は、「年齢」という壁を盾にカインが正当に働くことすら阻んだ。
カインにとって、この世界は自分たち姉弟から血や肉、骨の髄まで奪い尽くそうとする巨大な怪物だった。新市街で飽食に耽る大人たちは、自分たちのような子供の命を犠牲にして生き延びている醜い豚どもにしか見えなかった。
だからこそ、行き着く先は決まっていた。
狂犬の如き暴力によって、奪われる前に奪う。
慈悲も希望も存在しないこの国に産み落とされた者として、それは生存のための「当然の帰結」だったのである。
カインは夢の中で、八歳の頃の自分を俯瞰するような状態で見せられている。
物心がつく頃には既に彼の世界から「親」という守護の概念が消滅していた。
新市街の裏通りで残飯を漁り、ゴミを拾う。美しい長女はボロボロに捨てられた服を器用に縫い、その日を生きる分のわずかな食事に換えていた。しかし、自分を含めた五人の飢えた口を満たすには、足りなかった。
「……ふざけんな。俺たちが、何をしたってんだよ」
カインは足掻いた。小さな拳を血が滲むほど固め、着飾った豚のような大人たちから財布を掠め取っていた。
その財布に入っていた金はまるで魔法のように、腹を満たし、大好きだった姉達に石鹸を買ってあげることができた。姉はカインの身を心配しつつも、感謝をする。身を寄せ合い、寒さに耐える姉弟…つらい中でも姉の髪から香る石鹸の匂いが、幼きカインにとっての唯一の安らぎの匂いだったのである。
この光景はこれから絶望の悪夢を見せるための舞台でしかない。カインの鼓動は、こみ上げる焦燥感によって激しく打ち鳴らされていく。
掠め取った財布の金はひと時の喜びを与えてくれた。しかし、それは薪のように燃え尽き、灰のようにいつの間にか消えていった。一度薪の温かさを知ると、より寒さを感じるように、新たな「飢え」がカインをさらなる危うき行動へと走らせる。
ある時、運悪く捕まり、想像を絶する凄惨なリンチを受けた。警察に突き出されていれば、どれほど『マシ』だっただろうか…。数週間に及ぶ監禁。光の届かない地下室で、大人たちの歪んだ選民思想と暴力に晒された。肉を裂かれ、骨を折られ、尊厳を土足で踏みにじられた。
八歳の自分を容赦無く傷つけられる様を見せられ、カインは歯を食いしばりながら、これは自業自得だと受け入れる…。
それでもカインの心を折れなかった。彼を支えたのは暗闇の中で響く『兄ちゃん、お腹すいたよ』という、幻聴にも似た弟たちの泣き声だけだった。隙を見つけて地下室から逃げ出し、ボロボロの体を引きずり、死臭の漂う下水道を這い出し、姉と弟が待つねぐらを目指す。
「……食わせなきゃ……あいつらに……」
全身の骨が悲鳴を上げ、一歩踏み出すごとに血が混じった汗が滴る。それでも、カインを突き動かしたのは、空腹に耐え忍んでいるはずの姉弟の顔だった。ようやく、懐かしい汚臭の漂うねぐらへと辿り着く。
(やめろ…そこには行かないでくれ…!!)
カインの願いは届かず、悪夢はねぐらの地獄絵図を容赦なく映し出す。
ねぐらには姉たちの姿がない。代わりに残っていたのは、引きちぎられたような姉たちのおびただしい量の髪と、姉たちの服。それには血と体液が残されており、まだ完全に乾いていなかった。
部屋の中央には、全身を殴り抜かれ、物言わぬ肉塊と化した弟の死体があった。
そしてその傍ら、ようやく歩けるようになったばかりの、一番小さな弟。
彼は、誰に看取られることもなく、弟に守られるように、ただ静かに衰弱して餓死していた。
カインは声にならぬ絶叫を上げ、二人の弟の冷たくなった躯を抱きかかえた。
姉たちを探さなければ…どこへ連れて行かれたのか。
その時のカインの形相は、もはや人のそれではなく、地獄から這い出した修羅そのものだった。
雨の中、泥にまみれ、弟たちの遺体を離さぬまま、カインは力尽きる寸前まで彷徨い続けた…が、双子の姉とは出会えた。いや、正確には『姉だった』ものだった。彼女は裸でゴミの中に捨てられるように置かれていた。虚ろに開かれたままの瞳、男たちに弄ばれた凄惨な痕、それがつい先ほどまで続いていたかのように、姉の体はまだ温かみがあるようにも感じられた。そして口からはおびただしい量の血が溢れていた…その地獄から解放されるために、自らの舌を咬み切っていたのだった。
「あああああああぁぁぁぁぁぁっっ!!」
カインの泣き叫ぶ声…それは慟哭では無かった。
「この世が憎い……! 全部、全部ぶっ壊してやりたい!!」
家族という絆を失い、彼が生きる目的は、まだ躯として見つからない長女を探すことと、この世の全てを呪い、破壊したい衝動に塗りつぶされるのだった。
幕間読んでいただきありがとうございます。アルトがもしオルダ、エルキアに拾われなかったら…ラッシュがあの夫婦に拾われなかったら…それでもカインのようにはならなかったでしょう。アンゾールマの問題点を浮き彫りにするために、カインの生い立ちをこのような最底辺として描く必要がありました。




