第4話「海」
夕暮れだった。
夏の光が少しずつ柔らかくなっていく。
潮風が吹く。
縁側から海が見えた。
遠くで波音が響いている。
海は庭にいた。
しゃがみ込みながら何かを眺めている。
凪は縁側へ腰を下ろした。
「何見てるんだ」
海が振り返る。
手の中には小さな貝殻があった。
「見つけた」
少し嬉しそうだった。
凪は笑う。
最近の海はそんな顔ばかりしている。
何でも楽しそうだ。
何でも嬉しそうだ。
風が吹く。
白金色の髪が揺れる。
海は貝殻を空へかざした。
夕陽が透ける。
綺麗だった。
思わず見入る。
その横顔に。
そして。
凪は目を逸らした。
だめだ。
最近よくこうなる。
海を見るたび。
胸が落ち着かない。
海は何も気付いていない。
今日も平和そうだった。
「ナギ」
呼ばれる。
「ん?」
「海って好き」
凪は瞬きをした。
「は?」
海は真面目な顔だった。
「名前」
少し笑う。
「ああ」
その海か。
海は嬉しそうに頷いた。
「好き」
また言った。
凪はため息を吐く。
本当に。
好きという言葉を使うのに躊躇がない。
海は貝殻を握る。
そして言った。
「ナギが付けてくれた名前だから」
凪は黙る。
波音が響く。
その言葉が胸に残った。
海。
その名前を付けたのは自分だ。
名前が必要だった。
呼ぶために。
だから付けただけ。
そのはずだった。
けれど。
凪は知っている。
本当の名前を。
ノア。
夜の海で出会った人魚。
何度も呼んだ名前。
忘れたことなんて一度もない。
海は知らない。
自分がノアだったことも。
その名前も。
全部。
失くしてしまった。
「ナギ?」
海が首を傾げる。
凪は我に返った。
「どうしたの?」
「いや」
首を振る。
言えない。
本当はノアなんだ。
そう言ったところで。
海は困るだけだ。
波音が響く。
海は再び笑った。
「海」
自分の名前を口にする。
少し照れたように。
けれど嬉しそうに。
「好きだな」
その顔を見ていると。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
どうしてだろう。
凪は目を細めた。
ノアは大切だ。
今でも。
ずっと。
会いたかった人だ。
けれど。
目の前にいるのは海だった。
ノアで。
海で。
そのどちらも本物だった。
潮風が吹く。
海は空を見上げる。
夏の青が広がっていた。
「ナギ」
「ん?」
「ありがとう」
突然だった。
凪は少し驚く。
海は笑う。
柔らかく。
幸せそうに。
「名前くれて」
波音が響く。
凪は何も言えなかった。
ただ。
少しだけ目を細める。
胸の奥が温かかった。
海は嬉しそうに笑っている。
その顔を見ながら。
凪は思った。
ノアも大切だ。
でも。
海も。
きっと大切になっている。
夏の風が静かに吹いていた。
ご覧いただきありがとうございます。
『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




