悪役令嬢を騙りたくて ~沙羅双樹の華の色~
End_is_Zéro_Project 4th
「君との婚約を、破棄したい」
唐突に投げつけられた言葉。
そう告げた鷹司秀明の傍らには、見知らぬ少女――小夜が寄り添っていた。
上質な仕立ての洋服を誇らしげに纏う秀明の佇まいとは対照的に、小夜の装いは質素な銘仙の着物そのものだった。
洋館の応接間という場違いな空間の居心地の悪さに耐えかねているのか、先ほどからただ俯き、絨毯の模様の一点に視線を落とし続けている。
静寂の中、持ち上げていた磁器のティーカップをソーサーへとそっと戻す。
乾いた音が室内に静かに響いた。
「理由を伺っても?」
「僕は彼女を愛している」
秀明は庇うように小夜の細い肩を抱き寄せ、揺るぎない自信を覗かせて言い切った。
「家柄や身分なんて関係ない。古くさい家に縛られて結婚するなんて、僕にはできない」
「……そうですか」
口から漏れ出たのは、冷ややかな感傷を含んだ小さな溜め息だった。
「何がおかしい」
「いいえ。ただ――」
まなざしを小夜へと向ける。
わずかに持ち上がった彼女の瞳と、ほんの一瞬、薄氷のような視線が交錯した。
「ずいぶんと、お似合いだと思いまして」
「彼女を馬鹿にするな!」
苛立ちを露わにした秀明が力任せにテーブルを叩く。
その衝撃に、小夜の肩がびくりと跳ね上がった。
「……私を馬鹿にするのは構いません」
それまで息を潜めていた小夜が、初めて顔を上げた。
「でも、秀明様を侮辱するのはやめてください」
遮るものなく向けられた瞳には、先ほどの怯えを塗り潰すほどの強い意志が宿っていた。
「身分が違うからって、人の気持ちまで決めつける権利はないと思います」
「……そう」
まっすぐに見つめ返し、静かに告げる。
「よく覚えておきますわ」
「待て、綾乃。婚約破棄を認めるんだな?」
「ええ。お好きになさればよろしいかと」
「後悔しても知らないぞ」
去り際に背中に投げかけられた捨て台詞に、歩みが止まる。
ゆっくりと振り返る。
「それは――」
視線の先で捉えたのは秀明ではなく、その隣で息を詰める小夜だった。
「こちらの台詞ですわ」
小夜は応じなかった。
ただ、帯の上で固く重ねられた指先だけが、微かに震えていた。
重厚な洋館を辞そうとした時、冷ややかな廊下に声が落ちた。
「待ってください」
踵を返すと、そこに佇んでいたのは追ってきた小夜だった。
傍らにあるはずの秀明の影はない。
「何か?」
「……私、あなたに謝るつもりはありません」
「あら」
思いのほか、躊躇のない響きだった。
「私があの人を好きになったことも、あの人が私を選んでくれたことも、悪いことだとは思ってません」
「そうですか」
「だから――」
小夜はきつく唇を噛み締め、それでも逸らすことなく視線をぶつけてくる。
「何をされても、あの人から離れるつもりはありません」
呆れたように、小さく息を吐く。
「安心なさい。何もしませんわ」
「……え?」
「あなたから彼を奪い返すつもりも、あなたを追い出すつもりもありません」
思いがけない言葉に、小夜は怪訝そうに眉を寄せた。
その余白をなぞるように、足早に横を通り過ぎる。
「ただし」
歩みを止め、言葉だけを背後に落とす。
「選んだ以上、最後まで責任はお持ちなさい」
「もちろんです」
躊躇のない即答。
もう振り向くことなく、そのまま静かに歩みを進める。
「……その言葉、忘れないでくださいませ」
張りつめた空気の中、背後からの返答は途絶えていた。
婚約の糸が切られてから、ひと月も経たぬ頃のことだった。
「どういうことだ!」
怒声が鷹司家の執務室の壁を震わせる。
机の上には、幾通もの冷酷な電報と書状が散乱していた。
見直しの突きつけられた綿糸の取引。
保留された銀行からの融資。
長年庇護を受けていた政財界からの、あっけのない手切れの通知。
「僕が何をしたっていうんだ!」
「婚約を破棄したからだ!」
