End_is_Zéro_
End_is_Zéro_Project 3rd
俊彰の右手に、黒が集まっていた。
炎のように揺らめくことはない。
光を放つこともなければ、肌を焼くような熱すらない。
ただ、黒い。
夜よりも深く、影よりも濃い漆黒が、右手の輪郭に沿うように静かにまとわりついている。
その周囲だけ、景色が歪んでいた。
指先の向こうに見える草原がわずかに捻れ、地平が揺らぐ。
熱気による陽炎とは違う。
俊彰が手を動かすたび、空間の歪みそのものが右手を追うようについてくる。
「…………」
――これ、本当に使うのか?
ドンッ、と腹の底を直接叩くような重低音が足元を通り抜ける。
前方では、《煉獄獣グランヴァル》がその巨体を極限まで沈め込んでいた。
二階建ての家屋にすら達する巨躯。
その四肢が地面を踏み砕くたび、土が弾け、草が根ごと宙へ舞う。
爛々と輝く赤い双眸は、真っ直ぐに俊彰だけを殺意とともに捉えていた。
グランヴァルが地を蹴った。
巨体からは想像もつかない爆発的な加速だった。
一歩。地面が沈み込む。
二歩。土煙を突き破り、巨大な頭部が眼前に迫る。
額から伸びた角が左右の空気を鋭く切り裂き、低く突き出された牙の隙間から、熱を帯びた吐息が白く吹き出した。
俊彰は動かなかった。
迫るグランヴァルを見据えたまま、俊彰は五本の指をゆっくりと開いた。
黒いモヤが、その動きに合わせて指先まで滑らかに広がっていく。
原理は分からない。
なぜ使えるのかも。
これを放った先に何が起きるのかさえ、俊彰自身、正確には理解していなかった。
単なる威力の大小ではない。
炎が燃え広がるような物理的な力でも、鋭利な刃で何かを断ち切るような攻撃でもない。
もっと根本的な――世界の理を脅かす何か。
右手を覆う黒を中心に、空間の歪みが一段と深くなる。
草原の緑が歪に引き伸ばされ、空の青が曲がり、その境界線が黒へ向かってわずかに沈み込んでいった。
俊彰の背筋を、氷のような冷気が駆け抜ける。
己の手にある力を、自分自身の生存本能が拒絶し、恐れていた。
グランヴァルが、さらに一歩踏み込む。
丸太ほどもある前脚が大きく持ち上がった。
巨体が落とす黒い影が俊彰の頭上を完全に覆い尽くし、注いでいた陽光を遮断する。
逃げるなら、今しかない。
俊彰は迫り来る巨大な爪を見上げ――
右手を、静かに下ろした。
三十年前。
十四歳の岡島俊彰が、本気で考えた。
誰よりも強く。
誰よりも圧倒的で。
どんな敵を前にしても決して揺るがない。
そんな『最強の自分』だけが扱える、最後の術式を。
巨大な前脚が振り下ろされる。
空気が暴力的に押し潰され、俊彰の髪と衣服が激しく煽られた。
頭上いっぱいに広がる無数の爪が、注いでいた陽光を完全に遮る。
俊彰は動かない。
右足を半歩引き、身体をわずかに斜めへと向ける。
肩の力を、すっと抜いた。
そして、下ろしていた右手をゆっくりと持ち上げる。
人差し指と中指を揃え、右目の前へ。
二本の指の隙間越しに、グランヴァルの爛々と輝く赤い双眸を捉える。
黒が、蠢いた。
右手を覆っていた漆黒が手首へと流れ、腕全体へ蛇のように絡みつく。
細い筋となった黒が幾重にも重なり合い、俊彰の周囲で緩やかな渦を描き始めた。
足元の草が伏せる。
小石が震え、ひとつ、またひとつと重力を無視して地面から浮き上がった。
振り下ろされていたグランヴァルの前脚が、突如として止まる。
俊彰の頭上、わずか数メートル。
巨大な爪が、空間に縫い付けられたかのように宙で静止していた。
グランヴァルの喉奥から、怯えを孕んだ低い唸り声が漏れ出す。
先ほどまで俊彰の全身を射抜いていた赤い双眸が、初めて右手を纏う『黒』へ向いた。
