『猫と俺と私』
End_is_Zéro_Project Episode 2nd
ああ……まただ。
また避けられている。
俺が一歩近づけば、ナツは二歩離れる。
もう一歩。
すっ。
さらに一歩。
すっ。
「…………」
おかしい。
俺はどこにでもいる普通のサラリーマン、相川直樹。三十二歳。
朝は決まった時間に家を出て、会社で働き、疲れた体を引きずって帰宅する。そんな代わり映えのない毎日を送っている。
そんな俺が、帰宅して真っ先にすること。
「ナツ~」
愛猫を探すことだ。
「ニャー!」
(ああ、かわいい……)
いた。
今日もかわいい。
いや、昨日もかわいかったし、きっと明日もかわいい。
丸い瞳、ぴんと立った耳、気まぐれに揺れる尻尾。
ただ床を歩くだけで、なぜこれほど絵になるのか。
――いや待て。
そもそも「愛猫」という表現すらおこがましいのではないか。
俺がナツを飼っている?
違う。
断じて違う。
飼っているのではない。
そう。
俺はナツ様のお世話を「させていただいている」のだ。
しなやかな歩調、毛づくろいする姿、何もない空間を凝視する横顔。
そのひとつひとつの挙動、すべてが愛おしく、そして完璧である。
……なのだが。
「ナツ、ほら。カリカリだよ~」
袋を振ってみる。
カラカラ、と聞き慣れた音が部屋に響いた。
「…………」
ナツはこっちを見た。
確かに見た。
そして――ぷいっと顔を逸らした。
「…………」
なぜだ。
やっぱり避けられている。
何か手を打たねばならない。
このままでは、俺の精神がもたない。
◆
翌日。
仕事を終えて退社すると、空から細かな雨が降り始めていた。
「あー……今日、雨降るのかよ。傘持ってきてないな」
仕方なく鞄を頭の上にかざし、小走りで駅へ向かう。
その途中、ふと足を止めた。
視界に入ったのは、いつも通る道にあるペットショップ。
――そうだ。
ナツが喜びそうなもの、何かないだろうか。
気づけば俺は、店の自動ドアをくぐっていた。
店に入った俺は、棚から棚へと視線を走らせた。
おもちゃ。爪とぎ。猫缶。おやつ。
どれならナツは喜んでくれるだろう。
「これは……前に似たようなの買ったな」
却下。
「こっちは……食べるか?」
いや、好みじゃなかったら困る。
真剣だった。
仕事中でもここまで悩むことは、そうそうない。
棚の前を行ったり来たりしていると、ふとひとつの商品が目に留まった。
パッケージには、いかにも幸せそうな顔をした猫。
その下に書かれた文字を読む。
《マタタビ入りカリカリ》
「……これだ」
根拠はない。
だが、これなら喜んでくれる気がする。
ナツが夢中で食べる姿が頭に浮かんだ。
そして食べ終わったあと、俺の足元へすり寄って――。
「…………」
買おう。
もう手は止まらなかった。
気づいたときには商品を握りしめ、レジの前に立っていた。
「いらっしゃいませ~」
ふと顔を上げる。
小柄で愛嬌のある店員さんだった。
二十代半ばくらいだろうか。
商品を受け取った店員さんが、にこりと笑う。
「猫ちゃん、飼われてるんですか?」
――俺に話しかけた?
なぜだ。
何か悪いことをしただろうか。
「……はい」
「わたしも飼ってるんですよ」
そう言って笑った店員さんを見て――
「……かわいい」
「え……?」
しまった。店員さんを見ていたら、つい心の声が口から漏れてしまった。
やってしまったぁ!
いや、違う。違わないけど、そういうつもりで言ったんじゃない。
普段ならこんなことは絶対にやらかさないのに、まともに顔を見ることもできず、思わず視線を逸らす。
訂正するか? いや、今さら訂正したら余計にまずい気がする。
「ですよね! 猫ちゃん可愛いですよね」
「……そうですよね。可愛いですよね」
助かった。
何がどう助かったのか分からないが、とにかく助かった。
「ありがとうございました~」
商品を受け取り、店を出る。
「ふぅ……」
外ではまだ、小雨が降っていた。
傘はない。
けれど今は、そんなことよりナツだ。
これを食べたら喜ぶだろうか。
少しくらい、俺に近づいてくれるだろうか。
袋を濡らさないよう胸元に抱え、小走りで家へ向かった。
◆
「あー……思ったより濡れたな」
玄関を開ける。
「ただいま、ナツ」
「ニャー!」
「……お?」
玄関まで迎えに来たナツが、尻尾をぶんぶんと振っている。
俺にはそれが「早くこっちへ来い」と言っているようにしか見えなかった。
「ナツ、今日は新しいおやつ買ってきたぞ~」
濡れたスーツ?
そんなものは後だ。
買ってきた袋を開け、カリカリを皿へ移す。
ナツの前へ、そっと置いた。
鼻先が近づく。
一度匂いを嗅いで――食べた。
「…………!」
食べた。
ナツが俺の買ってきたものを食べている。
ゴロゴロゴロ。
「ああ……かわいい」
濡れたスーツのまま、その姿を眺める。
たったそれだけでいい。
仕事の疲れも、雨に濡れたことも、さっき店でやらかしたことも、どうでもよくなってくる。
この瞬間だけが、俺にとって何より幸せだった。
――店。
ふと、さっきのペットショップが頭に浮かんだ。
「あの店員さん……可愛かったなぁ」
ぽつりと呟く。
自分でも、どうして今そんなことを思い出したのか分からなかった。
「ニャー!!」
「わっ、なんだよナツ」
外では、いつの間にか雨音が強くなっていた。
俺はそんなことにも気づかず、またナツへ手を伸ばした。
そして――
すっ。
「…………」
やっぱり避けられた。
――完――
読んでいただき、ありがとうございました。
「猫が好き」という気持ちが伝わればいいなと思い、描いてみました。
【作者/蒼色ノコトネ―― End_is_Zéro_Project】




