第3話「もしも人間なら」
月の光が海へ落ちている。
深海から見れば、
海面近くは明るすぎる場所だった。
ノアはひとり、
浅い海流の中を泳いでいた。
最近よく来る場所だ。
ここへ来れば、
月が見える。
ナギが見ている空に、
少しだけ近付ける気がした。
ざあ、と波が揺れる。
海面の向こうには、
島の灯りが見えていた。
小さな光。
けれど。
ノアはその灯りが好きだった。
「また来ていたのか」
低い声が響く。
振り返る。
レヴィだった。
長い青銀の髪が海流に揺れる。
深海色の瞳。
相変わらず静かな顔だった。
「お兄様」
ノアは少し笑う。
レヴィは隣まで来ると、
海面の向こうを見上げた。
何も言わない。
けれど。
最近のノアが何を見ているのか、
きっと知っている。
そんな気がした。
しばらく沈黙が続く。
波音だけが聞こえる。
ノアは海面を見上げたまま、
ぽつりと呟く。
「ねぇ、お兄様」
「なんだ」
「もしも」
少しだけ迷う。
自分でも変な話だと思った。
けれど。
胸の奥にある気持ちが、
勝手に言葉になる。
「人間になれたらな」
その瞬間だった。
海流が止まった気がした。
ノアは目を瞬く。
隣を見る。
レヴィが動かない。
まるで時間ごと凍り付いたみたいに。
深海色の瞳だけが、
真っ直ぐノアを見ていた。
ノアは少し困惑する。
「お兄様?」
返事がない。
静かな海。
月の光。
その中で。
レヴィだけが異様だった。
やがて。
低い声が落ちる。
「今、何と言った」
ノアは少し首を傾げた。
「だから」
「人間になれたら――」
「二度と口にするな」
鋭い声だった。
ノアは息を呑む。
レヴィがこんな声を出すのを、
ほとんど聞いたことがない。
深海の王族らしい静けさも。
余裕も。
今はなかった。
「お、お兄様……?」
レヴィは何も言わない。
ただ。
強く目を伏せる。
まるで。
聞きたくないものを聞いてしまったみたいに。
ノアは戸惑う。
そんなにおかしなことを言っただろうか。
ただ。
少し思っただけだ。
ナギの隣で花火を見たい。
昼の海を見たい。
同じ場所を歩いてみたい。
それだけなのに。
長い沈黙が落ちる。
やがて。
レヴィが静かに口を開いた。
「その願いは」
低い声だった。
けれど。
どこか苦しそうだった。
「叶えようとするな」
ノアは瞬きをする。
「願い?」
レヴィは答えない。
ただ海面を見上げている。
月の光が揺れる。
その横顔は。
今まで見たことがないほど硬かった。
「お兄様」
呼んでも。
返事はない。
しばらくして。
レヴィはゆっくり背を向けた。
長い尾ひれが海流を揺らす。
「忘れろ」
それだけ言う。
静かな声だった。
けれど。
それ以上聞くなと告げるような声だった。
ノアはその背中を見送る。
どうして。
そこまで嫌そうな顔をするのだろう。
どうして。
そんなに苦しそうなのだろう。
分からない。
何も分からない。
ただひとつ。
レヴィが口にした言葉だけが、
胸に残った。
――願い。
ざあ、と波が揺れる。
ノアは海面を見上げた。
遠い月。
遠い陸。
遠いナギ。
胸の奥が少し痛む。
そして。
その痛みは。
忘れろと言われたはずなのに。
少しずつ大きくなっていく気がした。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




