第6話「海の王」
海底遺跡の最奥は、
いつ訪れても静かだった。
人魚たちの歌声も届かない。
海流さえ、
ここでは穏やかになる。
巨大な石柱が並ぶ神殿。
その奥へ続く白い階段を、
ノアはゆっくり泳いでいた。
呼ばれたのだ。
海の王に。
何か悪いことをしただろうか。
少しだけ考えたけれど、
思い当たることが多すぎてやめた。
最近は海面へよく行っている。
レヴィにも何度も注意されている。
だから少しだけ緊張する。
神殿の最奥。
巨大な石柱の間に、
ひとりの男が立っていた。
長い黒髪。
深海みたいな暗い瞳。
白銀にも見える巨大な尾びれ。
圧倒的な存在感。
海の王だった。
その場にいるだけで、
周囲の海流すら従っているように見える。
幼い頃から見ている父親なのに。
時々ノアは思う。
お父様は本当に人魚なのだろうかと。
もっと別の、
海そのものに近い何かなのではないかと。
「お父様」
ノアが頭を下げる。
王は静かにこちらを見た。
深海より深い瞳。
何を考えているのか、
いつも分からない。
しばらく沈黙が落ちる。
その静けさすら、
どこか心地良かった。
やがて。
王がぽつりと口を開く。
「最近、
月の匂いがするな」
ノアは目を瞬いた。
「……分かるの?」
王は答えない。
ただ静かに、
ノアを見ている。
その視線は責めるものではなく。
どこか遠いものを見るような目だった。
「海面へ行っているそうだな」
怒られると思った。
けれど声は穏やかだった。
ノアは素直に頷く。
「うん」
「綺麗か」
その問いに、
ノアは少し笑った。
「綺麗だよ」
すぐに答えられた。
夜の海。
月の光。
波の音。
ナギのギター。
全部が綺麗だった。
王は静かに聞いている。
ノアは続けた。
「光もいっぱいあるし」
「歌もあるの」
「歌?」
初めて、
王の瞳が少しだけ揺れた。
ノアは嬉しくなって話す。
「ギターっていうんだよ」
「人間の音楽」
「海にはない音なの」
思い出すだけで、
胸が温かくなる。
ノアは自然と笑っていた。
王はそんな息子を見つめている。
その表情は、
いつもより少しだけ柔らかかった。
「そうか」
ただ一言。
それだけだった。
けれど。
その声には、
どこか懐かしむような響きがあった。
ノアは少し首を傾げる。
「お父様も、
海面へ行ったことあるの?」
王は答えない。
代わりに、
遥か上を見上げた。
遠い海面。
届かない月。
その瞳に映ったものを、
ノアは知らない。
長い沈黙の後。
王は静かに言った。
「海は広い」
ノアは瞬く。
「深海だけが、
海ではない」
その言葉は、
どこか不思議だった。
まるで許しているみたいで。
まるで警告しているみたいで。
意味はよく分からない。
けれど。
王の声は優しかった。
その時。
神殿の入り口から、
ひとつの気配が近付く。
レヴィだった。
王を見る。
ノアを見る。
それから小さく眉を寄せた。
「……お前、
また海面へ行ったのか」
「行った」
「ノア」
「お父様は怒らなかったよ」
その瞬間。
レヴィが無言で父親を見る。
王は何も言わない。
ただ静かに佇んでいる。
レヴィは小さく息を吐いた。
その様子が少し面白くて、
ノアは笑った。
「お兄様だけ厳しい」
「お前が無防備すぎるんだ」
「そうかな?」
「そうだ」
即答だった。
ノアはくすくす笑う。
レヴィは呆れた顔をしている。
王はそんな二人を見つめながら、
静かに目を細めた。
深海の王。
海そのものに近い存在。
けれどその時だけは、
どこか普通の父親みたいに見えた。
やがて。
王はふたりへ背を向ける。
長い尾びれが、
ゆっくり海流を揺らした。
「レヴィ」
低い声。
レヴィが顔を上げる。
「見失うな」
短い言葉。
けれど。
その一言だけ、
どこか重かった。
レヴィの表情が僅かに固まる。
ノアだけが、
意味を理解できず首を傾げた。
神殿の外では、
深海の海流が静かに揺れていた。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




