元魔王様、現代世界に転生、工場の作業員として働く~今日もゼロ災でいこう ヨシ!~
End_is_Zéro_Project
午前八時。
工場の一角に、作業着に身を包んだ男たちが整然と並んでいた。
「じゃあ、点呼取るぞぉ」
班長の鈴木が手元の名簿に視線を落とす。
「田中」
「はい」
「佐藤」
「はいよ」
「黒崎」
「はい」
黒崎は短く応じた。
頭には作業帽。足元には重厚な安全靴。新調されたばかりの紺色の作業着が肌に馴染む。
今日もまた、一日が始まる。
「全員揃ってるな。じゃあ本日の予定だが、午前は昨日の続きで三番ラインの生産。午後から段替えが入るから、担当はあらかじめ準備を進めておいてくれ」
鈴木班長の説明に耳を傾けつつ、黒崎は頭の中で自らの受け持ち工程をひとつずつ確認していく。
「それと、フォークリフトが頻繁に行き交うから、通路へ不用意に物を置かないこと。昨日もヒヤリハット報告が出ているから、周囲の安全確認は徹底的にな」
「はい」
いくつもの声が静かに重なった。
「よし、指差呼称いくぞ」
その一言に、黒崎はすっと背筋を伸ばし、姿勢を正した。
班長が勢いよく腕を突き出す。
「今日も一日――ゼロ災でいこう!」
「ヨシ!」
揃った声が大気を震わせる。
黒崎もまた、寸分の狂いもなく指を差し出し、腹から声を張った。
不思議なものだった。
この世界に生を受け、二十数年。
人間として暮らし、社会に溶け込んで働くようになった今でさえ、この光景にだけは妙な既視感と懐かしさが込み上げてくる。
かつて黒崎が魔界の頂点に君臨し、全土を統べていた頃にも、酷似した儀礼が存在した。
――始作五唱。
血の嵐が吹き荒れる戦場へ赴く前、漆黒の軍勢を整列させ、その日の陣形と討伐目標を刻みつける式典。
何千、何万という異形の兵どもが、地鳴りのような咆哮を揃えて呼応した。
あの頃は常に、我がその軍勢の絶対的な先頭に立っていた。
黒崎の視界の端で、一瞬だけ太古の記憶が重なり合う。
整列する魔族たち。
月光を浴びて掲げられる無数の刃。
我の絶対的な号令を待ち望む漆黒の軍勢。
――肉体が、その魂の記憶を覚えていた。
黒崎は衝動のまま、力強く腕を天へと掲げた。
「魔王軍――出陣せよ!」
「…………」
返事は、なかった。
黒崎は腕を掲げたまま、おそるおそる周囲へ視線を巡らせた。
同僚たちも、班長も、全員が無言でこちらを凝視していた。
「…………」
しまった。
ここは魔王城の謁見の間ではない。
黒崎は静寂の中、極めて滑らかに、音もなく腕を下ろした。
「……ご安全に」
誰も、何ひとつ触れなかった。
「……じゃ、今日も安全作業でお願いします」
班長の淡々とした一言で、朝礼は静かに解散となった。
黒崎もまた、何事もなかったかのような凛とした佇まいで自らの持ち場へと歩みを進める。
今日も一日、人間の仕事が始まる。
朝礼が終わり、黒崎は三番ラインの持ち場へとついた。
主電源が投入され、静まり返っていた場内に機械の重厚な駆動音が広がっていく。
「黒崎、今日もここのライン頼むな」
「はい」
隣の工程を担当する先輩に短い返事を返し、黒崎はすぐさま作業へ取りかかった。
コンベアで流れてきた金属部品を手際よく手に取り、指定の位置と傷の有無を確認する。
異常がないことを目視し、次工程のエリアへと送る。
また、ひとつ。
そして、次。
寸分違わぬ動作が延々と繰り返されていく。
黒崎は、この職務を決して嫌いではなかった。
遂行すべき手順があらかじめ厳密に定められている。
規定通りの工程を守り、目標となる数量を確実に作り上げる。
一見すれば単純作業に過ぎないが、だからといって気を抜いていい理由にはならない。
たったひとつの不注意や油断が、後続の全ラインへと悪影響を及ぼす。
無数の配下へ命令を下し、陣形を維持させていたかつての時代と、本質は何ひとつ変わらない。
