第2話「兄妹」
深海の回廊へ、
小さな歌が響いていた。
柔らかく、
楽しそうな旋律。
白い遺跡の柱の間を、
ノアが機嫌良さそうに泳いでいく。
尾ひれが揺れるたび、
青と銀の鱗が淡く光った。
その様子を、
近くにいた人魚たちが不思議そうに見ている。
「……珍しい」
浅瀬側の人魚が、
小さく囁く。
「ノアがあんなに歌ってる」
「最近ずっとだよね」
けれどノア本人は、
そんな視線に気付いていなかった。
今の頭の中は、
凪のことでいっぱいだ。
今日のギターも綺麗だった。
波の音と混ざる旋律。
名前を呼ぶ声。
思い出すだけで、
胸の奥が温かくなる。
その時。
「……随分楽しそうだな」
低い声が、
静かな海へ落ちた。
ノアが振り返る。
白い石柱の影。
そこに、
レヴィが立っていた。
長い青銀の髪。
深海色の瞳。
静かな海そのものみたいな、
冷たい美しさ。
ノアは少し笑う。
「お兄様」
レヴィはゆっくり近付いてくる。
その視線が、
ノアを真っ直ぐ捉えた。
「最近、
海面へ行っているな」
ノアは隠す気もなく頷く。
「行ってるよ」
「……何をしている」
「歌を聞いてるの」
レヴィの眉がわずかに動く。
ノアは嬉しそうに続けた。
「人間の音、
すごく綺麗なんだよ」
「ノア」
「ギターっていうの。
波の音と混ざると、
もっと綺麗で――」
「ノア」
二度目は、
少し低かった。
ノアはむっと唇を尖らせる。
「どうしてそんな顔するの?」
「人間へ近付きすぎるな」
「でも」
ノアは尾ひれを揺らした。
「ナギは怖くないよ」
その名前を聞いた瞬間、
レヴィの表情が僅かに変わる。
ほんの少し。
けれど、
ノアには分かった。
「……人間か」
「うん」
ノアは嬉しそうに頷く。
「優しいし、
音も綺麗で――」
「ノア」
レヴィの声が、
静かに落ちる。
「人間へ執着するな」
その言葉に、
ノアは目を瞬いた。
執着。
どうしてそんな重い言い方をするのだろう。
ただ、
また会いたいだけなのに。
また歌を聞きたいだけなのに。
ノアは少し不満そうに兄を見る。
「お兄様もでしょ」
ぴたり、と空気が止まった。
レヴィの視線が細くなる。
「……何の話だ」
「最近、
浅瀬側ばっかり行ってる」
ノアはじっと兄を見つめた。
「人間に会ってるんでしょ」
レヴィが黙る。
その沈黙だけで十分だった。
ノアは少し得意そうに笑う。
「同じなのに、
どうして私だけだめなの?」
レヴィはしばらく何も言わなかった。
周囲の海流だけが、
静かに揺れている。
やがて。
レヴィは低い声で呟く。
「……お前はまだ、
何も知らない」
ノアは首を傾げる。
「?」
けれどレヴィは、
それ以上説明しなかった。
ただ静かに背を向ける。
長い尾ひれが、
深海の青へ溶けていく。
その背中を見送りながら、
ノアは少しだけ眉を寄せた。
「変なお兄様……」
小さく呟く。
でも次の瞬間には、
もう別のことを考えていた。
今夜、
ナギはどんな音を鳴らすだろう。
名前を呼んでくれるだろうか。
“また明日”
人間の言葉なのに、
どうしてこんなに嬉しいのだろう。
ノアはゆっくり海面を見上げた。
遥か遠く。
月の光が、
薄く揺れていた。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




