第2話「名前」
次の日の夜。
凪は気付けば、
また海へ向かっていた。
サンダル越しに伝わる、
夜の地面の冷たさ。
潮風。
遠くで揺れる漁船の灯り。
昨日の出来事が、
まだ夢みたいだった。
人魚。
そんなもの、
本当にいるなんて。
しかも、
自分へ話しかけてきた。
凪は苦笑する。
「……ありえないだろ」
小さく呟きながら、
いつもの岩場へ足を向ける。
本当は少し期待していた。
もう一度、
会えるんじゃないかと。
でも。
“会いたい”なんて思っている自分を、
認めるのは少し恥ずかしかった。
岩場へ腰を下ろす。
ケースを開き、
ギターを取り出す。
波音が静かに響いていた。
凪は弦へ触れる。
ぽろん。
夜へ溶ける音。
その瞬間だった。
「……きた」
小さな声。
凪ははっと顔を上げる。
波打ち際。
月明かりの中に、
白金の髪が揺れていた。
昨日と同じ、
深い青の尾ひれ。
青と金が混ざる瞳が、
まっすぐ凪を見ている。
凪の胸が、
どくりと鳴る。
本当にいた。
夢じゃなかった。
人魚は、
どこか嬉しそうに目を細めた。
「今日も、
その音聞ける?」
凪は少しだけ言葉に詰まる。
こんなふうに真っ直ぐ期待されることに、
慣れていなかった。
「……別にいいけど」
そう返すと、
人魚の表情がぱっと明るくなる。
その顔があまりにも素直で、
凪は少し視線を逸らした。
ギターを弾き始める。
ゆっくり、
静かな旋律。
人魚は波打ち際へ腕を乗せたまま、
夢中みたいに聞いていた。
時々、
尾ひれが水面を揺らす。
まるで、
機嫌が見えているみたいだった。
「……そんなに好き?」
凪が思わず聞く。
すると人魚は、
不思議そうに瞬いた。
「好き」
即答だった。
「胸が、
あったかくなる」
その言葉に、
凪は少し黙る。
音楽をそんなふうに言われたのは、
初めてだった。
潮風が吹く。
白金の髪が揺れる。
凪は弦を鳴らしながら、
ふと思う。
昨日より、
怖くない。
むしろ。
もっと見ていたいと思っている。
「……お前さ」
凪が口を開く。
人魚がこちらを見る。
「名前、ないの?」
人魚は少し考えるように首を傾げた。
「名前……」
その響きを、
確かめるみたいに繰り返す。
「人間はみんなあるだろ」
「……ある」
「なら、
呼びたいから」
そこまで言って、
凪は少し後悔した。
何を普通に話してるんだろう。
相手は人魚なのに。
けれど人魚は、
逃げるどころか、
少し嬉しそうに笑った。
それから、
静かな声で言う。
「ノア」
波音に溶けるような響きだった。
「……ノア?」
人魚――ノアは、
小さく頷く。
凪はその名前を、
胸の中でもう一度繰り返した。
不思議な名前だ。
でも、
ひどく似合うと思った。
「君は?」
ノアが尋ねる。
凪は少しだけ迷ってから答える。
「……凪」
「ナギ」
ノアがすぐに呼ぶ。
たったそれだけなのに。
胸の奥が、
妙に熱くなった。
凪は思わず目を逸らす。
ノアはそんな凪を見て、
不思議そうに瞬く。
「どうした?」
「……いや」
心臓がうるさい。
名前を呼ばれただけなのに。
波音が静かに揺れる。
その夜から。
凪は、
夜を待つようになった。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




