第5話「おんぶ」
波音が響く。
青年は岩へ腰を下ろしたまま、
ぼんやりと海を見ていた。
月明かりが海へ落ちる。
静かな夜だった。
凪は腕時計を見る。
病院はもう閉まっている時間だった。
このまま朝までここにいるわけにもいかない。
「立てるか?」
青年は凪を見る。
そして素直に頷いた。
「やってみる」
ゆっくり身体を動かす。
岩へ手をつく。
立ち上がる。
けれど。
すぐによろけた。
「おっと」
凪が慌てて肩を支える。
青年は不思議そうな顔をした。
「難しいね」
「難しいって……」
凪は思わず言葉を止める。
歩くのが苦手な人なんているだろうか。
怪我をしているようには見えない。
それなのに。
足の動かし方を忘れているみたいだった。
青年はもう一度歩こうとする。
一歩。
二歩。
そして止まる。
「だめ?」
少し困ったような声。
凪は首を振った。
「だめじゃない」
ただ。
どう見てもまともに歩けそうにない。
潮風が吹く。
青年の白金色の髪が揺れる。
月明かりの中で見ると、
本当に綺麗だった。
凪は視線を逸らす。
変なところを見ている気がした。
「家、来るか」
青年が瞬きをする。
「家?」
「病院は明日だ」
「うん」
「親にも話すから」
「うん」
素直だった。
警戒心がない。
少し心配になるくらいに。
凪はしゃがみ込む。
「乗れ」
青年が首を傾げた。
「?」
「おんぶ」
「おんぶ」
復唱する。
少し楽しそうだった。
凪は苦笑する。
「ほら」
青年はしばらく考えていた。
やがて。
恐る恐る背中へ身体を預ける。
軽かった。
驚くほど。
ちゃんと食べている人間とは思えないくらいに。
「行くぞ」
凪は立ち上がる。
青年が小さく声を上げた。
「おお」
少しだけ嬉しそうだった。
夜道を歩く。
波音が遠ざかる。
青年は背中の上で静かだった。
けれど。
しばらくしてぽつりと言う。
「温かいね」
凪は少しだけ目を瞬く。
「そうか?」
「うん」
青年は素直に答える。
「さっきまで寒かったから」
凪は何も言わなかった。
ただ。
少しだけ歩く速度を落とす。
潮風が吹く。
月が海を照らしている。
青年はしばらく空を見ていた。
やがて。
小さな声で聞いた。
「君の名前は?」
凪は前を向いたまま答える。
「凪」
「ナギ」
青年が繰り返す。
その響きが妙に優しかった。
「ナギ」
もう一度。
大事なものを確かめるみたいに。
凪は少しだけ照れる。
「一回で覚えろよ」
「覚えたよ」
青年は笑った。
月明かりの下。
その声はどこか楽しそうだった。
波音が響く。
海は静かに揺れている。
その夜。
凪は見知らぬ青年を背負って帰った。
まるで。
海が誰かを託したみたいに。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




