第2話 袁紹ちゃん、汜水関で病む。②
袁紹軍―5千。
曹操軍、孫堅軍―各2千。
そして、劉備率いる義勇兵―1千。
総勢1万の反董卓連合軍は、汜水関へ向け、急ぎ進軍していた。
すでに日が傾き始めている。
やがて、軍は足を止める。
周囲を森に囲まれた場所。
そこで、野営の準備が始まった。
天幕が張られ、焚き火が起こされる。
兵たちが忙しなく動き回り、あちこちで声が飛び交う。
その中で――紹香は、自分にあてがわれた天幕の中にいた。
簡素な椅子に腰を下ろし、背を預ける。
視線はぼんやりと宙をさまよい、何も捉えていない。
だが――
紹香(体が……気持ち悪い)
ふと、そんな感覚が浮かぶ。
汗と埃が混じり合い、肌に貼りついている。
もう何日も、まともに身体を洗っていなかった。
ときどき、濡れた布で拭う程度。
紹香は、ゆっくりと立ち上がった。
天幕の入口へと歩き――外へ出た。
兵卒「袁紹様、どちらへ?」
見張りの兵が、慌てて声をかける。
紹香「……水浴び」
兵卒は一瞬きょとんとしたが――すぐに顔を赤らめた。
兵卒「し、失礼しました! ごゆっくり!」
あわてて視線を逸らし、姿勢を正す。
陣地の中は、戦の準備で慌ただしい。
その間を、紹香はふらふらと歩いていく。
誰もが忙しく動く中で、彼女だけがどこか場違いだった。
当然だが――風呂のような設備など、どこにもない。
紹香は、ふと足を止めた。
森の方へ、視線を向ける。
紹香(……山なら、池とか……川とか……あるかもしれない)
紹香は、またゆっくりと歩き始めた。
陣地を抜けると、すぐに森へと入る。
木々の間を抜ける風が、ひやりと頬に触れる。
地面は柔らかく、落ち葉が足音を吸い込む。
紹香は、力なく歩き続けた。頭の中は――ただ一つ。
(洗いたい)
それ以外のことは、考えるのが面倒だった。
その時。
「ケケケケケッ」
乾いた、高い声。
どこか歪んだ笑い声のような音が、森の奥から響いた。
紹香は、ゆっくりと顔を上げる。
視線を、声の方へ向ける。
そこに――人影があった。
人の子供ほどの小さな体。
赤黒く濁った肌。
頭には、ねじれた二本の角。
そして、その手には――血のこびりついた斧。
紹香「……妖……怪……?」
記憶が、ぼんやりと浮かぶ。
自分のいた世界では、もう存在しないもの。
だが――昔は、確かにいたとされるもの。
紹香(……やっぱり。ここは私がいた世界とは……違うんだ……)
その間にも、影が増える。
一体。
また一体。
気づけば、数体の妖怪達が、紹香の周囲を取り囲んでいた。
「ケケケケケッ」
「ケケケケケケッ」
甲高い笑い声が、あちこちから響く。
手には、血のついた包丁。棍棒。
じりじりと、距離を詰めてくる。
だが――紹香は、動かなかった。
怖い、という感情がどこか遠い。
ただ、状況を見ているだけ。
紹香(あぁ……私……また死ぬんだ……)
その結論に、驚きはなかった。
(……フフ……ウケる……)
小さく、笑みがこぼれた。
「キエエエエエッ!!」
耳をつんざくような叫び声とともに、妖怪たちが一斉に飛びかかってきた。
地面を蹴る音。
空気を裂く気配。
複数の殺意が、一気に紹香へと収束する。
森の中で――少女は、無防備なまま立ち尽くし、ゆっくりと目を閉じた。
その時だった。
砂の念術――≪砂縛鎖≫
静かな声が、森の空気を震わせた。
次の瞬間。
乾いた土が盛り上がり、無数の砂がうねるように蠢いた。
それはまるで生き物のように伸び、絡み合いながら縄の形を成す。
そして――襲いかかってきた妖怪たちの手足へ、一斉に絡みついた。
「ギィッ!?」
「キェッ!?」
砂でできた縄は、ぎしりと音を立てながら締め上げる。
腕を、足を、胴を――容赦なく拘束し、その動きを完全に封じた。
