第8話「歌声」
夏の風が吹いていた。
窓の外では波音が聞こえる。
夕暮れが少しずつ夜へ変わっていく。
凪は最近、海のいる家の裏の平屋に行くことが増えた。
気付けば当たり前になっていた。
縁側で話をしたり。
一緒にご飯を食べたり。
海は何にでも興味を持つ。
そして。
楽しそうに笑う。
今も。
ギターを抱える凪の隣で、
嬉しそうに座っていた。
「弾くの?」
「少しだけな」
凪は弦へ指を置く。
柔らかな音が響いた。
窓の外。
潮風がカーテンを揺らす。
海は黙って聞いていた。
目を細めて。
大切なものを見つめるみたいに。
凪はゆっくり弾く。
懐かしい曲だった。
昔。
夜の岩場で弾いていた曲。
自然と指が動く。
波音みたいな旋律。
月明かりみたいな音。
その時だった。
歌声が聞こえた。
凪の指が止まる。
小さな声だった。
けれど。
驚くほど綺麗だった。
透き通るような声。
優しい旋律。
どこか切ない歌。
海が歌っていた。
無意識みたいに。
当たり前みたいに。
凪は動けなくなる。
その歌を知っていた。
忘れるはずがない。
月明かりの海。
波打ち際。
夜の岩場。
何度も聞いた。
何度も隣で聞いていた。
ノアの歌だった。
「……え」
声が漏れる。
海は歌うのをやめた。
不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
凪は答えられない。
胸がうるさい。
心臓が痛いくらい鳴っている。
海はきょとんとしていた。
何も知らない顔で。
「なんでやめちゃったの?」
凪は言葉を失う。
海は少し残念そうに笑う。
そして。
当たり前みたいに言った。
「僕、その音好き」
凪が顔を上げる。
海は真っ直ぐこちらを見ていた。
「ナギのギター好き」
時間が止まった気がした。
月明かりが窓から差し込む。
潮風が吹く。
波音が響く。
海は何も覚えていない。
あの夜のことも。
歌のことも。
自分の名前も。
きっと。
何も。
それでも。
凪は目を離せなかった。
その歌を知っている。
その言葉を知っている。
その声を知っている。
胸の奥が熱くなる。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
いや。
気付きたくなかったのかもしれない。
だって。
もし本当にそうなら。
会いたかった人は。
ずっと目の前にいたことになる。
波音が響く。
海は不思議そうに瞬きをした。
「ナギ?」
凪は答えない。
ただ。
白金色の髪を見つめる。
月明かりに照らされた横顔を見つめる。
そして。
小さく息を呑んだ。
――ノアなのかもしれない。
けれど。
ノアはもう。
そのことを覚えていなかった。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