俊彰は、その決定的な変化を見逃さなかった。
口元を、わずかに吊り上げる。
「どうした?」
返事の代わりに、グランヴァルが猛然と牙を剥いた。
大気を激しく震わせる咆哮が至近距離から叩きつけられる。
俊彰の背後へと凄まじい風圧が抜け、広大な草原が大きく波打った。
それでも。
二本の指は微動だにしない。
据えられた視線すら、一切外さなかった。
「傷つけるというのなら、傷つけられる覚悟もあるのだろう?」
揃えていた二本の指を、ゆっくりと下ろす。
その所作に同調するように、腕へ絡みついていた黒が右手へと一気に収束していく。
指先から。
手の甲へ。
掌へ。
黒が重なるたび、その深さだけが極限まで増していく。
やがて輪郭すら曖昧になり、俊彰の右手だけが世界のキャンバスにぽっかりと穿たれた穴のように染まりきった。
グランヴァルが一歩、下がる。
巨体を支える前脚が地面を強く擦り、深い二本の溝を刻みつけた。
俊彰はその姿を、冷酷なまでに静かに見上げた。
「三千年か……随分と好き勝手に育ったものだ」
右手をゆっくりと前へ向ける。
掌の先で、景色がグニャリと歪んだ。
グランヴァルの巨躯の輪郭が縦に引き伸ばされ、歪曲し、元へ戻る。
もう一度。
今度はさらに大きく。
空間そのものがドクンと脈打っているかのように。
俊彰は右手を向けたまま、静かに、そして残酷に告げた。
「ならば、創った者として――俺が終わらせよう」
時が止まり、風が死んだ。
それまで草原を渡っていた風が、大気の音すら連れて消えていく。
グランヴァルが低く唸る。
巨体が深く沈んだ。
四肢が力任せに大地を掴み、爪が土の奥深くへ食い込む。
次の瞬間、地面が豪快に爆ぜた。
グランヴァルが一直線に突っ込んでくる。
踏み込むたびに巨躯が大きく揺れ、足元から弾けた土と石が激しい飛沫となって後方へ吹き飛んだ。
俊彰は、迫り来る赤い双眸を凝視した。
「すべては零より生まれ――」
低い声が、静まり返った草原を通る。
「そして、零へ還る」
グランヴァルが咆哮した。
牙を剥き、頭部を振り上げ、そのまま俊彰を肉塊に変える勢いで前脚を高く振りかぶる。
陽が陰った。
俊彰の足元へ、絶望的な影が落ちる。
頭上には巨大な爪。
それでも俊彰の視線は揺れない。
右手を覆っていた黒が、掌へと一気に集まっていく。
爪が落ちる。
俊彰は右手を前へ突き出した。
掌の黒が、一度だけドクンと脈打つ。
迫る爪。
その向こうにある赤い双眸。
俊彰は真正面から射抜いた。
《――End_is_Zéro_》
黒が放たれた。
爆発はなかった。
閃光も、轟音すら存在しない。
掌から溢れ出た黒は地を這うように滑らかに広がり、振り下ろされたグランヴァルの前脚へと絡みついた。
「――ッ!」
前脚が、宙で静止する。
黒は止まらない。
爪から脚へ。
脚から肩へ。
巨大な胴体へ。
グランヴァルが身を捩り、黒を振り払おうと狂暴に暴れ回る。
そのたびに地面が激しく抉れ、巨体が草原を踏み荒らしていくが、一度まとわりついた黒は決して剥がれない。
むしろ、加速して広がる。
背を覆い、腹へ回り込み、残る三本の脚を容赦なく呑み込んでいく。
グランヴァルが大きく口を開いた。
咆哮が響くより早く、その頭部までが暗黒の領域に沈む。
最後に残った赤い双眸が、俊彰を睨みつける。
黒が閉じる。
赤が、消えた。
そこに残されたのは――
巨大な、漆黒の球体だった。
漆黒の球体が、草原のただ中に浮かんでいた。
二階建ての家屋ほどもあるグランヴァルを丸ごと呑み込んでなお、その表面には継ぎ目ひとつ存在しない。
光を映さず、向こう側の景色すら透過させない。
そこだけが世界のキャンバスから丸く切り取られたかのように、深い黒に染まっていた。
――ドンッ!
