第2章:「月夜の歌声」 1話「歌声」
夜の海は、
昼よりずっと静かだった。
波が岩を撫でる音だけが、
ゆっくり耳へ届く。
深海凪は、
いつもの岩場へ腰を下ろした。
昼間は観光客が来るこの場所も、
夜になれば誰もいない。
潮風が黒髪を揺らす。
遠く、
港の灯りが海面へ滲んでいた。
凪はケースから
アコースティックギターを取り出す。
古い傷の増えた、
使い込まれたギター。
指先で弦を軽く鳴らす。
ぽろん、と澄んだ音が、
夜へ溶けていった。
歌うつもりはない。
ただ、
こうして弾いている時間だけは、
何も考えなくて済む気がした。
兄のことも。
家のことも。
期待されない自分のことも。
全部、
波音が攫ってくれるから。
凪は静かにコードを鳴らす。
ゆるやかな旋律が、
夜の海へ広がっていく。
その時だった。
不意に。
歌声が重なった。
「――……っ」
凪の指が止まる。
風ではない。
波音でもない。
透き通るような声だった。
低く、
柔らかく、
どこか懐かしい旋律。
まるで、
海そのものが歌っているみたいな声。
ぞくり、と背筋が震える。
凪はゆっくり顔を上げた。
月明かりの波間。
岩陰の向こう。
そこに、
“誰か”がいた。
長い白金の髪。
濡れた髪先が、
月光を受けて銀糸みたいに揺れている。
透き通るほど白い肌。
そして、
深い青の尾ひれ。
銀と淡金を滲ませながら、
静かな波へ溶けていた。
凪は息を呑む。
――人魚。
幼い頃、
祖母が話していた昔話が脳裏を過る。
『夜の海で歌を聞いたら、
振り返っちゃいけないよ』
『人魚は綺麗だからねぇ。
みんな海へ行きたくなる』
馬鹿みたいだと思っていた。
そんなもの、
本当にいるはずないって。
なのに今、
目の前にいる。
しかも、
怖いと思うより先に。
――綺麗だ。
その感情が浮かんだ自分に、
凪は戸惑った。
青と金が混ざる瞳が、
まっすぐこちらを見る。
人魚もまた、
凪を見つめていた。
驚いたみたいに、
少しだけ目を見開いて。
それから、
どこか気まずそうに視線を揺らす。
「あ……」
小さく唇が動く。
逃げるかと思った。
でも人魚は逃げなかった。
波打ち際へ細い指を沈めながら、
おずおずと口を開く。
「……ごめん」
凪ははっとする。
声まで綺麗だった。
「その音が、
あんまり綺麗だったから」
凪は言葉を失う。
こんなふうに、
真正面から褒められたことなんて、
いつぶりだろう。
人魚はまだ、
凪を見ている。
まるで、
ずっと探していたものを見つけたみたいな目だった。
凪の心臓が、
どくりと大きく鳴る。
変だ。
おかしい。
相手は、
人間ですらないのに。
なのに目を逸らせない。
潮風が吹く。
白金の髪が揺れる。
月明かりを受けた尾ひれが、
波間できらりと光った。
綺麗だと思った。
ひどく。
苦しくなるくらい。
すると人魚は、
少し迷うように凪を見つめてから、
そっと尋ねる。
「……それ、
君が鳴らしてるの?」
凪は数秒遅れて、
自分の手元を見る。
「あ……ギター?」
人魚は小さく頷いた。
「ギター……」
初めて聞く言葉みたいに、
大事そうに繰り返す。
その響きが妙に可笑しくて、
凪は少しだけ笑ってしまった。
すると人魚は、
ぱっと目を細める。
嬉しそうに。
その瞬間、
凪の胸がまた強く鳴った。
夜の海は静かだった。
波音だけが、
ふたりの間を揺れている。
なのに、
凪の世界だけが。
今、
確かに変わり始めていた。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