ゆっくりと目を開けた紹香のすぐ前で、妖怪たちがもがく。
だが、どれだけ力を込めても、砂の鎖はびくともしない。
その時――紹香の視界の端を、一筋の光が横切った。
ズパッ
空気が裂ける音。
一瞬、何が起きたのか分からない。
次の瞬間。
目の前にいた妖怪の首が、ふわりと宙へ浮かび――ゆっくりと、回転した。
胴体から遅れて、血が噴き出す。
スパッ
ブシュッ
間髪入れずに、周囲の妖怪たちが次々と斬り伏せられていく。
動く影。
だが、その動きは速すぎて、目で追えない。
ただ、光だけが走る。
妖怪たちの笑い声が、悲鳴へと変わり――そして、途切れる。
静寂。
さっきまで取り囲んでいた気配が、すべて消えていた。
閃光が、止まる。
そこに立っていたのは一人の女性。
褐色の肌が、木漏れ日に照らされて淡く光る。
鋭い目。引き締まった体躯。
長刀を静かに下ろし、周囲を一瞥する。
紹香は、その姿をぼんやりと見ていた。
紹香(……この人は、えっと……顔良だっけ……)
名前が浮かんだ、その時。
顔良が、こちらへ向かって歩き出した。
つかつかと距離を詰める。
そして――
パアンッ
乾いた音が、森に響いた。
一瞬、何が起きたのか分からない。
次に来たのは――頬に走る、鋭い熱。
じん、と痛みが広がる。
顔良は、そのまま間髪入れずに手を伸ばした。
胸ぐらを、がっちりと掴む。
顔良「お前ッ! なぜ一人で森に入った!」
怒声が、間近で叩きつけられる。
顔良「我々は、お前の命を守るつもりだ!だがな――」
掴む力が、さらに強まる。
顔良「当のお前が死にたがるのでは、守るものも守れない!」
視線が、真っ直ぐに突き刺さる。
顔良「少しは、生きる努力をしろッ!!」
森に、声が響く。
だが――
紹香は、わずかに視線を戻しただけだった。
痛みも、怒鳴り声も。
どこか遠い。
紹香「……あなたに、何が分かるの?」
ぽつりと、感情の薄い声。
顔良「……なに?」
眉が、わずかに動く。
紹香は、ゆっくりと続けた。
紹香「私はね……もう死んでるの」
顔良「な……死……?」
言葉が、途切れる。
掴んでいた手の力が、わずかに緩む。
紹香「私にとって、この世界は……消化試合なんだよ」
淡々とした言葉。
だが、その中にあるのは――完全な諦め。
顔良は、何も言わなかった。
ただ、じっと紹香を見つめる。
森の音が、戻ってくる。
風が葉を揺らし、かすかな音を立てる。
やがて。
顔良は、ゆっくりと手を離した。
そして、口を開く。
顔良「お前が、何を言っているかは分からない」
率直な言葉。
だが、その声は先ほどよりも落ち着いていた。
顔良「だが――」
一歩、近づく。
顔良「この手に伝わる感触」
さきほど掴んでいた胸元を、軽く見る。
顔良「そして、ぬくもりが証明している」
視線が、真っ直ぐに紹香へ向けられる。
顔良「この地で生きる民や兵と同じように――お前も、生きていると」
はっきりと、言い切る。
紹香は、何も言わない。
ただ、少しだけ目を伏せた。
顔良「……今一度、今後の自分の生き方について、よく考える事だ」
それだけ言うと、顔良は視線を外した。
紹香の中で。
何かが、わずかに揺れる。
紹香(……私が……)
ゆっくりと、思考が浮かぶ。
紹香(この世界で……生きてる……)
はっきりとはしない。
だが、完全に否定もできない。
紹香は、ゆっくりと振り向いた。
来た道の方へ。
足を、一歩前に出す。
やはり重い。
だが、止まることはなかった。
紹香「……戻るね」
小さく、言う。
紹香「……助けてくれて、ありがとう」
振り返らないまま。
そのまま、力なく歩き出した。
木々の間へ、姿が消えていく。
顔良「……」
残された顔良は、何も言わなかった。
ただ、その背中を――静かに見つめていた。




