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夜凪に溶ける  作者: 深幸-みさき-
第1章:「深海 凪」
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7/14

第5話「はじめて好きになった音」


その日は、

朝から雨だった。


灰色の空。


濡れたアスファルト。


海も今日は暗く見える。


中学二年になった凪は、

濡れた制服の袖を引っ張りながら、

商店街を歩いていた。


傘へ落ちる雨音だけが、

静かに響く。


最近、

海へ行く回数が減っていた。


泳ぐたび、

周りの視線が気になる。


『弟も速いんだろ?』


『碧くんみたいになるな』


期待されるたび、

苦しくなる。


兄の名前を聞くたび、

自分の“普通”を思い知らされる。


だから最近は、

まっすぐ家へ帰ることが増えた。


その日もそのつもりだった。


けれど。


雨を避けるように視線を上げた時、

古びた店が目に入る。


『リサイクル・黒田』


色褪せた看板。


薄暗い店内。


なんとなく足が止まった。


凪は少し迷ってから、

扉を開ける。


からん、と鈴が鳴った。


店の中は古い木の匂いがした。


棚には、

使い古された時計や本、

ラジオ、

食器。


島の誰かが手放した物たちが、

静かに並んでいる。


「いらっしゃい」


奥から、

白髪の店主が顔を出した。


凪は軽く頭を下げる。


「雨宿りか?」


「……ちょっとだけ」


「好きに見てけ」


店主はまた新聞へ視線を戻す。


凪は店内をゆっくり歩いた。


そして、

店の奥で足を止める。


壁に一本、

ギターが掛かっていた。


少し古いアコースティックギター。


ケースもなく、

埃を被っている。


けれど。


なぜか、

目が離せなかった。


凪はそっと近付く。


「気になるか?」


店主の声に、

凪は少し肩を揺らした。


「……別に」


「触ってみるか」


「え」


店主は立ち上がると、

ギターを外して凪へ渡す。


思ったより軽い。


木の匂いがした。


「弾けるか?」


もちろん弾けない。


凪は首を横に振る。


店主は「だろうな」と笑った。


「適当に弾いてみろ」


凪は恐る恐る弦へ触れる。


ぽろん。


不格好な音。


でも。


「……」


凪は少し目を見開く。


もう一度、

指で弦を弾く。


ぽろ、と音が鳴る。


海とは違う音だった。


速さも。


順位も。


勝ち負けもない。


ただ、

音がそこにある。


不思議なくらい、

胸の奥が静かになる。


凪は夢中で、

もう一度弦を鳴らした。


店主が小さく笑う。


「気に入ったか?」


凪は少し迷ってから、

小さく頷いた。


その瞬間だった。


“好きだ”


と思ったのは。


兄みたいになりたい、

ではなく。


期待に応えたい、

でもなく。


ただ、

自分で好きだと思えた。


初めてだった。


雨音が、

静かに店の屋根を叩いている。


凪はギターを抱えたまま、

そっと弦へ触れた。


鳴った音は、

少しだけ優しかった。

ご覧いただきありがとうございます。

『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。


ふたつの海の物語──。

真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。

深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。


▼ もうひとつの人魚BL

『深海に溺れる』

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