第百三十三章:知識の円環、かつての遊び場
百三十三章です。
重厚な石造りの扉が、低い地鳴りのような音を立てて開かれた。
一歩足を踏み入れた瞬間、四人を迎えたのは、数千年の時を凝縮したような古い紙と革、そして濃密な魔力の混じり合った独特の香りだった。
「――懐かしいわね。この匂い」
エルキアが目を細め、静かに呟く。
そこは、世界樹の根が編み上げた巨大な天然の空洞を利用した「大樹の書庫」。天を仰げば、遥か上方の闇にまで続く円筒形の壁一面に、ぎっしりと書物が納められている。その数、数万冊。
「……これが、世界の全てを記録していると言われる禁書庫。なんという、なんという情報密度……!」
スイはただただ圧倒され、何冊あるのかわからないその光景を眺めていた。彼女のような知識欲の塊にとって、ここは神殿も同義である。
「ここは禁書庫じゃないわ。一般に公開されている書庫よ」
隣のヒョーバルもまた、背筋を正し、歴史の重圧に飲まれぬよう強く拳を握っていた。
「議長から聞いてはいましたが、まさに圧巻ですね。……マスター、ここは貴女にとって、どのような場所だったのですか?」
「遊び場よ。小さい頃、お父さんがここで調べ物をしている間、私はずっとこの辺りで本を積み上げて城を作ったり、迷路を作ったりして遊んでいたわ」
エルキアは軽やかな足取りで、書庫の中央へと歩み寄る。その足取りは、まるで自分の庭を歩く子供のように迷いがない。
「城を作るのに飽きたら、今度は中身を読み始めたの。確か、十五歳になる頃には、ここにある本は全部読み終えていたかしらね」
「……はい?」
スイの喉から、奇妙な裏返った声が漏れた。
「ぜ、全部……? 十五歳で? エルキア様、ここには魔導工学の基礎から、失われた古代の言語で書かれた数理物理学まで……国家レベルの賢者が一生をかけて読み解くような奇書が並んでいるんですよ……そんなの、読めば理解できる簡単な代物ではないですよね……?」
スイの言い分はもっともだった。高度な魔導書は、読むだけで精神を汚染するものや、数式そのものが魔力を帯びて思考を焼き切るものすらある。理解以前に、読破すること自体が『命懸け』なのだ。
「ん~……そう言われても困るんだけど。なんとなく、見たら理解できちゃうのよね」
エルキアは、棚から一冊の古びた数理解析書を抜き取ると、パラパラと無造作にページをめくった。その瞳には、文字を追うというよりは『風景を眺める』ような、あまりに自然な光が宿っている。
「文字や数式が、頭の中で勝手に像を結ぶのよ。それがただただ面白かったの。お父さんの仕事を手伝いたくて、必死だったのもあるけれど」
ヒョーバルは、その言葉に戦慄を覚えた。
エルキアの魔法行使が、なぜ他のエルフを凌駕し、物理法則を自在に操るのか。その謎が今、解けた。彼女の圧倒的な力は、天性の魔力量だけではない。この書庫に納められた、ありとあらゆる自然科学や物理学の膨大な知見が、魔法という現象を構築する「盤石な土台」となっていたのだ。
(知識を力に変換している……。理屈では分かっても、それを成し遂げられるのは、人間の規格を遥かに超えた演算能力だ。マスター……貴女は一体……)
一方、リーンネェムは一人、柔らかな微笑みを浮かべてその光景を見つめていた。
彼女の中では、長年の謎だった「エルキアという天才」の正体が、一つのパズルとして完成しつつあった。
(そう……やっぱりそうなのね、エルキア。十五歳で全てを理解したのは、あなたが学んだからじゃない。……かつてのあなたが、悠久の中でこの世界を、魂の底から理解しているだけなのよ)
『はじまりのエルフ』。
大樹と共にこの世界に生まれ、悠久の時を輪廻転生する存在。
その転生した姿がエルキアなのだと考えれば、書庫の難解な記述が「簡単な読み物」に見えるのも道理だ。
(自らが記した日記を読み返すように、あなたは歴史を辿っていた。無意識のうちに、かつての自分を取り戻していたのね)
リーンネェムの確信は、確固たるものに変わった。エルキア本人はまだ自覚していないだろうが、彼女がこの書庫を「懐かしい」と感じたのは、幼少期の思い出だけではない。もっと深く、数千年の時を超えた故郷への郷愁だったのだ。
「さて、思い出話はこれくらいにしましょうか。スイ、あなたの出番よ」
エルキアは本を棚に戻し、表情を引き締めた。
静寂に満ちた「大樹の書庫」。天井まで届く書棚の間を、一行は最深部にある「禁書庫」を目指して進んでいた。かつてエルキアが駆け回った遊び場は、今や世界の命運を握る真実の保管庫へとその表情を変えている。
「お父さんが最後に隠した『ロギア・レコード』の原本。それを探すわよ。スイのその考古学への情熱と、クロウ隊仕込みの解析技術……期待してるわよ?」
エルキアが歩きながら振り返り、信頼を込めた視線を向ける。
エルキアの言葉に、スイは鼻息も荒く、愛用の魔導端末を抱きしめた。
「はい! 全身全霊、この魂をかけて探し出してみせます!!先生の筆跡が残る魂の記録……あぁ、もう、考えるだけでワクワクします」
「嬉しそうだな、スイ。数日ほど前までの怯えようが嘘のようだ。すっかりマスターとも打ち解けたじゃないか」
ヒョーバルが苦笑しながら声をかける。軍人らしい硬さはあるものの、その声には妹分を見守るような優しさが混じっていた。
