8.黒い軍服の男
「いや、構わない。それより君はこんなところで何をしているんだ? 拝み屋か何かなのか?」
男の視線が探るように椿を射抜く。
「拝み屋って――何?」
椿がこてんと首をかしげると、男は怪訝そうに目を細めた。
「知らないのか? お祓いをしたり、まじないを請け負う民間の呪術師のことだ。君のように術を扱う者もいる」
「ふーん」
要するに、フリーランスの呪術師といったところだろうか。
椿は自分の屋敷を指さした。
「よく分からないけど、違うわ。私はそこにある黒百合家の娘で椿っていうの」
男は驚きに目を見開く。
「黒百合椿だと……? 黒百合家のお嬢様が何でこんなところに一人でいるんだ」
「それは……私、頭を打って学校をしばらく休んでいたの。だから、勉強に遅れがなようにここで呪術の練習をしていたのよ」
椿の回答に、男はますます焦ったような顔をする。
「だからって、若い娘が一人でこんなところにいるのは危ないだろう。ましてや呪術師の娘というのは魔の物に狙われやすいのだから」
「ふーん、そうなの。じゃあ、次からは気を付けるわ!」
椿があっけらかんとした口調で言うと、男はあきれたように大きく息を吐いた。
「……なんというか、聞いていた話と全然違うな。頭を打って記憶喪失になったとは聞いていたが、性格まで変わったのか?」
「え?」
椿は大きな瞳を見開き、こてんと首をかしげながら男を見つめ返した。
男は顔を微かに赤らめると、困ったように横を向いた。
「……いや、単に驚いただけだ。黒百合家の娘は火・水・土の三属性の使い手だと聞いていたけれど、まさか氷の呪術まで扱えるとは思わなかったからな」
椿は「んー?」と唇に指を当て、上を向いた。
「そう? ただ家に置いてあった呪術書通りに術を使ってみただけなんだけどな。ほらここ、火を扱う呪術の中には温度を操る呪文があるの。それを水の呪術にも応用してみたんだけど、上手くいって良かったぁ。呪術って面白いわね!」
呪術書を両手で抱え、嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる椿。
その様子を見て、男はますます困ったように苦笑いをした。
「ああ、実に面白い」
その笑みに、椿の肩がぴくりと跳ねる。
なんだかそわそわして妙に心が落ち着かない気分になった。
「そ、それでは私はこれで帰りますね。今後は人気のないところに一人で行かないようにします」
「ああ、それがいい」
男はそう言った後で、ふと付け足すようにこう言った。
「今日はもう暗い、俺が家まで送って行こう」
「え? で、でも――」
「いいから。言っただろう、君は狙われやすいと」
断ろうとした椿であったが、男の有無を言わせぬ口調に負け、結局家の前まで送ってもらうことになった。
「それではまた」
黒百合家の屋敷の前まで付くと、男は警棒を脱ぎ、軽く挨拶をして去って行った。
「――あ」
その時、椿は男に送ってくれたお礼を言いそびれたことに気付いた。
(でもあの人、どこかで見おぼえがあるし、もしかしたら近所に住んでいるのかもしれないわ。それならきっとまた会えるわよね)
椿はそんな風に考えた。
なんだか気持ちが妙にふわふわと浮き立つ。
(そうだ、あの人、黒い制服みたいなのを着ていたし、ひょっとしたら近所の交番の巡査かもしれないわ。それならまたいずれ合う機会があるわよね?)
また会ったらきちんとお礼をしないと。
そんな風に考えながら、椿はうきうきと自分の家へと帰った。
***
その日の夜。
雨粒が屋根を叩き、時折吹き込む風が窓をわずかに揺らす。
椿は布団にくるまりながら、心地よい疲労に包まれ、いつのまにか眠りに落ちていた。
するとふと枕元に、ふわりと誰かが立ったような気配を感じた。
(だ……誰?)
重たいまぶたの奥で、警鐘だけがかすかに鳴る。
椿が眠りから覚めたのを悟られないようにそっと薄目をあけると、闇に溶け込むようにして誰かの輪郭が見えた。
華奢な肩、細い首、癖のないさらりとした黒髪。
そこに立っていたのは――恵のように見えた。
(なんだ……恵お姉様か)
安堵が胸に広がり、張り詰めた気持ちが解けていく。
椿は安心して再び目を閉じた。
だが、おかしい。
(お姉様は別の部屋で寝ているはずなのに、なぜこんな夜中に私の部屋に?)
こんな遅い時間に恵が明かりもなしに自分の部屋を訪れる理由などないはずだ。
悪い想像ばかりが膨らんでしまう。
まさか、今まで酷いことをされた復讐に、寝こみを襲おうとでも?
喉がひゅっと細くなり、息が詰まる。
椿が布団の中でゆっくり握り拳をつくり、身構えた瞬間だった。
暗がりの中で、恵はそっと椿の額に手を置いた。
その瞬間、ふわりと春の陽だまりのような温もりが、じんわりと額に広がった。
(気持ちいい……これは……癒しの呪術?)
まるで優しく包まれるように、神経のさざ波が静まり、ひび割れていた痛みがゆっくり溶けていく。
でもおかしい。そんなはずはない。
恵は呪術が使えなかったはず。
(確か伝記によると、恵お姉様は煌夜家にお嫁に行って、煌夜暁臣に見初められるまで呪術は使えなかったはず……)
布団の中で考えようとするが、指先すら動かない。
眠気が、深い湖の底に引きずり込まれるかのように、意識が遠のいていく。
まどろみの中で、椿はぼんやりと考える。
(私が伝記で読んだ歴史と……展開が違う……?)
そう思った瞬間、まるで幼子のように椿は静かに深い眠りへ沈んでいったのであった。




