第5話「歌」
深海には歌が満ちている。
祈りの歌。
別れの歌。
喜びの歌。
人魚たちは歌と共に生きている。
だから。
誰かの歌が変われば。
すぐに分かる。
その日も。
ノアはひとり、
神殿近くの回廊を泳いでいた。
白い石柱。
揺れる海流。
静かな深海。
胸の奥が少し落ち着かない。
最近はいつもそうだった。
気付けば。
ナギのことを考えている。
今頃何をしているのだろう。
ギターを弾いているだろうか。
大学だろうか。
それとも。
海を見ているだろうか。
ノアは小さく笑った。
胸の奥がふっと温かくなる。
それだけで。
自然と歌が零れた。
柔らかな旋律だった。
波に揺られながら。
月の光を思い出しながら。
ギターの音を思い出しながら。
ナギを思いながら。
歌う。
すると。
近くを泳いでいた人魚たちが足を止めた。
ひとり。
またひとり。
不思議そうに振り返る。
ノアは気付かない。
ただ歌っている。
胸の奥から溢れるものを。
そのまま旋律へ変えているだけだった。
やがて。
年長の人魚が、
くすりと笑った。
「やっぱり」
その声で。
ノアはようやく顔を上げる。
「?」
人魚たちは楽しそうだった。
どこか納得したような顔をしている。
「ノア」
ひとりが言う。
「好きな伴侶ができたんだね」
ノアは瞬きをした。
「伴侶?」
別の人魚も笑う。
「その歌」
「伴侶へ向ける歌だもの」
ノアはきょとんとする。
何を言われているのか分からない。
ただ。
胸が少しだけ騒いだ。
「違うよ」
思わず否定する。
「私、ただ――」
そこで言葉が止まった。
ただ。
何だろう。
ナギのことを考えていただけ。
その時間が特別だっただけ。
人魚たちは優しく微笑む。
まるで。
全部分かっているみたいに。
「会いたいんでしょう?」
誰かが言う。
ノアは黙る。
「名前を呼ばれると嬉しい?」
また別の人魚が言う。
ノアは黙る。
「その人が笑うと、
自分も嬉しい?」
静かな声。
ノアは何も言えなかった。
全部そうだったから。
全部。
その通りだったから。
どくり。
胸が鳴る。
ナギの顔が浮かぶ。
岩場。
ギター。
月明かり。
優しい声。
『また明日』
その言葉を思い出しただけで、
胸が温かくなる。
その気持ちに。
ようやく名前が付く。
「……あ」
小さく声が漏れた。
人魚たちは何も言わない。
ただ静かに見守っている。
ノアは胸へ手を当てた。
鼓動が速い。
苦しい。
でも。
嫌じゃない。
むしろ。
とても温かい。
「私」
声が震える。
「ナギが好きなんだ」
初めて口にした。
その瞬間。
世界から音が消えた気がした。
揺れていた海流も。
遠くを泳ぐ魚たちも。
すべてが止まったように感じる。
胸の奥で跳ねた鼓動だけが、
やけにはっきりと響いていた。
指先が熱い。
息が詰まる。
けれど次の瞬間。
張りつめていた何かがほどけるように、
胸の奥へすとんと落ちる。
ああ。
そうだったのだ。
ナギと過ごした時間も。
隣にいたいと願った理由も。
人間になれたらと思った気持ちも。
全部。
好きだったから。
気付いた途端。
これまで胸を満たしていた戸惑いが、
ひとつの光になって繋がっていく。
温かくて。
眩しくて。
少しだけ泣きたくなるほどに。
人魚たちは優しく笑う。
誰も驚かない。
最初から知っていたみたいに。
ノアは少しだけ恥ずかしくなった。
けれど。
不思議と嬉しかった。
好き。
その言葉は。
月の光みたいに静かで。
波音みたいに優しかった。
ノアはゆっくり海面を見上げる。
遥か上。
見えない月。
見えない島。
その向こうに、
ナギがいる。
胸の奥でひとつの願いが強く脈打つ。
もう憧れではない。
恋だった。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