「はい……。エルキア様にお風呂であんなにあられもない姿をパシャパシャ撮られて……なんだか、守るべきプライバシーの概念が吹っ切れました。失うものなんて、もう何もありません!」
スイの自暴自棄とも言える前向きな宣言に、リーンネェムは「それはそれで女子としてどうかと思うわよ……」と言いたげに困ったような笑みを浮かべる。しかし、その直後――。
「あ!!!」
エルキアが、静謐な書庫に似合わない、突き抜けるような大声を上げた。
「……っ!? もう、びっくりさせないでエルキア。心臓が止まるかと思ったわよ……」
リーンネェムが胸を押さえ、大きく肩を揺らす。暗がりの書庫での絶叫は、確かに心臓に悪い。
「あ、あはは……ごめんなさいリーンネェム……。ちょっと、大事な事を思い出しただけだから」
エルキアは引きつった笑顔を浮かべると、背後にいたヒョーバルの長い耳をひっつかんだ。
「ちょ、ちょっとマスター!? 痛っ、痛いです!」
「いいから来なさい!」
有無を言わさぬ力加減で、エルキアはヒョーバルを書棚の深い陰へと引きずり込んでいく。
「ちょっと、アンタ! 忘れてたわ!」
エルキアは周囲を警戒しながら、低い、しかし鋭い声でヒョーバルを問い詰めた。
「魔導端末に残っていたスイやリーンネェムやイザベラの、あと……私の写真や映像はどうしたのよ!? さっき返してもらったけど、まさかそのままにしてないでしょうね?」
「……あぁ。それなら、マスターと天使様の口づけシーンを削除する際に、偶然フォルダに入っているのに気が付きまして……」
「削除したんでしょうね!? 万が一、里のネットワークに流出したり、おじ様の目に触れたりしたら、アンタの命はないわよ!」
「はっ! どうぞ、証拠をご覧ください。この通り、該当するインデックスは完全に空となっております」
ヒョーバルは神妙な顔つきで魔導端末の画面を提示した。エルキアの鋭い眼光が画面を走る。確かに、彼女が「素材」として撮り溜めた画像データは、綺麗さっぱり消去されているように見えた。
(……よかった。事前にバックアップを取って、表面上のディレクトリだけ削除しておいて正解だった……。軍の情報処理能力をこんなところで使うことになるとは……)
ヒョーバルの額には、冷や汗が滲んでいる。彼の懐にある予備端末には、里の至宝とも呼べる「僥倖データ」が厳重にプロテクトされて保存されている。
「……フン、怪しいわね。アンタ、絶対見たでしょ! あの時お湯に浸かってたイザベラやスイ、それにセレスティアル・サーヴァントの同僚たち全員に、アンタの『余罪』をバラしてやってもいいのよ?」
「えぇ!? やめてくださいよ! 不慮の事故ですよ! 元はと言えば、加工の素材にしたいからってそんな破廉恥な写真を連写したマスターが悪いでしょ!」
「うるさい! 私は里の未来のために、断腸の思いでシャッターを切ったのよ!」
エルキアは顔を赤くして反論したが、これ以上騒ぐとリーンネェムに怪しまれる。彼女は一つ溜息をつくと、悪魔のような笑みを浮かべた。
「……わかったわよ。この件は、一旦は黙っててやるわ。……その代わり、後で私のお願いを一つ聞いてね」
「結局、脅迫するんですね……トホホ。私の軍人年金が吹き飛ぶような無理難題でないことを祈りますよ」
エルキアと、どこか疲れ切った様子のヒョーバルが、待ちくたびれた様子のリーンネェムと、興奮で鼻息の荒いスイの元へと戻ってきた。
「二人とも、何をやっていたの? 妙にこそこそ話をして」
リーンネェムが訝しげに首をかしげる。エルキアは平然と髪をかき上げ、即座に嘘を並べた。
「あー、ちょっとね。かつての頼もしい部下に、夜の読み物としてお勧めの『兵法書』を紹介していたのよ。専門的な内容だから、ちょっと深いところでね」
「兵法書、ですか……。ヒョーバル様、熱心ですね」
純粋なスイが尊敬の眼差しを向ける。
「ええ、マスターおすすめ兵法書はとても素晴らしいものでした……お陰で敵を事前に丸裸にできますよ」
ヒョーバルいかにもうまいことを言ったという風にドヤ顔で言い放った。
(……っ、アンタねぇ……やっぱり見たんじゃない!)
エルキアがこめかみに青筋を立てて睨みつけるが、何も知らないスイは「兵法とは奥が深いのですね……!」と感心しきりである。
「さぁ、行くわよ! 時間がもったいないわ!」
エルキアの号令で、一行は再び歩き出す。
エルフの長い歴史、そして隠蔽された世界の真実。その扉を開き、「ロギア・レコード」の原本を求め、一行は静まり返った叡智の円環の、さらに深奥へと進んでいく。
その足音は、静かな書庫に響き渡り、これから暴かれる「真実」へのカウントダウンのように刻まれていった。
百三十三章読んでいただきありがとうございます。
今回は、禁書庫へ向かうという緊張感あふれる場面でありながら、エルキアの強さの理由がわかる真面目なお話と、エルキアとヒョーバルの「データの隠蔽と脅迫」という、なんとも世俗的なやり取りが描かれました。
ヒョーバルは、軍人としての規律よりも「男としてのバックアップ」を選んでしまいましたね。潔癖のエルフの矜持はどうした!?と思われるでしょうが、彼の心を代弁すると、彼は片方の目を焼かれました。それ故に残された片目で見える世界は矜持以上の価値が跳ね上がったのです。
それはそれとしてエルキアに弱みを握られた彼の運命は、高い代償を支払うことになることは決まっていますが……。




