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夜凪に溶ける  作者: 深幸-みさき-
第5章:「海の魔女」
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第2話「届かない」

深海は今日も静かだった。


白い神殿。


崩れた石柱。


青く揺れる海流。


何百年も変わらない景色。


ノアは回廊を泳ぎながら、

ぼんやりと天井を見上げた。


遠い。


遥か上。


海面は見えない。


月の光も届かない。


深海側の王族として生まれてから、

ずっと見てきた景色だった。


嫌いじゃない。


むしろ好きだ。


静かで。


綺麗で。


安心する。


それなのに。


最近は少しだけ落ち着かなかった。


「ノア」


声がする。


振り返ると、

年若い人魚たちが手を振っていた。


「歌の練習する?」


「今日は新しい歌を教わるんだって」


「来る?」


いつもなら行く。


歌は好きだ。


人魚にとって歌は特別だから。


感情を伝えるもの。


祈るもの。


想いを残すもの。


けれど。


「ごめん」


ノアは少し笑う。


「今日はいいや」


人魚たちは不思議そうな顔をした。


でも深くは聞かなかった。


ノアはそのまま泳ぎ続ける。


白い神殿の柱に手を触れる。


静かな海流。


遠くで誰かの歌が聞こえる。


全部いつも通りだった。


本当に。


何も変わらない。


なのに。


何かが足りない。


ノアは立ち止まる。


胸の奥が少しだけ空っぽだった。


どうしてだろう。


考える。


そして。


すぐに答えが浮かんだ。


ナギだ。


その瞬間。


胸がぎゅっと苦しくなる。


今までなら。


会えない時間も平気だった。


また夜になれば会える。


また明日になれば話せる。


そう思っていた。


でも。


今日は違う。


祭りの夜を思い出してしまう。


花火。


灯り。


笑い声。


そして。


「一緒に祭り行けたらいいのにな」


あの言葉。


胸の奥へ落ちたまま、

消えてくれない。


ノアはゆっくり目を閉じる。


もし。


一緒に行けたら。


花火を近くで見られたら。


隣で笑えたら。


そんなことばかり考えてしまう。


「……変なの」


小さく呟く。


人魚の世界は変わらない。


神殿もある。


歌もある。


お兄様もいる。


お父様もいる。


大好きな海もある。


何も失っていない。


それなのに。


ナギがいないだけで。


どうしてこんなに寂しいのだろう。


ざあ、と海流が揺れる。


その時だった。


遠くから、

低く静かな歌が聞こえた。


ノアは顔を上げる。


知っている声だった。


レヴィだ。


本当に珍しく。


ほんの短く。


小さく歌っている。


深海より静かな歌。


少し寂しい歌。


昔聞いたことのある旋律に似ていた。


けれど。


今のノアには、

その歌よりも。


夜の岩場で聞くギターの音の方が鮮明だった。


ぽろん、と優しい音。


波音と混ざる旋律。


名前を呼ぶ声。


笑う顔。


全部思い出せる。


ノアは胸へ手を当てた。


温かい。


でも少し苦しい。


会いたい。


ただそれだけなのに。


どうしてこんな気持ちになるのだろう。


神殿の向こう。


深海のさらに上。


遥かな海面の先。


そこにナギがいる。


けれど。


今は会えない。


今すぐには届かない。


その距離が。


今日だけはひどく遠く感じた。


ノアはゆっくり海面の方を見上げる。


見えない月を探すように。


そして小さく呟いた。


「……会いたいな」


その声は。


誰にも届かないまま、

静かな深海へ溶けていった。

ご覧いただきありがとうございます。

『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。


ふたつの海の物語──。

真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。

深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。


▼ もうひとつの人魚BL

『深海に溺れる』

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