苛烈な父親の怒号が部屋を支配する。
「あれは僕個人の問題だ! 家には関係ない!」
「九条家との繋がりがあったからこそ、当家がどれほど信用を得ていたか分からんのか!」
秀明は言葉を失い、喉を鳴らした。
そんな家格という現実の重みなど知る由もなかった。
ただ不本意な女との縛りを解き、望む相手を選んだだけのはずだった。
その決断のどこに過ちがあったというのか。
「……秀明様」
部屋の隅、陰に身を潜めていた小夜がおそるおそる言葉を挟む。
「今は、お父様のお話を――」
「うるさい!」
苛立ちの怒声に、小夜の身体が跳ねる。
「君が余計なことを言うからだ!」
「え……?」
「君が身分なんて関係ないと言ったんじゃないか! 僕なら大丈夫だって!」
「そんな……私は――」
「僕がこんな目に遭っているのに、君は何も失ってないじゃないか!」
小夜は唇を閉じ、沈黙に沈んだ。
秀明は粗暴に書状を掴み取ると、床へ叩きつけた。
「くそっ……!」
舞い散り、足元に落ちた一通の封書。
小夜が静かに手を伸ばし、それを拾い上げる。
裏面に刻まれた『九条』の名を目にした瞬間、その指先がぴたりと固まった。
「……どうした?」
「いいえ」
淡々と封書を机へ戻す。
「なんでもありません」
ほんの一瞬。
その顔から、おどおどとした怯えの色彩が完全に消え去っていた。
「ずいぶん、お困りのようですわね」
静寂を破って響いた聞き覚えのある声に、秀明は弾かれたように顔を上げた。
「……なぜ君がここにいる、綾乃」
「ご挨拶ですこと」
扉の傍らに佇んでいたのは、九条綾乃だった。
以前と変わらぬ、静水のように冷ややかな佇まい。
その姿を視界に収めた瞬間、秀明の顔が怒りで歪んだ。
「君の仕業か」
「何のことでしょう?」
「とぼけるな! 取引も融資も、全部だ! 父上から聞いたぞ。九条家が手を引いた途端、皆が――」
「おかしなことを仰いますのね」
綾乃は小さく首を傾げてみせる。
「婚約は解消したのでしょう?」
「それがなんだ!」
「でしたら、我が家があなた方とのお付き合いを見直すことに、何の問題が?」
喉を詰まらせ、秀明の言葉が途絶える。
「私はあなたの望みを受け入れただけですわ」
「……僕への嫌がらせだ」
「まあ」
白皙の手に口元を沿わせる。
「ご自分から捨てた女に、いつまで支えてもらうおつもりでしたの?」
「貴様……!」
衝動に任せて立ち上がる秀明。
その時、背後で微かな絹擦れの音が落ちた。
振り返ると、そこに小夜が佇んでいた。
「……来ていたのか」
小夜は応じない。
ただ、射抜くような眼差しで綾乃を見つめていた。
「あなた、やっぱり……」
「あら。何か?」
「この人を、こんな目に遭わせて楽しいんですか?」
静けさの中で、綾乃はしばらくの間、小夜の瞳を見つめ返した。
「ええ」
そして、薄く微笑みを浮かべる。
「とても」
小夜の拳が、爪が肉に食い込むほどきつく握りしめられた。
「……最低」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
二人の間に、密度の高い冷ややかな沈黙が落ちる。
秀明はそれを見つめ――歪んだ満足感を滲ませて、微かに笑った。
「ほら見ろ。結局、君はそういう女なんだ」
「そうですわね」
綾乃は否定しなかった。
「ですから最初から申し上げているでしょう?」
す、と一歩、秀明へと歩み寄る。
洋装の裾が擦れる小さな音すら、冷ややかなプレッシャーとなって室内を圧迫した。
「後悔しても、知りませんわよ、と」
「もういい!」
秀明は激昂し、重厚な執務机を力任せに叩きつけた。
「君の狙いは分かっている。僕を困らせて、婚約を破棄したことを後悔させたいんだろう?」
「…………」
「残念だったな。家がどうなろうと、僕には彼女がいる」
秀明は縋りつくように、背後の小夜へ手を伸ばした。
「そうだろう、小夜?」
しかし、小夜は身動ぎひとつしなかった。