黒球が大きく跳ね上がった。
内側から猛烈に突き上げられた表面が歪み、巨大な爪の輪郭が浮き上がる。
もう一度。
――ドンッ!
今度は反対側。
黒い膜を突き破らんばかりに鋭い角が突き出し、続けて巨大な頭部の形が浮かび上がった。
グランヴァルは生きている。
そして、暗黒の中で暴れていた。
右へ。
左へ。
巨体を激しく叩きつけるたび、黒球は歪に形を変え、膨らみ、捩れ、今にも内側から爆散しそうになる。
俊彰は右手を向けたまま、その狂乱を静かに見据えていた。
黒球が、ひときわ大きく膨れ上がる。
爪が浮く。角が突き出す。
黒い膜が限界まで薄く引き伸ばされ――
すっと、元へ戻った。
そして。
縮んだ。
「…………」
ほんのわずか。
錯覚とも思えるほどの僅少。
だが、もう一度。
黒球の表面が、内側へ向かって落ち込んでいく。
暴れるグランヴァルを閉じ込めたまま、ゆっくりと。
しかし確実に、小さくなっていく。
内側からの抵抗が狂暴さを増した。
球体の至るところに爪が浮き、角が突き出し、巨大な頭部が黒を押し広げようと抗う。
それでも引き戻す手は止まらない。
黒球は一切の形を崩さぬまま、その狂乱のすべてを内側へ強引に押し戻していく。
グランヴァルの咆哮が響いた。
低く、地を這うような叫び。
黒球を震わせていた咆哮が――次第に、遠ざかっていく。
球体が縮むほど、声も遠のく。
あれほど圧倒的だった影も、もう見えない。
爪も。角も。何も浮かばなくなった。
それでも黒は縮み続ける。
人の背丈ほどだったものが、両腕に収まるサイズへ。
やがて、頭ほどの大きさへと収束した。
俊彰は右手を下ろさない。
誰も声を発することすらできない。
小さくなった黒球だけが、無音のまま宙に浮遊している。
さらに縮む。
拳ほど。
硬貨ほど。
そして――
黒い一点。
針の先ほどの黒だけが、空中にぽつりと残された。
一瞬。
静止する。
俊彰の目の前で。
それは、音もなく消え去った。
あとには何も残らない。
巨体も。血も。骨も。灰すらも。
三千年を生きた《煉獄獣グランヴァル》が存在していた場所には、ただ風に揺れる青々とした草原だけがどこまでも広がっていた。
まるで最初から――
そこには、何も存在していなかったかのように。
静寂だけが、残された。
俊彰は、右手を突き出した姿勢のまま微動だにしなかった。
指先の向こうには、もう何もない。
先ほどまで大地を激しく揺らし、咆哮ひとつで大気を震わせていた巨獣の姿は、影すらどこにも存在しなかった。
やがて、俊彰がゆっくりと腕を下ろす。
右手を纏っていた暗黒は、綺麗に掻き消えていた。
風が、戻ってくる。
足元の草が擦れ合い、宙に舞い上がっていた土埃が俊彰の横を静かに流れていった。
その風を正面から受けながら、俊彰は静かに目を細める。
「……愚か者め」
低く落とされた声だけが、静まり返った草原を静かに渡っていく。
俊彰は誰の影もない前方を見据えたまま、わずかに顎を上げた。
「獣風情が、誰に牙を向けているのか――少しは弁えろ」
それだけを虚空に言い捨てると、彼は静かに背を向けた。
すべては零より生まれ、そして、零へ還る。
《End_is_Zéro_》
――完――
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回のEpisode 3は、既存のお話をベースにしながら、構成や演出を見直したリメイク版になります。
以前のEpisode 3を読んでくださった方には、
「あ、ここ変わったな」
「こういう見せ方になったんだ」
なんて違いも楽しんでもらえたら嬉しいです。
そして、今回初めて読んでくださった方は、
旧版を知らなくてもまったく問題ありません。
このリメイク版から、そのまま物語を追っていただけます。
既存の9話まで読んでくださっている方も、
今回初めてこの物語を見つけてくださった方も、
ここから先を一緒に楽しんでもらえたら嬉しいです。
【蒼色ノコトネ/End_is_Zéro_Project】




