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夜凪に溶ける  作者: 深幸-みさき-
第6章:「波の向こうから」
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第4話「名前のない人」


「ちょっと待ってろ」


もちろん返事はない。


凪は立ち上がった。


呼吸はしている。


意識がないだけだ。


たぶん。


そうだと思う。


そう思いたかった。


ギターケースを抱え、

凪は全力で家へ向かった。


夜道を走る。


潮風が頬を打つ。


心臓がうるさい。


家へ飛び込み、

タオルと着替えを掴む。


父と母には、


「海で人が倒れてた」


とだけ伝えた。


詳しい説明をしている時間はない。


再び海へ走る。


波音が近付いてくる。


月明かりの海。


見慣れた岩場。


青年はまだそこにいた。


凪はほっと息を吐く。


逃げるはずもないのに。


なぜか安心した。


タオルを広げる。


肩へ掛ける。


濡れた身体を拭く。


海水で冷え切っていた。


「冷た……」


思わず呟く。


まるで。


ずっと海の中にいたみたいだった。


月明かりが髪を照らす。


白金色。


肩まで揃った髪が、

風に揺れている。


綺麗だった。


不思議なくらい。


海の光をそのまま閉じ込めたみたいに。


凪は少しだけ見入る。


その時だった。


青年の睫毛が震える。


ゆっくり。


瞳が開いた。


凪は思わず身を乗り出す。


「大丈夫か?」


青年は瞬きをした。


月明かりを見上げる。


空を見る。


海を見る。


そして。


凪を見る。


不思議そうだった。


まるで。


初めて世界を見ているみたいに。


「分かるか?」


青年は少し首を傾げた。


「……」


声はない。


凪は少し考える。


「日本語、分かる?」


青年がゆっくり頷いた。


凪はほっとした。


よかった。


少なくとも会話はできそうだ。


「名前は?」


沈黙。


青年は目を伏せた。


少し困ったような顔をする。


「……分からない」


小さな声だった。


凪は瞬きをする。


「分からない?」


「うん」


青年も不思議そうだった。


本当に分からないらしい。


「覚えてないのか」


「覚えてない」


波音が響く。


凪は続ける。


「どこから来た?」


「分からない」


「家は?」


「分からない」


「なんで倒れてた?」


青年はしばらく考える。


けれど。


やがて首を横に振った。


「分からない」


静かな声だった。


嘘をついているようには見えない。


本当に。


何も覚えていないのだろう。


凪は少し困った。


記憶喪失。


そんな言葉が頭をよぎる。


青年は月を見上げた。


そして。


ぽつりと呟く。


「綺麗だね」


凪は顔を上げる。


青年は空を見ていた。


月明かり。


星。


海。


全部を映すような瞳だった。


「……そうだな」


凪もつられて空を見る。


夏の前の夜空。


静かな光が海へ落ちている。


波音が響く。


青年は再び凪を見る。


少しだけ笑った。


柔らかい笑顔だった。


けれど。


凪はその笑顔を知らない。


知らないはずなのに。


胸の奥が少しだけ揺れた。


潮風が吹く。


青年の白金色の髪が揺れる。


月明かりの中。


名前のない青年は静かにそこにいた。


まるで。


海が忘れていった落とし物みたいに。

ご覧いただきありがとうございます。

『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。


ふたつの海の物語──。

真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。

深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。


▼ もうひとつの人魚BL

『深海に溺れる』

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