「黒崎、ペース上がってきたな」
「ありがとうございます」
「入社したての頃なんて、お前めちゃくちゃ手に力入ってたもんな」
「……すみません」
「ハハッ、製品を物理的に壊さなきゃ何でもいいよ」
先輩は朗らかに笑うと、自らの持ち場へと戻っていった。
黒崎は手元にある小さな部品を見つめた。
力加減。
この脆弱な人間の肉体になってから、その微調整を身につけるまでには相応の時間を要した。
前世の感覚とはまるで勝手が違う。
今の我は魔王ではない。
黒崎という名を与えられた、ただの一兵卒――ひとりの作業員だ。
そして現在の我に課された絶対の任務は、世界を支配することでも、死霊の軍勢を率いることでもない。
本日の生産予定数を、定められた時間内に無事故で達成することに他ならない。
「よし」
気合を入れ直し、黒崎は再び作業の渦へと意識を没入させた。
午前の生産は極めて順調に推移した。
昼の休憩時間を挟み、午後からは予定通り製品の品種切り替えが執り行われる。
材料が整然と入れ替えられ、各ラインの稼働音が一斉に再開した。
黒崎も持ち場で淡々と確認作業を継続する。
やがて、聞き慣れた高音の警告ブザーが背後から耳に届いた。
フォークリフトの接近音だ。
朝礼時にも班長から厳重に注意を呼びかけられていた案件だった。
黒崎は一度手元の動きを止め、安全確認のために通路へと視線を向ける。
パレットいっぱいに資材を積み上げたフォークリフトが、低速でこちらへと接近してくるのが見えた。
距離、速度ともに問題なし。
そう判断し、再び手元のラインへ意識を戻そうとした――その時だった。
「おーい、黒崎! これどこ置くんだ?」
先ほどの先輩が、両手で大きなダンボール箱を抱え込んだまま、無警戒に通路の真ん中へと足を踏み出してきた。
黒崎の思考が瞬時に固まる。
先輩の視線は黒崎へと向けられている。
自らの後方に対する意識が完全に抜け落ちていた。
旋回しながら接近するフォークリフト。
それにまったく気づいていない先輩。
「先輩」
「あ?」
黒崎は手にしていた部品を静かに作業台へ置いた。
「後ろです」
「え?」
能天気に振り返る先輩。
その視界のすぐ目と鼻の先まで、巨大な鉄の塊が迫っていた。
「危ない!」
叫ぶと同時に、先輩が反射的に身を竦めようとした。
だが、遅い。
資材を山積みにした鉄の塊が、目前まで迫る。
人間の回避運動では到底、間に合わない。
万事休す――そう思考した一瞬、黒崎の肉体は意思よりも早く動いていた。
大きく右手を突き出した。
その直後。
旋回していたフォークリフトの車体が、不可視の力場に弾かれたかのように、不自然な軌道を描いて側方へ大きく滑った。
「うわっ!?」
運転席からの引きつった悲鳴。
金属を擦りつける甲高いブレーキ音が、工場内の騒音を切り裂いて響き渡る。
巨躯は先輩の衣服をかすめる寸前で真横を通り抜け、数メートル先で揺れながら完全停止した。
「…………」
先輩が固まっている。
運転手も蒼白な顔のまま固まっている。
そして黒崎自身も、突き出した体勢のまま身動ぎひとつできなかった。
騒ぎに気づいて周囲の作業員が動き始める中、黒崎の耳には離れた工程の機械音だけが妙に鮮明に響いていた。
「……今の」
先輩がおそるおそる、目と鼻の先で止まったフォークリフトへと視線を向ける。
「なんで……曲がった……?」
黒崎は応じなかった。
ただ、突き出していた自らの右手を見つめる。
確実に、手のひらを通じて伝わった感覚があった。
ほんの刹那。
人間の矮小な肉体の奥底から、滾るような「ナニカ」が放出されたのだ。
忘れるはずもない。
かつて暗黒の覇王として幾千の戦場で振るい続けた、絶対なる魔力。
かつては自らの意思ひとつで天変地異すら引き起こしていた、あの破滅の波動。
黒崎はゆっくりと、その右手を握り締めた。
