第1話 袁紹ちゃん、号令す。④
その夜、袁紹軍――陣地。
戦いの余韻が、まだ地に残っていた。
遠くでは、負傷兵のうめき声。
焚き火のはぜる音。
昼間の喧騒とは打って変わって、静かな――けれどどこか落ち着かない空気が、陣全体を包んでいる。
その一角。
ひときわ大きな天幕の中。
紹香は、簡素な木の椅子に腰を下ろしていた。
背筋を伸ばすでもなく、かといって崩れるでもない。
視線は、どこにも定まっていなかった。
その正面。
老将・田豊が、静かに立っている。
白髪と白髭。
その目は鋭く、しかしどこか探るように紹香を見据えていた。
そしてその背後には――顔良と文醜。
腕を組み、動かずに立つ二人。
2人の影が、灯りに揺られながら、紹香の上へと覆いかぶさるように落ちている。
逃げ場のない圧。
だが、紹香はそれを受け止める気力すら残っていなかった。
田豊が、ゆっくりと口を開く。
「我らは、おぬしをこのまま解放するわけにはいかぬ」
紹香は、少しだけ視線を上げた。
「……なぜですか?」
問いは、淡々としている。
感情の起伏はほとんどない。
「董卓軍との戦は、まだ続いておる」
田豊は一歩、前へ出る。
「もし今……反董卓連合軍の盟主――袁紹様の行方が知れぬとなれば、連合軍の瓦解は必至」
空気が、わずかに張り詰める。
「そうならぬよう……戦いが終わるまでは、おぬしには袁紹様のふりをしてもらう」
「……」
返事はない。
ただ、静かにその言葉を受け止める。
やがて――
紹香は、ゆっくりと視線を上へ向けた。
天幕の天井。
揺れる灯りが、布に影を落としている。
その揺らぎを、ぼんやりと見つめながら。
胸の奥に、ひとつの感覚が浮かび上がってきていた。
――耳をつんざく、クラクションの音。
視界いっぱいに迫ってきた、巨大な鉄の塊。
(……ああ)
紹香は、ぼんやりとしたまま、ゆっくりと瞬きをした。
(私、あの時……)
自分はあの時、死んだのだ。
何も成し遂げられず。
何者にもなれないまま――。
その事実が、じわじわと胸に広がっていく。
けれど、不思議と涙は出なかった。
……考えること自体が、少しだけ億劫だった。
「……どうせ、行くところもありません。」
紹香はぽつりとつぶやく。
「あなたたちに、従います」
顔良「……」
文醜「……」
田豊は、ほんの一瞬だけ目を細め――そして、ゆっくりと頷いた。
田豊「感謝する。――ええと」
紹香「紹香です。袁、紹香。」
田豊「紹香殿。おぬしは、我らの恩人だ」
戦場を覆った、あの光。
あれがなければ、今この場に立っている者は、ほとんどいなかっただろう。
田豊「決して、悪いようにはせぬ」
紹香は、小さく息を吐いた。
肩の力が、わずかに抜ける。
紹香「……そろそろ、休んでもいいですか?」
身体が重たかった。
――だいぶ前から、ずっと。
紹香「疲れているので」
田豊は、すぐに頷いた。
「もちろんじゃ」
柔らかく言う。
「ゆっくり休まれるがよかろう」
それだけ言うと、田豊は踵を返した。
続いて、顔良が無言のまま振り返る。
文醜も、最後に一度だけ紹香を見て――三人は、天幕の外へと出ていった。
天幕の外。
夜気はひんやりとしていた。
その中を、田豊はゆっくりと歩く。
背筋は伸び、足取りに迷いはない。
だがその背中は、どこか思索に沈んでいるようでもあった。
その少し後ろを歩いていた文醜が、口を開く。
「おい、田豊」
呼びかけに、田豊は足を止めず、わずかに耳を傾ける。
文醜は、顔をしかめた。
「あの娘……大丈夫かよ?」
ちらりと、天幕の方へ視線を向ける。
「まるで死人みたいだぜ」
田豊は、そこでようやく足を止めた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……あの娘が現れた時。そして――戦いの中で発した光」
その光景を思い返すように、目を細める。
あの瞬間。
絶望しかなかった戦場を、一変させた光。
あれは――人の業ではない。
「間違いなく……あの娘は、神が我らの元へ遣わしたのじゃ」
迷いのない言葉。
しかしその声音には、わずかに含みがあった。
「――だが、本人はそれに気づいておらん」
文醜が、鼻を鳴らす。
「そりゃそうだろ。あんな顔してりゃな」
腕を組み、肩をすくめる。
「自分が神様の使いです、なんて思ってる顔じゃねえ」
むしろ逆だ。
全部を失ったような顔。
田豊は夜空を見上げる。
「いずれ、自らの使命に気づこう。それまでは――我々が、支えるしかあるまい」
夜風が、陣を静かに吹き抜ける。
火の揺らぎとともに。
新たな“袁紹”を中心とした運命が、静かに動き始めていた。




