第5話「はじめて好きになった音」
その日は、
朝から雨だった。
灰色の空。
濡れたアスファルト。
海も今日は暗く見える。
中学二年になった凪は、
濡れた制服の袖を引っ張りながら、
商店街を歩いていた。
傘へ落ちる雨音だけが、
静かに響く。
最近、
海へ行く回数が減っていた。
泳ぐたび、
周りの視線が気になる。
『弟も速いんだろ?』
『碧くんみたいになるな』
期待されるたび、
苦しくなる。
兄の名前を聞くたび、
自分の“普通”を思い知らされる。
だから最近は、
まっすぐ家へ帰ることが増えた。
その日もそのつもりだった。
けれど。
雨を避けるように視線を上げた時、
古びた店が目に入る。
『リサイクル・黒田』
色褪せた看板。
薄暗い店内。
なんとなく足が止まった。
凪は少し迷ってから、
扉を開ける。
からん、と鈴が鳴った。
店の中は古い木の匂いがした。
棚には、
使い古された時計や本、
ラジオ、
食器。
島の誰かが手放した物たちが、
静かに並んでいる。
「いらっしゃい」
奥から、
白髪の店主が顔を出した。
凪は軽く頭を下げる。
「雨宿りか?」
「……ちょっとだけ」
「好きに見てけ」
店主はまた新聞へ視線を戻す。
凪は店内をゆっくり歩いた。
そして、
店の奥で足を止める。
壁に一本、
ギターが掛かっていた。
少し古いアコースティックギター。
ケースもなく、
埃を被っている。
けれど。
なぜか、
目が離せなかった。
凪はそっと近付く。
「気になるか?」
店主の声に、
凪は少し肩を揺らした。
「……別に」
「触ってみるか」
「え」
店主は立ち上がると、
ギターを外して凪へ渡す。
思ったより軽い。
木の匂いがした。
「弾けるか?」
もちろん弾けない。
凪は首を横に振る。
店主は「だろうな」と笑った。
「適当に弾いてみろ」
凪は恐る恐る弦へ触れる。
ぽろん。
不格好な音。
でも。
「……」
凪は少し目を見開く。
もう一度、
指で弦を弾く。
ぽろ、と音が鳴る。
海とは違う音だった。
速さも。
順位も。
勝ち負けもない。
ただ、
音がそこにある。
不思議なくらい、
胸の奥が静かになる。
凪は夢中で、
もう一度弦を鳴らした。
店主が小さく笑う。
「気に入ったか?」
凪は少し迷ってから、
小さく頷いた。
その瞬間だった。
“好きだ”
と思ったのは。
兄みたいになりたい、
ではなく。
期待に応えたい、
でもなく。
ただ、
自分で好きだと思えた。
初めてだった。
雨音が、
静かに店の屋根を叩いている。
凪はギターを抱えたまま、
そっと弦へ触れた。
鳴った音は、
少しだけ優しかった。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