この平穏な人間に生まれ変わって以来、一度たりとも覚醒することのなかった感覚だった。
「おい! 大丈夫か!?」
遠くから怒号のような声が飛び交う。
異常を察知した何人もの作業員たちが、青ざめた表情で駆け寄ってきた。
「大丈夫です! かすってもいません!」
先輩が必死の声で応じる。
黒崎も冷静に双方の無事を目視で確認する。
怪我人はゼロ。
フォークリフトの運転手にも怪我はなく、資材の落下もない。
ならば――今は、それで十分だ。
「黒崎、お前は大丈夫か!?」
「はい」
「いや、お前めちゃくちゃ凄い顔して手ぇ差し出してたぞ……」
「……問題ありません」
黒崎はもう一度だけ、自らの拳を見つめた。
魔王としての力が還ってきたのか。
そう結論づけるには、あまりに現象が小さく、断定には早すぎる。
だが――。
「黒崎?」
「いえ。なんでもありません」
黒崎はすっと手を下ろした。
今は定時前の勤務時間中だ。
この奇跡と超常現象についての考察は、今日の定時退社後に一人でやればいい。
しばらくして班長らによる現場の安全確認と点検が完了し、一時停止していた三番ラインが再び稼働を始めた。
黒崎も静かに己の持ち場へと戻る。
コンベアに乗って流れてきた製品を、手際よく手に取る。
傷の有無を確認する。
次工程のエリアへと送り出す。
そして、またひとつ。
何があろうと、本日の生産予定数は、まだ残っているのだから。
それからは、何事もなく静かに時間が流れていった。
黒崎は淡々と流れてくる製品を目視し、異常の有無を確認しては次工程へと送り出す。
ひとつ。
(よし、今のペースなら残業が30分くらいか、いや定時で終われそうだな)
そしてまた、ひとつ。
やがて規定の数量を作り終え、重厚なラインの稼働音が静かに停止した。
「よーし、お疲れ! 本日の生産、無事に予定数達成だ!」
工場内に鈴木班長の高らかな声が響きわたる。
黒崎は胸の中で小さく安堵の息を吐き出した。
「お疲れさまでした」
周囲の同僚たちからも一斉に労いの声が上がった。
今日も無事に、一日の職務が完了した。
思い返せば、朝礼では指差呼称の勢いに呑まれ、思わずかつての魔王軍へと号令を叫んでしまった。
午後には先輩がフォークリフトと衝突しかけ、失われたはずの魔力が不可解にも一瞬だけ覚醒した。
波乱に富んだ一日だった。
だが、誰ひとりとして傷を負わなかった。
会社から課された本日の生産目標も、滞りなく達成された。
ならば――トータルで見れば、十分に悪くない一日だったと言えるだろう。
黒崎は汗の滲んだ作業帽を脱ぎ、ロッカールームへと足を進めた。
突如として脈打ったあの力の残滓は、当然ながら気になる。
あの覚醒の感触が本物だったのか、それとも肉体の幻妄だったのか、改めて静かな環境で検証を重ねる必要もあるはずだ。
それも、明日になれば心ゆくまで思考を巡らせることができる。
明日は、待ちに待った休日だ。
昨日買ったばかりの『サタン is デビル』が、我を待っている。
気付けば、黒崎の足取りはほんの少しだけ軽やかさを帯びていた。
「黒崎くーん」
背後から鈴木班長の声が届いた。
黒崎は足を止め、すっと踵を返して振り返る。
「あ、ごめんね。明日なんだけどさ」
「はい」
「朝九時出勤で、休日ライン立ち上げお願いできるかな?」
「…………」
黒崎は鈴木を凝視した。
鈴木もまた、営業スマイルを張り付けたまま黒崎を見つめ返している。
「…………」
明日は、間違いなくカレンダー通りの休日だったはずだ。
「……休日出勤手当は?」
「ちゃんとでる!」
――完――
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
読み手様、今日も一日お疲れさまです。
ご安全に! ヨシ!
【蒼色ノコトネ/End_is_Zéro_Project】




