第1話 袁紹ちゃん、号令す。②
田豊の脳裏では、最悪の想定が次々と組み上がっていった。
(……まずい)
もし――袁紹の死が、周囲に知れれば。
味方に伝わった瞬間、動揺が広がる。
「盟主が討たれた」
その一言だけで、連合軍は瓦解する。
兵は逃げる。
将は踏みとどまれない。
戦線は、あっという間に崩壊する。
さらに――
もし敵に知られれば。
徐栄は、迷わず攻め込んでくる。
この好機を逃すはずがない。
追撃。包囲。殲滅。
――壊滅的な敗北。
(どうする――)
一瞬の逡巡。
だが、その時だった。
袁紹の亡骸の上。
空間が――歪んだ。
まばゆい光が、突如としてそこに生まれる。
それは一点から溢れ出すように広がり、周囲の景色を白く塗りつぶしていく。
田豊「――ッ!?」
思わず目を細める。
視界を覆い尽くすような光。
兵たちも、何事かと動きを止めた。
その中心から――人影が、現れた。
ぼんやりとした輪郭が、次第に形を持つ。
そして。
その影は、ゆっくりと重力に従うように落下し――袁紹の乗っていた白馬の背へと、降り立った。
ちょこん。
まるで、そこが元から自分の居場所だったかのように。
白馬の上に、一人の少女が座り込んだ。
風に揺れる、黄色いショートヘア。
見慣れぬ服装。場違いなほど、幼さを残した顔立ち。
少女は、きょとんとした表情で周囲を見回した。
紹香「……え?」
田豊「……え?」
一瞬、時が止まる。
戦場の喧騒すら、遠のいたように感じられた。
だが、田豊の思考は止まらない。
むしろ――猛烈な速度で回り始めていた。
(なんだ、この小娘は。どこから現れた……いや、それはどうでもいい)
重要なのは、ただ一つ。
(この事態を、どう収めるかだ)
袁紹は死んだ。
だが、それを知られてはならない。
ならば――
“袁紹は生きている”と、見せかけるしかない。
そのための一駒。
視線が、少女へと定まる。
一瞬の決断。
田豊は、声を張り上げた。
田豊「袁紹様ッ!!」
その呼びかけは、戦場に響き渡る。
だが――田豊の視線は、地に伏した亡骸ではなく。
真っすぐに――白馬の上の少女へと向けられていた。
紹香「え?」
困惑する少女。
田豊は構わず続ける。
田豊「今が踏ん張りどころですッ!さぁ、我らに号令をッ!」
その声に、周囲の兵たちもざわめき始めた。
新参兵「え? あの女性が……袁紹様?」
古参兵「ばかっ、そんなわけないだろ! 袁紹様は今――」
その言葉を――鋭く遮るものがあった。
シュッ――
一本の槍の穂先が、伸びる。
古参兵の喉元、寸前で止まる。
古参兵「……っ」
冷や汗が流れる。
槍の主。
赤い短髪の荒々しい青年――文醜。
その目は、静かに、しかし強く光っていた。
文醜「袁紹様が、今号令するところだろ」
低く、抑えた声。
文醜「……黙ってろ」
槍は微動だにしない。
だが、その圧だけで十分だった。
兵は口をつぐむ。
空気が、一気に変わる。
紹香「おじいさん、何言ってるの?袁紹って誰? 私の名前は袁・紹香――」
その言葉は、どこか現実味のない響きを持っていた。
だが。
さらに一騎の馬が、静かに近づいてくる。
袁紹軍の将――顔良。
女性でありながら長身。褐色の肌に、鋭い眼差し。
短く切り揃えた髪の側面だけが、編み込まれている。
彼女は、状況を一瞬で見抜いていた。
――田豊の意図を。
ゆっくりと、右手の長刀を持ち上げる。
その切っ先を――少女の喉元へと向ける。
顔良「混乱するのは分かるが――ここは、我々に従ってもらいたい。」
圧。拒否を許さない確固たる意思。
紹香は、なおも状況を理解できていなかった。
ゆっくりと、周囲を見渡す。
土煙。
甲冑。
ぶつかり合う兵たち。
ついさっきまで――受験に落ちて、帰り道を歩いていたはずなのに。
突然の衝撃。
気がつけば――戦場のど真ん中。
(……夢?)
そう思うしかなかった。
世界史の勉強のしすぎで、こんな夢を見ているのだろうか。
だが、風の匂いも、地面の感触も、あまりにもリアルだ。
――それでも。
もう、考える気力が残っていなかった。
紹香は、大きく息を吐いた。
肩の力が抜ける。
紹香「……わかりました。どうすればいいの?」
諦めにも似た声。
その瞬間――
紹香の身体が、かすかに光に包まれた。
淡く、柔らかい光。
それが、ゆっくりと広がっていく。
紹香を中心に、波紋のように。
兵たちの足元へ。
武器へ。
鎧へ。
やがて――袁紹軍全体を包み込む。
袁紹兵「……なんだ、この光は?」
袁紹兵「あの方が……袁紹様?」
袁紹兵「う……美しい……」
視線が、吸い寄せられる。
光の中心。
白馬の上の少女へと。
田豊は、その光を見て――確信した。
(……あぁ、神よ。我らを救って下さるか。)
田豊は、静かに言う。
「ただ、命じて下さればよいのです。敵を――殲滅せよと。」
紹香は、一瞬だけ目を閉じた。
そして、頷く。
大きく息を吸い込む。
肺いっぱいに空気を満たし――叫んだ。
「敵をッ! 殲滅しなさいッ!!」
――オオオオオオオ――ッ!!
その声に応えるように、袁紹軍の兵たちが一斉に吠えた。
さきほどまで押されていたはずの兵たちが。
まるで別人のように、一斉に前へと踏み込む。
士気が――爆発的に跳ね上がる。
彼らは董卓軍へと、怒涛のように襲いかかった。




