第2話「届かない」
深海は今日も静かだった。
白い神殿。
崩れた石柱。
青く揺れる海流。
何百年も変わらない景色。
ノアは回廊を泳ぎながら、
ぼんやりと天井を見上げた。
遠い。
遥か上。
海面は見えない。
月の光も届かない。
深海側の王族として生まれてから、
ずっと見てきた景色だった。
嫌いじゃない。
むしろ好きだ。
静かで。
綺麗で。
安心する。
それなのに。
最近は少しだけ落ち着かなかった。
「ノア」
声がする。
振り返ると、
年若い人魚たちが手を振っていた。
「歌の練習する?」
「今日は新しい歌を教わるんだって」
「来る?」
いつもなら行く。
歌は好きだ。
人魚にとって歌は特別だから。
感情を伝えるもの。
祈るもの。
想いを残すもの。
けれど。
「ごめん」
ノアは少し笑う。
「今日はいいや」
人魚たちは不思議そうな顔をした。
でも深くは聞かなかった。
ノアはそのまま泳ぎ続ける。
白い神殿の柱に手を触れる。
静かな海流。
遠くで誰かの歌が聞こえる。
全部いつも通りだった。
本当に。
何も変わらない。
なのに。
何かが足りない。
ノアは立ち止まる。
胸の奥が少しだけ空っぽだった。
どうしてだろう。
考える。
そして。
すぐに答えが浮かんだ。
ナギだ。
その瞬間。
胸がぎゅっと苦しくなる。
今までなら。
会えない時間も平気だった。
また夜になれば会える。
また明日になれば話せる。
そう思っていた。
でも。
今日は違う。
祭りの夜を思い出してしまう。
花火。
灯り。
笑い声。
そして。
「一緒に祭り行けたらいいのにな」
あの言葉。
胸の奥へ落ちたまま、
消えてくれない。
ノアはゆっくり目を閉じる。
もし。
一緒に行けたら。
花火を近くで見られたら。
隣で笑えたら。
そんなことばかり考えてしまう。
「……変なの」
小さく呟く。
人魚の世界は変わらない。
神殿もある。
歌もある。
お兄様もいる。
お父様もいる。
大好きな海もある。
何も失っていない。
それなのに。
ナギがいないだけで。
どうしてこんなに寂しいのだろう。
ざあ、と海流が揺れる。
その時だった。
遠くから、
低く静かな歌が聞こえた。
ノアは顔を上げる。
知っている声だった。
レヴィだ。
本当に珍しく。
ほんの短く。
小さく歌っている。
深海より静かな歌。
少し寂しい歌。
昔聞いたことのある旋律に似ていた。
けれど。
今のノアには、
その歌よりも。
夜の岩場で聞くギターの音の方が鮮明だった。
ぽろん、と優しい音。
波音と混ざる旋律。
名前を呼ぶ声。
笑う顔。
全部思い出せる。
ノアは胸へ手を当てた。
温かい。
でも少し苦しい。
会いたい。
ただそれだけなのに。
どうしてこんな気持ちになるのだろう。
神殿の向こう。
深海のさらに上。
遥かな海面の先。
そこにナギがいる。
けれど。
今は会えない。
今すぐには届かない。
その距離が。
今日だけはひどく遠く感じた。
ノアはゆっくり海面の方を見上げる。
見えない月を探すように。
そして小さく呟いた。
「……会いたいな」
その声は。
誰にも届かないまま、
静かな深海へ溶けていった。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




