第4話「代償」
願い。
その言葉が、
頭から離れなかった。
深海の回廊を泳いでいても。
歌を聞いていても。
夜になっても。
ふとした瞬間に思い出す。
――その願いは叶えようとするな。
レヴィの声。
あんな強い口調を聞いたのは初めてだった。
ノアは白い石柱へ手を触れる。
静かな海。
穏やかな海流。
いつもと変わらない景色。
それなのに。
胸の奥だけが落ち着かなかった。
「願い……」
小さく呟く。
その時。
ふと思い出した。
昔。
まだ幼かった頃のことだ。
レヴィと一緒に、
古い歌を聞いたことがある。
人魚たちが歌う、
深海の子守歌。
静かな旋律。
どこか寂しい歌。
その中に。
こんな言葉があった。
――願いを口にするな。
――深い海へ沈むから。
幼いノアは意味が分からなかった。
だから聞いた。
「どうして?」
すると。
歌を教えてくれていた年長の人魚が、
少し困ったように笑った。
「強く望むものほど、
代償も大きいからだよ」
その言葉を。
今になって思い出す。
強く望むものほど、
代償も大きい。
ざあ、と海流が揺れた。
どこかで聞いた言葉だった。
そうだ。
レヴィも言っていた。
深海の奥。
海の魔女の話をした時だ。
――海の魔女は、
願いを好む。
――強く望むものほど、
代償も大きい。
その時は。
よく分からなかった。
自分には関係ないと思っていた。
けれど。
今は少し違う。
ノアはゆっくり目を閉じる。
思い浮かぶのは、
ナギのことばかりだった。
花火。
昼の海。
写真。
名前を呼ぶ声。
そして。
隣にいたいという願い。
胸が少し苦しくなる。
ただ会いたいだけだったはずなのに。
その気持ちはいつの間にか、
願いと呼べるほど大きくなっていた。
「……これも願いなのかな」
誰にも聞こえない声。
もしそうなら。
代償を払うことになるのだろうか。
ナギといたい気持ちと。
失うことへの不安が。
胸の中で静かにぶつかり合う。
答える者はいない。
その時だった。
回廊の向こうから、
小さな話し声が聞こえる。
年若い人魚たちだった。
「知ってる?」
「何を?」
「海の底の話」
ノアは思わず足を止める。
海の底。
その言葉だけで、
人魚たちは少し声を潜める。
「願いを叶える存在がいるんだって」
「本当に?」
「古い歌にも出てくるよ」
くすくすと笑う声。
けれど。
その笑い声には少しだけ恐れも混じっていた。
「でも怖いんでしょ」
「うん」
「願いを叶える代わりに、
何か持っていかれるんだって」
海流が静かに揺れる。
ノアはその場に立ち尽くした。
幼い頃から聞いてきた噂。
昔話。
歌。
深海のさらに奥にいる存在。
誰も見たことがない。
誰も近付かない。
けれど。
確かに語り継がれている。
まるで。
海そのものみたいに。
「声を失った人魚がいるって聞いた」
「名前を失った人魚もいるって」
「姿を変えられたって話もあるよ」
人魚たちの声が遠ざかる。
やがて静寂が戻った。
ノアはひとり、
その場に残る。
声。
名前。
姿。
何かを失う。
代償。
怖い。
少しだけ。
本当に少しだけ。
怖いと思った。
もし声を失ったら。
ナギに名前を呼べなくなる。
もし名前を失ったら。
ナギとの思い出まで消えてしまうのだろうか。
想像しただけで、
胸が冷たく締め付けられた。
けれど。
それ以上に。
胸の奥で揺れるものがある。
ナギ。
会いたい。
もっと一緒にいたい。
隣で笑いたい。
その気持ちは、
消えてくれなかった。
怖いから諦める。
そう考えようとしても。
ナギの笑顔を思い出した瞬間、
その考えは波にさらわれるように消えてしまう。
むしろ。
日に日に大きくなっている。
不安も。
願いも。
どちらも同じように膨らんでいく。
ノアはゆっくり海面を見上げた。
遥か上。
月の光は見えない。
けれど。
その向こうに、
ナギがいる。
胸へ手を当てる。
どくり。
心臓が鳴った。
――強く望むものほど、
代償も大きい。
レヴィの言葉が蘇る。
怖くないわけじゃない。
失いたくないものだってある。
それでも。
ナギへの想いだけは、
どうしても手放せなかった。
それでも。
もし。
本当に願いが叶うのなら。
代償があるとしても。
その先にナギとの未来があるのなら。
ノアは静かに目を閉じた。
深海は今日も静かだった。
けれど。
その胸の中だけは。
恐れを抱えたまま。
それでも前へ進もうとする決意へと。
少しずつ、
近付いていた。
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ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
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