第6話「海の魔女」
恋だった。
その言葉は。
思ったよりずっと重かった。
深海の神殿へ戻っても。
歌を聞いても。
眠ろうとしても。
胸の奥で静かに揺れている。
ナギが好き。
その事実だけが。
消えない。
ノアはひとり、
神殿の回廊を泳いでいた。
白い石柱。
青い海流。
見慣れた景色。
けれど。
今日はどこか息苦しい。
好きになったからだろうか。
それとも。
願いが大きくなってしまったからだろうか。
隣にいたい。
会いたい。
同じ景色を見たい。
その気持ちは。
もう止められそうになかった。
ざあ、と海流が揺れる。
その時。
ふと。
昔聞いた噂を思い出した。
深海のさらに奥。
誰も近付かない海。
古い歌にだけ残る場所。
海の魔女。
願いを叶える存在。
代わりに何かを奪う存在。
ノアは立ち止まる。
胸が鳴る。
どくり。
どくり。
静かな海の中で。
自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。
「……少しだけ」
誰にも聞こえない声。
「見るだけ」
そう呟いて。
ノアは泳ぎ出した。
神殿を離れる。
白い回廊を抜ける。
人魚たちの歌声が遠ざかる。
やがて。
景色が変わり始めた。
光が減る。
海流が冷たくなる。
魚の姿も少なくなる。
深海は静かだ。
けれど。
ここは違った。
静かすぎる。
まるで。
海そのものが息を潜めているみたいだった。
ノアは泳ぎ続ける。
古い石柱が見える。
崩れた神殿。
半分だけ埋もれた巨大な門。
誰もいない。
何百年も。
誰も触れていないような景色。
それでも。
不思議と恐ろしくはなかった。
むしろ。
どこか懐かしい。
海が生まれる前から、
そこにあったような。
そんな感覚。
ざあ、と海流が揺れる。
その瞬間だった。
歌が聞こえた気がした。
ノアは顔を上げる。
誰もいない。
魚もいない。
人魚もいない。
それなのに。
確かに聞こえた。
遠く。
ずっと遠く。
眠るような旋律。
子守歌にも似ている。
祈りにも似ている。
けれど。
どちらとも違う。
胸の奥へ直接触れるような歌だった。
ノアは息を呑む。
知らない歌。
なのに。
なぜか涙が出そうになる。
寂しい。
温かい。
懐かしい。
感情が混ざる。
不思議な歌だった。
やがて。
海流がゆっくり渦を描く。
暗い海の奥。
遥か先。
何かがいる気がした。
姿は見えない。
輪郭も分からない。
けれど。
確かに。
何かがこちらを見ている。
そんな気配。
どくり。
心臓が鳴る。
怖い。
少しだけ。
本当に少しだけ。
けれど。
目を逸らせない。
ナギの顔が浮かぶ。
花火。
昼の海。
写真。
名前を呼ぶ声。
隣にいたい。
その願いが。
胸の奥で静かに脈打つ。
すると。
どこからともなく。
また歌が聞こえた。
今度は少しだけ近く。
まるで。
海そのものが笑ったみたいに。
ノアは知らない。
その歌の意味を。
その気配の正体を。
けれど。
確かに感じていた。
深海のさらに奥。
誰も近付かない禁忌の海。
その先に。
何かがいる。
願いを聞く存在が。
静かに目を覚まし始めていることを。
遠い海の底で。
歌だけが揺れていた。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




