第4話「名前のない人」
「ちょっと待ってろ」
もちろん返事はない。
凪は立ち上がった。
呼吸はしている。
意識がないだけだ。
たぶん。
そうだと思う。
そう思いたかった。
ギターケースを抱え、
凪は全力で家へ向かった。
夜道を走る。
潮風が頬を打つ。
心臓がうるさい。
家へ飛び込み、
タオルと着替えを掴む。
父と母には、
「海で人が倒れてた」
とだけ伝えた。
詳しい説明をしている時間はない。
再び海へ走る。
波音が近付いてくる。
月明かりの海。
見慣れた岩場。
青年はまだそこにいた。
凪はほっと息を吐く。
逃げるはずもないのに。
なぜか安心した。
タオルを広げる。
肩へ掛ける。
濡れた身体を拭く。
海水で冷え切っていた。
「冷た……」
思わず呟く。
まるで。
ずっと海の中にいたみたいだった。
月明かりが髪を照らす。
白金色。
肩まで揃った髪が、
風に揺れている。
綺麗だった。
不思議なくらい。
海の光をそのまま閉じ込めたみたいに。
凪は少しだけ見入る。
その時だった。
青年の睫毛が震える。
ゆっくり。
瞳が開いた。
凪は思わず身を乗り出す。
「大丈夫か?」
青年は瞬きをした。
月明かりを見上げる。
空を見る。
海を見る。
そして。
凪を見る。
不思議そうだった。
まるで。
初めて世界を見ているみたいに。
「分かるか?」
青年は少し首を傾げた。
「……」
声はない。
凪は少し考える。
「日本語、分かる?」
青年がゆっくり頷いた。
凪はほっとした。
よかった。
少なくとも会話はできそうだ。
「名前は?」
沈黙。
青年は目を伏せた。
少し困ったような顔をする。
「……分からない」
小さな声だった。
凪は瞬きをする。
「分からない?」
「うん」
青年も不思議そうだった。
本当に分からないらしい。
「覚えてないのか」
「覚えてない」
波音が響く。
凪は続ける。
「どこから来た?」
「分からない」
「家は?」
「分からない」
「なんで倒れてた?」
青年はしばらく考える。
けれど。
やがて首を横に振った。
「分からない」
静かな声だった。
嘘をついているようには見えない。
本当に。
何も覚えていないのだろう。
凪は少し困った。
記憶喪失。
そんな言葉が頭をよぎる。
青年は月を見上げた。
そして。
ぽつりと呟く。
「綺麗だね」
凪は顔を上げる。
青年は空を見ていた。
月明かり。
星。
海。
全部を映すような瞳だった。
「……そうだな」
凪もつられて空を見る。
夏の前の夜空。
静かな光が海へ落ちている。
波音が響く。
青年は再び凪を見る。
少しだけ笑った。
柔らかい笑顔だった。
けれど。
凪はその笑顔を知らない。
知らないはずなのに。
胸の奥が少しだけ揺れた。
潮風が吹く。
青年の白金色の髪が揺れる。
月明かりの中。
名前のない青年は静かにそこにいた。
まるで。
海が忘れていった落とし物みたいに。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




