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夜凪に溶ける  作者: 深幸-みさき-
第1章:「深海 凪」
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8/10

第6話「夜の岩場」


最初は、

ただの暇つぶしだった。


学校帰り。


部屋の隅に座って、

コードを覚える。


指先は痛いし、

うまく音も鳴らない。


それでも、

ギターを触っている時間だけは、

少し呼吸が楽だった。


海とは違う。


誰とも比べられない。


速さも、

順位も、

才能も関係ない。


間違えても、

怒る人はいない。


ただ、

好きな音を探していればよかった。


凪は夢中になった。


気付けば毎日、

ギターへ触れていた。


学校から帰る。


宿題を適当に終わらせる。


そして部屋へ籠もる。


弦を弾く。


何度も。


何度も。


少しずつ、

好きな音が鳴るようになっていく。


その日も、

凪は部屋でギターを弾いていた。


夕方。


窓の外では、

海風が木々を揺らしている。


まだ拙いコード。


けれど、

前よりはずっと滑らかだった。


不意に、

部屋のドアが開く。


「……」


碧だった。


練習帰りなのか、

濡れた髪のままタオルを首へ掛けている。


凪は思わず手を止めた。


兄の前で弾くのは、

なんとなく落ち着かない。


碧は何も言わず、

数秒そのまま聞いていた。


それから、

ぽつりと呟く。


「……上手くなったじゃん」


「え」


凪は目を瞬く。


褒められると思っていなかった。


碧はそれ以上何も言わない。


ただ冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、

そのまま部屋を出ていく。


「……」


静かになった部屋で、

凪はしばらく動けなかった。


少し遅れて、

胸の奥が妙に熱くなる。


兄は昔から、

あまり多くを喋らない。


でも今の言葉は、

ちゃんと嬉しかった。


凪は小さく息を吐く。


それからもう一度、

ギターを弾いた。


ぽろん、と音が鳴る。


その時だった。


「凪ー」


階下から母親の声。


「ご飯できるわよー」


「……はーい」


凪は返事をする。


ギターを抱えたまま、

階段を下りる。


リビングではテレビが流れていた。


また兄の特集だった。


『期待の遠泳選手・深海碧――』


母親は嬉しそうに画面を見る。


「碧、最近ほんと忙しいわねぇ」


父親も頷く。


「今度の大会も期待だな」


凪は黙ったまま席へ座る。


その時、

母親がふとギターへ目を向けた。


「あんた最近そればっかりね」


悪気のない声だった。


「そんなことして、

何になるの?」


凪の手が止まる。


母親は続ける。


「趣味ならいいけど、

大学もちゃんと考えなさいよ」


普通の言葉だ。


怒っているわけでもない。


ただ、

軽く言っただけ。


それくらい分かる。


でも。


凪は何も返せなかった。


何になるのか。


自分でも分からない。


ギターで生きていけるわけじゃない。


兄みたいに、

誰かに期待されるわけでもない。


ただ、

好きなだけだ。


それだけだった。


夜。


家族が眠った後。


凪は静かに部屋を出た。


ギターケースを背負う。


サンダルを引っ掛け、

夜道を歩く。


潮風が頬を撫でる。


遠く、

波の音が聞こえた。


凪は自然と、

あの岩場へ向かっていた。


昼の海は苦手だ。


誰かの視線がある気がする。


でも夜の海は違う。


静かで、

暗くて、

誰もいない。


そこだけは、

何者でもなくていい気がした。


岩場へ腰を下ろす。


月明かりが、

海面を白く照らしている。


凪はギターを取り出した。


弦へ触れる。


ぽろん。


夜の海へ、

音が溶けていく。


波音が返事みたいに揺れる。


その瞬間だけは、

胸の苦しさが少し消えた。


凪は静かに目を閉じる。


まだ知らなかった。


この場所で、

自分の世界を変える歌声に出会うことを。

ご覧いただきありがとうございます。

『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。


ふたつの海の物語──。

真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。

深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。


▼ もうひとつの人魚BL

『深海に溺れる』

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