第7話「願い」
歌が聞こえる。
遠く。
海の底から。
ノアはひとり、
禁忌の海を泳いでいた。
崩れた石柱。
沈んだ神殿。
白い砂。
誰もいない世界。
海流さえ眠っているような静けさ。
それでも。
あの歌だけが響いている。
優しく。
寂しく。
懐かしく。
まるで海そのものの声のようだった。
ノアは立ち止まる。
胸が鳴る。
怖い。
少しだけ。
けれど。
引き返したくはなかった。
ざあ、と海が揺れる。
その瞬間。
歌が止んだ。
音が消える。
何も聞こえない。
何も見えない。
それなのに。
気配だけがあった。
光の届かない場所。
そこに誰かがいる。
見られている。
そんな感覚。
ノアはゆっくり前を見る。
暗い海。
けれど。
その奥に。
微かな光が揺れていた。
青でもない。
白でもない。
月明かりにも似た光。
ゆっくりと。
海の奥で揺れている。
その時だった。
声が聞こえた。
男とも。
女とも。
分からない声。
近くで囁かれたような。
遥か遠くから響いたような。
不思議な声だった。
「人魚よ」
ノアの肩が震える。
けれど。
逃げなかった。
声は続く。
「何を望む」
海が静まり返る。
魚も。
海流も。
時間さえ止まったようだった。
何を望む。
その問いだけが残る。
ノアは目を閉じた。
思い浮かぶ。
祭り。
提灯の灯り。
夜空の花火。
スマホの写真。
昼の海。
青空。
白い雲。
そして。
岩場で笑うナギ。
ギターの音。
優しい声。
『また明日』
胸が痛いほど温かくなる。
会いたい。
もっと一緒にいたい。
隣で笑いたい。
同じ景色を見たい。
その願いが。
胸の奥から溢れてくる。
ノアはゆっくり目を開いた。
暗い海の奥を見る。
そこにいる存在へ向かって。
小さく。
けれど確かな声で答える。
「ナギの隣にいたい」
沈黙が落ちる。
ノアは続ける。
「同じ景色を見たい」
「一緒に笑いたい」
声が震える。
けれど。
止まらない。
「もっと一緒にいたい」
それが。
ノアの願いだった。
人間になりたいからじゃない。
海を捨てたいからじゃない。
ただ。
ナギの隣にいたかった。
長い沈黙が続く。
やがて。
暗い海の奥で。
ふっと笑う気配がした。
優しいような。
恐ろしいような。
海そのものが微笑んだような感覚。
そして。
その声が言う。
「それが願いか」
どくり。
心臓が鳴る。
海流が揺れる。
遠い海の底で。
再び歌が響き始める。
静かで。
美しくて。
どこか悲しい歌だった。
ノアは知らない。
その願いが。
どれほど大きな代償へ繋がるのか。
けれど。
もう迷いはなかった。
胸の奥には。
ただひとつ。
ナギの笑顔だけが残っていた。
海の底で。
歌が揺れている。
まるで。
新しい物語の始まりを祝うように。
――いや。
その歌は少しずつ変わっていた。
優しい旋律の奥に。
誰かのすすり泣くような音が混じる。
静かな海のどこかで。
巨大な何かが目を覚ましたような震えが広がる。
暗闇のさらに奥で。
あの月明かりのような光が。
ゆっくりと。
こちらを見返すように脈打った。
そして歌は。
まるで誰かの運命を告げるように。
低く。
不吉に響き続けていた。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




