第1話「深海」
海の底は静かだった。
深く。
どこまでも青い世界。
海面の光は、
ここまではほとんど届かない。
代わりに、
遺跡の隙間を漂う小さな発光魚たちが、
淡く海を照らしている。
白い石柱。
崩れた神殿。
海藻に覆われた巨大な門。
遥か昔に沈んだ古代遺跡は、
今では人魚たちの“還る場所”になっていた。
その中を、
一人の人魚がゆっくり泳ぐ。
白金の髪が水中へ広がる。
深い青の尾ひれが、
静かな海流を揺らした。
ノアだった。
海面から戻ったばかりの身体には、
まだ少しだけ月の匂いが残っている。
ノアはゆっくり遺跡の回廊を抜ける。
途中、
浅瀬側の人魚たちがこちらを見た。
小さく歌を交わす者。
静かに眠る者。
深海魚と遊ぶ幼い人魚たち。
海の底では、
歌が会話だった。
言葉より柔らかく、
感情を伝えるもの。
けれど今のノアの頭には、
別の音ばかり浮かんでいた。
ぽろん、と。
静かな弦の音。
夜の波へ溶ける旋律。
凪のギターだった。
ノアは少し目を閉じる。
思い出すだけで、
胸の奥が温かくなる。
不思議だった。
人間の音なのに。
どうしてあんなに、
安心するのだろう。
「……ノア」
不意に声がした。
ノアが振り返る。
遺跡の柱の影。
そこに、
長い青銀の髪を揺らした人魚が立っていた。
深海色の瞳。
静かな圧を纏うその姿は、
周囲の人魚たちとは明らかに違う。
レヴィだった。
ノアは少しだけ目を瞬く。
「お兄様」
レヴィはゆっくり近付いてくる。
尾ひれが水を裂く音さえ、
静かだった。
その視線が、
ノアの髪先を捉える。
「……また海面へ行っていたのか」
低い声。
責めるようではない。
けれど、
深海の冷たさみたいな響きがある。
ノアは少し視線を逸らした。
「……行った」
「ノア」
「でも」
ノアはふわりと尾ひれを揺らす。
「綺麗なんだよ」
レヴィが黙る。
ノアはゆっくり海面を見上げた。
遥か上。
ほとんど見えない場所。
けれどその向こうに、
凪がいる。
夜の海がある。
ギターの音がある。
「人間の世界、
思ってたよりずっと綺麗だった」
その言葉に、
レヴィの表情がわずかに曇る。
けれどノアは気付かない。
今の胸の中は、
凪のことでいっぱいだった。
“また明日”
人間の言葉なのに。
どうしてあんなに、
胸が温かくなるのだろう。
ノアは静かに目を閉じる。
波の代わりに、
ギターの音を思い出す。
名前を呼ぶ声を思い出す。
ナギ。
その響きだけで、
少し嬉しくなる。
海の底は静かだった。
なのにノアの心だけが、
月の光が届く海面へ向かっていた。
早く、
夜になればいいのに。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




