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夜凪に溶ける  作者: 深幸-みさき-
第7章:「名前を呼ぶ」
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第1話「ノア」

夏の夜だった。


窓の外から波音が聞こえる。


潮風が部屋へ入り込み、

カーテンを揺らしていた。


夕食を終えたあと。


凪はいつものように裏の平屋へ向かった。


ギターを抱えて。


縁側には(ウミ)がいる。


それが当たり前になっていた。


少し前まで。


凪の隣で歌っていた(ウミ)が。


楽しそうに。


嬉しそうに。


少し前まで歌っていた。


あの歌を。


凪はまだ動けずにいた。


胸がうるさい。


心臓の音が聞こえる。


(ウミ)は不思議そうな顔をしていた。


「ナギ?」


凪はゆっくり息を吐く。


そして。


聞いた。


「その歌」


(ウミ)が首を傾げる。


「うん?」


「どこで覚えた」


沈黙。


(ウミ)は少し考える。


本当に考えている顔だった。


けれど。


やがて困ったように笑う。


「分からない」


凪は息を呑む。


「覚えてないのか」


「うん」


(ウミ)は素直に頷いた。


「でも」


縁側の外を見る。


月明かりが海へ落ちている。


波が静かに揺れていた。


(ウミ)はその光を見つめながら言う。


「懐かしい気がした」


凪の指先が震える。


懐かしい。


その言葉が胸へ刺さる。


(ウミ)は覚えていない。


何も。


それなのに。


歌だけは残っていた。


波音が響く。


凪は視線を落とす。


そして。


小さく名前を呼んだ。


「……ノア」


(ウミ)が振り返る。


「ノア?」


知らない名前を聞いたみたいな顔だった。


凪は苦笑する。


当然だ。


(ウミ)は何も覚えていない。


(ウミ)は首を傾げる。


「誰?」


その一言が痛い。


凪は少しだけ目を伏せた。


月明かりが床へ落ちる。


あの日。


夜の岩場で出会った。


歌が綺麗な人魚。


何度も名前を呼んだ。


何度も呼ばれた。


忘れるはずがない。


それなのに。


目の前の海は知らない顔をする。


「……いや」


凪は首を振る。


「なんでもない」


(ウミ)は不思議そうだった。


けれど。


それ以上は聞かなかった。


静かな時間が流れる。


波音が響く。


凪はギターへ手を伸ばした。


確かめたかった。


本当に。


同じなのか。


弦を鳴らす。


柔らかな音。


海はぱっと顔を上げる。


嬉しそうだった。


凪はゆっくり弾く。


昔。


ノアのためによく弾いた曲。


夜の海で。


二人で聞いた音。


部屋へ旋律が広がる。


潮風が揺れる。


月明かりが差し込む。


そして。


(ウミ)が歌い出した。


自然だった。


息をするみたいに。


当たり前みたいに。


凪の指が止まる。


透き通る声。


優しい旋律。


忘れられない歌。


ノアの歌だった。


あの日と同じ。


月明かりの海で聞いた歌。


「……っ」


息が詰まる。


(ウミ)は歌うのをやめた。


不思議そうに凪を見る。


「なんで弾くのやめちゃうの?」


凪は答えられない。


海は少し残念そうに笑った。


そして。


真っ直ぐ言う。


「僕、その音好き」


凪が顔を上げる。


(ウミ)は嬉しそうだった。


何の迷いもなく。


何の照れもなく。


「ナギのギター好き」


心臓が跳ねる。


あの日と同じ言葉だった。


違うのは。


目の前にいるのが人魚ではなく。


人間だということ。


波音が響く。


月明かりが海を照らす。


(ウミ)は笑っていた。


何も覚えていないまま。


ただ。


凪の音が好きだと言う。


その顔から目を離せなかった。


会いたかった。


ずっと。


声が聞きたかった。


ずっと。


もう会えないと思っていた。


だから。


胸が苦しい。


凪はそっと目を閉じる。


目の前にいるのは海だ。


名前のない青年。


けれど。


胸の奥ではもう分かっていた。


(ウミ)はノアだ。


間違いなく。


あのノアだ。


それなのに。


ノアだけが。


そのことを覚えていなかった。


波音が静かに響いていた。

ご覧いただきありがとうございます。

『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。


ふたつの海の物語──。

真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。

深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。


▼ もうひとつの人魚BL

『深海に溺れる』

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