第1話「ノア」
夏の夜だった。
窓の外から波音が聞こえる。
潮風が部屋へ入り込み、
カーテンを揺らしていた。
夕食を終えたあと。
凪はいつものように裏の平屋へ向かった。
ギターを抱えて。
縁側には海がいる。
それが当たり前になっていた。
少し前まで。
凪の隣で歌っていた海が。
楽しそうに。
嬉しそうに。
少し前まで歌っていた。
あの歌を。
凪はまだ動けずにいた。
胸がうるさい。
心臓の音が聞こえる。
海は不思議そうな顔をしていた。
「ナギ?」
凪はゆっくり息を吐く。
そして。
聞いた。
「その歌」
海が首を傾げる。
「うん?」
「どこで覚えた」
沈黙。
海は少し考える。
本当に考えている顔だった。
けれど。
やがて困ったように笑う。
「分からない」
凪は息を呑む。
「覚えてないのか」
「うん」
海は素直に頷いた。
「でも」
縁側の外を見る。
月明かりが海へ落ちている。
波が静かに揺れていた。
海はその光を見つめながら言う。
「懐かしい気がした」
凪の指先が震える。
懐かしい。
その言葉が胸へ刺さる。
海は覚えていない。
何も。
それなのに。
歌だけは残っていた。
波音が響く。
凪は視線を落とす。
そして。
小さく名前を呼んだ。
「……ノア」
海が振り返る。
「ノア?」
知らない名前を聞いたみたいな顔だった。
凪は苦笑する。
当然だ。
海は何も覚えていない。
海は首を傾げる。
「誰?」
その一言が痛い。
凪は少しだけ目を伏せた。
月明かりが床へ落ちる。
あの日。
夜の岩場で出会った。
歌が綺麗な人魚。
何度も名前を呼んだ。
何度も呼ばれた。
忘れるはずがない。
それなのに。
目の前の海は知らない顔をする。
「……いや」
凪は首を振る。
「なんでもない」
海は不思議そうだった。
けれど。
それ以上は聞かなかった。
静かな時間が流れる。
波音が響く。
凪はギターへ手を伸ばした。
確かめたかった。
本当に。
同じなのか。
弦を鳴らす。
柔らかな音。
海はぱっと顔を上げる。
嬉しそうだった。
凪はゆっくり弾く。
昔。
ノアのためによく弾いた曲。
夜の海で。
二人で聞いた音。
部屋へ旋律が広がる。
潮風が揺れる。
月明かりが差し込む。
そして。
海が歌い出した。
自然だった。
息をするみたいに。
当たり前みたいに。
凪の指が止まる。
透き通る声。
優しい旋律。
忘れられない歌。
ノアの歌だった。
あの日と同じ。
月明かりの海で聞いた歌。
「……っ」
息が詰まる。
海は歌うのをやめた。
不思議そうに凪を見る。
「なんで弾くのやめちゃうの?」
凪は答えられない。
海は少し残念そうに笑った。
そして。
真っ直ぐ言う。
「僕、その音好き」
凪が顔を上げる。
海は嬉しそうだった。
何の迷いもなく。
何の照れもなく。
「ナギのギター好き」
心臓が跳ねる。
あの日と同じ言葉だった。
違うのは。
目の前にいるのが人魚ではなく。
人間だということ。
波音が響く。
月明かりが海を照らす。
海は笑っていた。
何も覚えていないまま。
ただ。
凪の音が好きだと言う。
その顔から目を離せなかった。
会いたかった。
ずっと。
声が聞きたかった。
ずっと。
もう会えないと思っていた。
だから。
胸が苦しい。
凪はそっと目を閉じる。
目の前にいるのは海だ。
名前のない青年。
けれど。
胸の奥ではもう分かっていた。
海はノアだ。
間違いなく。
あのノアだ。
それなのに。
ノアだけが。
そのことを覚えていなかった。
波音が静かに響いていた。
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ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
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『深海に溺れる』