差し出された秀明の手を、ただ静かに見つめている。
「……どうした?」
「私、言いましたよね」
静かな、水滴が落ちるような声だった。
「何をされても、あなたから離れないって」
「ああ。だから――」
「無理でした」
秀明の手が、宙で凍りついた。
「……は?」
小夜は秀明の横を滑らかに通り過ぎた。
一歩。
もう一歩。
足音も立てず歩みを進め、そのまま綾乃のすぐ隣へと佇む。
「お待たせしました、綾乃様」
「ええ。本当に」
綾乃は小さく、溜め息を零した。
「随分と長いお芝居でしたわね」
「仕方ないじゃないですか。誰かさんが、最後まで見届けて確信を得ろっておっしゃったんですから」
「な……」
秀明の顔面から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「何を……言ってるんだ……?」
綾乃と小夜は、示し合わせたように顔を見合わせた。
「いつからだ」
秀明の声が、みっともなく震え出す。
「いつから僕を……騙していた!」
「騙す?」
綾乃が優雅に首を傾げてみせる。
「人聞きの悪い」
小夜が懐の革鞄から、一通の封書を取り出した。
あの日、怒声の飛び交う部屋の床で拾い上げた、あの封書だった。
「あなたが感情に任せて私を怒鳴りつけたことも」
机の上へ、一通。
「家や事業の責任を、身分違いの私に押しつけたことも」
もう一通。
「お父様に隠して積み重ねていた、個人的な借金のことも」
さらに、もう一通。
乾いた音を立てて、逃れようのない証拠の書類が重なっていく。
「全部、あなたがご自分で蒔いた種ではありませんか」
「まさか……お前、最初から……!」
「彼女を責めるのはお門違いですわ」
綾乃がすっと一歩、前へ出た。
「鷹司家の品性を確かめるようにお願いしたのは、私ですもの」
「いつからだ……! 最初から僕をハメるつもりだったのか!?」
綾乃は少し思案するように、静かに目を伏せた。
やがて、極上の、しかし冷酷な笑みを唇に刻む。
「さて――」
その隣で、小夜もまた薄く微笑んだ。
「いつからでしょうね?」
この部屋でただ一人、秀明だけが笑っていなかった。
やがて、糸が切れたようにその膝から力が抜け落ちる。
秀明は力なく椅子へ崩れ落ち、両手で顔を覆った。
二人の女性は、崩れ去った男の姿を黙って見下ろしていた。
◆
後日。
柔らかな陽光が差し込む窓辺で、二人の女が向かい合っていた。
白磁のティーカップから、細い湯気が立ち昇る。
小夜はカップを両手で包みながら、ふと思い出したように口を開いた。
「……で、いつからグルだったか、あの方に教えなくてよかったのですか?」
綾乃は答える代わりに、静かにカップを持ち上げた。
ひと口。
ゆっくりと紅茶を味わってから、涼しい顔でソーサーへ戻す。
「ええ」
小さく、優雅に微笑む。
「死ぬまで『自分がどこで間違えたか』悩み続ければよろしいわ」
一瞬の沈黙。
やがて小夜も、堪えきれないように微笑んだ。
二つのティーカップが、静かな午後の陽射しを受けていた。
――完――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
悪役令嬢って、誰にとっての「悪役」なんでしょうね。
今回はそんなことを考えながら、少しだけ意地の悪いお話を書いてみました。
綾乃と小夜がいつから――という部分については、ご想像にお任せします。
【蒼色ノコトネ/End_is_Zéro_Project】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
悪役令嬢って、誰にとっての「悪役」なんでしょうね。
今回はそんなことを考えながら、少しだけ意地の悪いお話を書いてみました。
綾乃と小夜がいつから――という部分については、ご想像にお任せします。
【蒼色ノコトネ/End_is_Zéro_Project】




