第6話「夜の岩場」
最初は、
ただの暇つぶしだった。
学校帰り。
部屋の隅に座って、
コードを覚える。
指先は痛いし、
うまく音も鳴らない。
それでも、
ギターを触っている時間だけは、
少し呼吸が楽だった。
海とは違う。
誰とも比べられない。
速さも、
順位も、
才能も関係ない。
間違えても、
怒る人はいない。
ただ、
好きな音を探していればよかった。
凪は夢中になった。
気付けば毎日、
ギターへ触れていた。
学校から帰る。
宿題を適当に終わらせる。
そして部屋へ籠もる。
弦を弾く。
何度も。
何度も。
少しずつ、
好きな音が鳴るようになっていく。
その日も、
凪は部屋でギターを弾いていた。
夕方。
窓の外では、
海風が木々を揺らしている。
まだ拙いコード。
けれど、
前よりはずっと滑らかだった。
不意に、
部屋のドアが開く。
「……」
碧だった。
練習帰りなのか、
濡れた髪のままタオルを首へ掛けている。
凪は思わず手を止めた。
兄の前で弾くのは、
なんとなく落ち着かない。
碧は何も言わず、
数秒そのまま聞いていた。
それから、
ぽつりと呟く。
「……上手くなったじゃん」
「え」
凪は目を瞬く。
褒められると思っていなかった。
碧はそれ以上何も言わない。
ただ冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、
そのまま部屋を出ていく。
「……」
静かになった部屋で、
凪はしばらく動けなかった。
少し遅れて、
胸の奥が妙に熱くなる。
兄は昔から、
あまり多くを喋らない。
でも今の言葉は、
ちゃんと嬉しかった。
凪は小さく息を吐く。
それからもう一度、
ギターを弾いた。
ぽろん、と音が鳴る。
その時だった。
「凪ー」
階下から母親の声。
「ご飯できるわよー」
「……はーい」
凪は返事をする。
ギターを抱えたまま、
階段を下りる。
リビングではテレビが流れていた。
また兄の特集だった。
『期待の遠泳選手・深海碧――』
母親は嬉しそうに画面を見る。
「碧、最近ほんと忙しいわねぇ」
父親も頷く。
「今度の大会も期待だな」
凪は黙ったまま席へ座る。
その時、
母親がふとギターへ目を向けた。
「あんた最近そればっかりね」
悪気のない声だった。
「そんなことして、
何になるの?」
凪の手が止まる。
母親は続ける。
「趣味ならいいけど、
大学もちゃんと考えなさいよ」
普通の言葉だ。
怒っているわけでもない。
ただ、
軽く言っただけ。
それくらい分かる。
でも。
凪は何も返せなかった。
何になるのか。
自分でも分からない。
ギターで生きていけるわけじゃない。
兄みたいに、
誰かに期待されるわけでもない。
ただ、
好きなだけだ。
それだけだった。
夜。
家族が眠った後。
凪は静かに部屋を出た。
ギターケースを背負う。
サンダルを引っ掛け、
夜道を歩く。
潮風が頬を撫でる。
遠く、
波の音が聞こえた。
凪は自然と、
あの岩場へ向かっていた。
昼の海は苦手だ。
誰かの視線がある気がする。
でも夜の海は違う。
静かで、
暗くて、
誰もいない。
そこだけは、
何者でもなくていい気がした。
岩場へ腰を下ろす。
月明かりが、
海面を白く照らしている。
凪はギターを取り出した。
弦へ触れる。
ぽろん。
夜の海へ、
音が溶けていく。
波音が返事みたいに揺れる。
その瞬間だけは、
胸の苦しさが少し消えた。
凪は静かに目を閉じる。
まだ知らなかった。
この場所で、
自分の世界を変える歌声に出会うことを。
ご覧いただきありがとうございます。
『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




