第6話「名前」
翌朝。
海は青かった。
窓の外から波音が聞こえる。
凪は病院の待合室にいた。
隣には青年が座っている。
白金色の髪。
整った横顔。
初めて見るはずなのに。
時々どこか懐かしく見える。
不思議だった。
診察はすぐに終わった。
身体に異常はないらしい。
怪我もない。
ただ。
「体温が低いですね」
医者は首を傾げた。
「冷えやすい体質なのかもしれません」
「なるべく温かくしてあげてください」
凪は頷いた。
青年も素直に頷いている。
本当に分かっているのかは怪しかったけれど。
病院を出る。
潮風が吹いた。
青年は空を見上げる。
雲。
鳥。
光。
何もかもが珍しいみたいだった。
「眩しいね」
ぽつりと言う。
凪は少し笑った。
「昨日も同じこと言ってたぞ」
「そうなの?」
青年は目を丸くする。
そして。
少し困ったように笑った。
「覚えてない」
記憶は相変わらず曖昧だった。
名前も。
家も。
どこから来たのかも。
何も分からない。
ただ。
言葉だけは分かる。
それが不思議だった。
家へ戻る途中。
青年が看板を見上げる。
「スーパー」
ゆっくり読む。
「そう」
「すーぱー」
復唱する。
どこか楽しそうだった。
凪は思わず目を細める。
昔。
似たようなやり取りをした気がした。
『ぴっく』
『ぴっく?』
『そう』
そんな声が頭をよぎる。
けれど。
すぐに消えた。
家へ着く。
縁側では母が待っていた。
事情を聞いた父も来る。
青年は少し緊張した顔をした。
けれど。
母は笑った。
「しばらくここにいなさい」
父も頷く。
「身元が分かるまでな」
青年は少し安心したようだった。
その夜。
夕飯を食べ終わったあと。
縁側に二人で座る。
夏の前の風。
遠くで波音が聞こえる。
青年は月を見上げていた。
「名前」
ふいに凪が言った。
青年が振り向く。
「呼び名がないと不便だろ」
「うん」
素直に頷く。
凪は少し考える。
そして。
海を見る。
月明かりが揺れていた。
「……海」
青年が瞬きをする。
「うみ?」
「海で見つけたし」
凪は少し笑った。
「単純だけどな」
青年は黙る。
嫌だっただろうか。
そう思った時。
「海」
青年が呟いた。
「うみ」
もう一度。
大切そうに。
「好き」
凪は少し目を見開く。
青年は笑った。
柔らかく。
嬉しそうに。
「海」
「それが僕?」
「仮だけどな」
「うん」
青年は頷く。
そして。
宝物を抱くみたいに言った。
「海」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
どうしてだろう。
凪は答えを知らなかった。
その時。
縁側へ父が顔を出した。
「そうだ」
「裏の平屋、使えばいい」
凪は振り返る。
祖父母が住んでいた家だった。
今は誰も住んでいない。
父は続ける。
「しばらく住む場所も必要だろ」
母も頷く。
「その方が気楽だしね」
海はきょとんとしていた。
たぶん。
まだよく分かっていない。
けれど。
凪は少し安心した。
これでしばらくは大丈夫だ。
波音が響く。
海は空を見上げる。
月が綺麗だった。
その横顔を見ていると。
なぜだろう。
少しだけ目が離せなかった。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




