第7話「ギター」
海が家へ来てから、
しばらく経った。
季節は少しずつ夏へ近付いている。
海は相変わらずだった。
記憶は戻らない。
自分のことも。
家族のことも。
何も思い出せない。
けれど。
少しずつ言葉は増えていた。
テレビを見る。
本を読む。
看板を読む。
知らないものを見つけるたびに、
凪へ聞く。
「これなに?」
それが最近の日常だった。
その日も。
夕方。
凪の部屋へ遊びに来た海は、
部屋の隅で足を止めた。
じっと見ている。
凪は机へ向かったまま振り返る。
「どうした?」
海は指を差した。
「それ」
そこにはギターケースがあった。
凪は少し目を瞬く。
「ああ」
ケースを持ち上げる。
海の視線が追いかけてくる。
「これ?」
「うん」
「ギター」
海が復唱する。
「ぎたー」
どこか嬉しそうだった。
凪は少し笑う。
「そんな珍しいか?」
「珍しい」
海は頷いた。
そして。
少しだけ身を乗り出す。
「何するの?」
子供みたいな顔だった。
凪はケースを開く。
木の香りがする。
久しぶりだった。
弦へ指を置く。
軽く鳴らす。
音が部屋へ響いた。
海が目を見開く。
凪は少し驚く。
そこまで反応するとは思わなかった。
「弾いてみるか」
指を動かす。
柔らかな音。
窓の外から潮風が入る。
遠くで波音が聞こえる。
夏の前の夕暮れ。
光が部屋へ差し込んでいた。
海は黙って聞いていた。
一言も喋らない。
ただ。
じっと見ている。
まるで。
大切な何かを探しているみたいに。
凪は少し気になった。
「海?」
呼ぶ。
返事がない。
視線はギターへ向いたまま。
凪は弾くのを止めた。
すると。
海がはっと顔を上げる。
「なんでやめたの?」
少し残念そうだった。
凪は思わず笑う。
「聞いてたのか」
「聞いてた」
即答だった。
そして。
少しだけ目を細める。
「綺麗」
その言葉に。
凪の指が止まる。
どこかで聞いた気がした。
いつだっただろう。
思い出せない。
けれど。
胸の奥が少しだけ揺れる。
海は窓の外を見る。
夕陽が海を照らしていた。
波が光る。
風が吹く。
そして。
ぽつりと呟く。
「好き」
凪は顔を上げる。
海は笑っていた。
「その音」
真っ直ぐな声だった。
照れもなく。
迷いもなく。
ただ思ったことを言っただけ。
それなのに。
凪は少しだけ困る。
胸の奥が落ち着かない。
「そうか」
それだけ返す。
海は満足そうに頷いた。
そして再び言う。
「もっと聞きたい」
潮風が吹く。
窓の向こうで海が揺れる。
凪はギターを抱え直した。
不思議だった。
誰かにそう言われたのは、
初めてじゃない。
それなのに。
どうしてだろう。
海に言われると。
少しだけ嬉しかった。
波音が響く。
夕暮れの光の中。
海は楽しそうに笑っていた。
まるで。
ずっとその音を探していたみたいに。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
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『深海に溺れる』




