第5話「海の魔女」
深海には、
“行ってはいけない場所”がある。
幼い頃から、
何度もそう教えられてきた。
白い遺跡よりさらに下。
光の届かない海。
海流さえ静まり返る、
深い深い底。
そこには、
海の魔女がいる。
――そう、
歌で伝えられていた。
「本当にいるの?」
幼い頃、
ノアがそう聞いた時。
周囲の人魚たちは、
誰もすぐには答えなかった。
ただ静かに目を伏せるだけだった。
それくらい、
海の魔女は特別な存在だった。
願いを叶える。
代わりに、
何かを奪う。
名前。
声。
姿。
寿命。
海の魔女は、
そういう“代償”を好むのだと、
古い歌には残っている。
ノアは昔から、
少しだけその存在が気になっていた。
怖いのに。
どこか惹かれる。
深海のさらに下なんて、
どんな景色なのだろう。
その日も、
ノアは海底遺跡の回廊を泳いでいた。
すると。
人魚たちの小さなざわめきが聞こえる。
「……最近、
深部の海流がおかしいらしい」
「魔女が目覚めたんじゃない?」
「やめて、
縁起悪い」
静かな声。
けれど、
どこか怯えている。
ノアは少し首を傾げた。
「海の魔女って、
そんなに怖いの?」
その瞬間。
周囲の空気が、
ぴたりと止まった。
年長の人魚が、
慌てたように声を潜める。
「軽々しく名前を呼ぶものじゃない」
「どうして?」
「海に聞かれる」
ざあ、と海流が揺れた。
ノアは目を瞬く。
冗談なのか、
本気なのか分からない。
でも人魚たちの顔は、
少し強張っていた。
その時。
「ノア」
低い声が落ちる。
振り返ると、
レヴィが立っていた。
深海色の瞳が、
静かにこちらを見る。
周囲の人魚たちは、
ほっとしたように離れていった。
ノアは尾ひれを揺らす。
「お兄様」
レヴィはゆっくり近付いてくる。
「……海の魔女の話をしていたのか」
「うん」
ノアは素直に頷く。
「本当にいるの?」
一瞬だけ。
レヴィの目が、
わずかに揺れた。
それは恐れにも、
警戒にも見えた。
「……いる」
低い声。
ノアは少し驚く。
「会ったことある?」
「ない」
レヴィはすぐ答えた。
「だが、
近付くな」
その言葉には、
今までとは違う重さがあった。
ノアは小さく瞬く。
「そんなに危ないの?」
レヴィは少し黙る。
深海の水だけが、
静かに揺れていた。
やがて、
ぽつりと呟く。
「海の魔女は、
“願い”を好む」
「願い?」
「強く望むものほど、
代償も大きい」
ノアは首を傾げる。
まだ、
よく分からなかった。
願い。
代償。
そんなもの、
自分には関係ないと思っている。
今のノアにあるのは、
ただひとつだけ。
夜になれば、
ナギへ会えるという期待。
ギターの音を聞ける嬉しさ。
それだけだった。
だから。
この時のノアは、
まだ知らない。
“人間の隣へ行きたい”
という願いが。
どれほど深く、
海へ沈んでいくものなのかを。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




